夜の片隅に立つ少年
その部屋の空気は濃く重く、澱んでいて、息をすることさえ一苦労だ。一歩足を踏み入れれば、ずんと腹の辺りが重くなる。嫌な気配は虻のようにしつこく身体にまとわりついて、そのままどこかへ引きずり込まれそうになる。
荒い呼吸音と衣擦れの音、そして虚ろな呻き声。体臭と膿と薬の匂い。横たわったまま身をよじるだけの憧れの人。五感全てが絶望へと手招きし、涙腺だけがそれに抗えずにいた。
それでも。他の大人たちが諦めても、それとなく諭されても、この部屋に通うことは辞めなかった。だって、逃げたくなかったのだ。この方は逃げずに父を救ってくれたから。
この胸の痛みなど、生きたまま火に焼かれる覚悟に比べれば、ただの弱さでしかないのである。
◇
その日もおれは、ぬるま湯の入った木桶を手にその部屋を訪れた。数日前の火災で大火傷を負った小頭は、全身を包帯で巻かれ、いまも危篤状態にある。大人たちの表情は日に日に暗くなっていったが、それでもおれは信じていた。
あの日、炎の中から父を抱えて現れた時のように、この人はきっと死の淵からも戻ってくる、と。
「小頭、おはようございます」
元気よく言ったつもりが、声は裏返り滑稽に部屋に響いた。返事は返ってこなかったものの、上下する胸が希望を繋ぎ止める。
「……失礼いたします」
包帯を換えようと早速小頭の手を取り、おもむろにそれを解いていく。何を隠そう、この時間が一番苦手だった。癒着した包帯はまるでできたばかりの瘡蓋のようで、剥がすたびに一際大きな呻き声が上がる。
「大丈夫です。大丈夫……」
一体何が大丈夫なのか、自分でもさっぱり分からない。ときどき、この行為が手当なのか祈りを捧げているのか分からなくなることがある。大人たちの反応を見るに、自分のこれは祈りなのかもしれない。
また五感が絶望へと手招く。視界が滲む。こんな苦しみを負ってまで、この方は父を救ってくれたのだ。
「ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
意識のあるこの方に、きちんとお礼を伝えたい。こんなところで死んでほしくない。泣いてはいけないと毎日のように決心するのに、今日もまたボロボロと涙が溢れ出す。
その時だった。
「あぁっ、ダメ! ちょっと待って、それじゃあダメ!」
突然、女の声が部屋に響いた。背後から聞こえたそれに咄嗟に振り返る。そこには見知らぬ女の姿があった。バタバタとこちらに駆け寄ってくるその人に、すぐ傍にあった鋏をすかさず投げつける。
「曲者ッ!」
鋏は女に向かって真っ直ぐ飛んでいき──スコンッと音を立てて柱に突き刺さった。
「!?」
「これっ、包帯、先に湿らせてあげて」
「なッ、お前──」
鋏は確かに女に向かっていたはずだった。見間違いでなければ、そのまま通り抜けた、ような。まさかこの距離で避けたというのか。
思わず女と柱に刺さった鋏を交互に見る。その隙に女が小頭の枕元に膝をついた。鋏を投げられたことは気にしていない、というよりむしろ、気づいていないようですらある。そしてあろうことか小頭に手を伸ばす彼女に、慌てて身を乗り出して制止する。
「辞めろッ! お前何を……ッ、って……え?」
「えッ、あれっ……!? 触れない、なんで?」
女の手が何度も小頭の腕を通り抜ける。すか、すか、とまるで影でも掴もうとするかのように。
「あああ、どうしよう! ええと、君!」
「えっ」
「その水、綺麗?」
「さっき汲んだやつ……だが……」
「煮沸した?」
このとき、おれの頭は既に考えることを放棄していた。訳もわからず、ただ女の気迫に馬鹿正直に頷く。
この女は一体何者なのか。どうやってこの部屋まで侵入したのか。あの鋏をどうやって避けたのか。なぜ女の手は小頭の腕を通り抜けたのか。目の前の事象が理解の許容量を越え、頭は真っ白になっていた。
「温度は? まだ熱い?」
「冷ましたから……人肌くらい……」
「良かった、じゃあその布を浸して。そう、それから軽く絞って……腕に優しく押し当てて。そう、そう……包帯を湿らせるの」
女にせっつかれ、おれの手は言われるがまま動いた。頭には大量の疑問符を飛ばしながら。絶対に何か言うべきなのに、早口で次々に下される指示のせいで頭が上手く働かない。
「ワセリンかベビーオイルはないの?」
「ワ、ワセ……?」
「あ〜…、じゃあ、油。油ならあるでしょ、持ってきてくれる? とりあえずあるやつ全部」
「何で、」
「包帯に染み込ませるのよ、少量ね。粘着を和らげてくれるから。ううん、……椿油が無難かなぁ……あるといいんだけど」
「あっ、たぶん、ある……」
「ほんと? じゃあ持ってきて!」
言外に「早く!」と言われたような気がして、慌てて部屋の外へと向かう。が、扉を開けて外の空気を吸い込んだ途端、はっと我に返った。
なぜおれは曲者の言うことを素直に聞いているのか。というか小頭と曲者をこのまま二人にして良いはずもない。勢いよく部屋の方を振り返り、文句のひとつでも言ってやらねばと口を開く。
「大体、お前は一体──ッ、」
そこまで言って言葉を飲み込む。「あ、れ……?」女の姿は煙のように忽然と消え失せていたのだ。
部屋の中を見渡してみるも、気配すら感じられない。念には念をと、この部屋に面する廊下をぐるりと見回り、天井裏まで確認する。が、女の姿はどこにもなく、いつもの静寂が戻っているだけだった。
「……何だったんだ……?」
疲れているのか、と呆然と額に手を当てて、おれはしばらくその場に立ち尽くしたのだった。
◇
それから幾百年の時が流れ、日本のとある町の片隅にあるアパートで、一人の女が目を覚ます。枕元ではスマートフォンがけたたましい音を響かせている。手探りでそれを引き寄せ、眩しい画面に目を細めながらアラームを止める。
「ふぁ、眠い……」
欠伸まじりに呟きながら、ぼんやりと夢の余韻に浸る。
「変な夢……だったなぁ」
どこか現実感のある、不思議な夢。疲れてるのかな、と呟いた言葉は、かつての少年とまるで同じものだった。