透明な足跡
摩訶不思議な体験から早3日。今日も今日とて看護へと向かう尊奈門の手には、ぬるま湯の入った木桶と新しい包帯、手拭い、侍医が調合した薬──そして懐には椿油の入った小ぶりの陶器があった。
重たい木桶を抱えながら、尊奈門はときどき懐に忍ばせた陶器の感触を確かめるよう左手を当てた。高価な油の香りが微かに漂い、それだけで何か特別なものを持っているような気分になる。
あの女が消えたあと、どうしても彼女の言葉が気になった尊奈門はすぐに椿油を探したのだ。髪や肌に使うことは知っていたし、きっと毒になることはないはずだ、と。
ただし、椿油は貴族や豪族向けの高級品である。尊奈門だって売っているのを見たことはあっても、使ったことはなかった。この城内にあるとすれば、考えられる場所は限られていた。
── 話は3日前に遡る。
「あなたにはまだ必要ないんじゃない?」
首を傾げてそう言うのは、くノ一部隊の若手の一人。上の人間に掛け合う勇気はなかった。
彼女は困ったように眉を寄せながらも、どこか楽しげな表情を浮かべている。尊奈門は視線をそらしつつ、唇をかすかに引き結んだ。
「そうよそうよ、十分髪は綺麗だし」
「肌もこんなにもちもち」
背後からすっと腕が伸び、ふわりと髪をすくわれる。指先がするりと滑るたびに、くすぐったさに肩をすくめた。次いで頬をむにむにと揉まれ、思わず身を引こうとするが、周りを囲まれていて逃げ場がない。
「お、おやめくらはい……」
力の抜けた声が漏れるが、くノ一たちはまるでからかうように笑うばかり。これだからくノ一は苦手なのだ、と尊奈門は身体を固くした。
「大体、いくらすると思ってるの。少しつけてあげるくらい構わないけど、おいそれと譲れないわよ」
「あんまり手に入らないしねぇ」
「西の方でしか採れないものね」
あっさり断られてしまい、視線を伏せて黙り込む尊奈門。くノ一たちは彼の顔を覗き込み、じっと返事を待った。
「……ふぉあしらの、」
そう言葉を落とした途端、彼の頬を揉んでいた指先がぱっと離れた。見ればくノ一たちの視線が、どこか真剣味を帯びたものへと変わっている。尊奈門は思わず固唾を飲んだ。
「……小頭の手当てに使いたいのです。椿油があれば包帯が取れやすくなると聞いて……。小頭は、全身いたるところが化膿していて、いつも包帯を解くとき、……」
びり、びりびり。あの感触が指先に蘇り、尊奈門はたまらず拳を握った。あぁ、こんなところでも。五感が絶望へと手招いてくる。
爛れた皮膚、呻き声、膿の匂い──目に耳に鼻に、どれもしつこくこびりついている。思考は一気にあの部屋に落とされて、しかしすぐに、コンッと小気味よい音が意識を引っ張り上げた。
コンコンと同じような音が続いたところで、尊奈門がそろりと顔を上げる。目の前の机の上には、小さな陶器が三つ置かれていた。
「──あっ、」
「足りる? それで」
「まだ集まるんじゃない?」
「わたし、声掛けてくる」
一人がするりとその場を抜けて、廊下へと向かった。その背中に慌てて「あの、そんなには……! まだ試してもいないので」と伝えたが、くノ一は振り向きざまにニッと笑っただけでそのまま部屋を出てしまった。
「だめだったら返してくれればいいから」
代わりに尊奈門の前に座るくノ一が言った。
「だけどこんな高価なもの……」
「タソガレドキのために命を掛けたお方に、金くらい掛けなくてどうするの」
尊奈門は咄嗟に二の句を告げなかった。再び黙り込んでしまった彼の目に、じわじわ涙が溜まっていく。二人はふっと笑って、尊奈門の頭をぐりぐり撫で回した。
「あとで医務室にも寄ってみなさい。きっとあるはずよ」
「医務室に、ですか?」
「薬として使うこともあるから。たぶん、雑渡小頭の薬にも調合されてるんじゃないかしら」
「……ありがとうございます。後で寄ってみます」
結局、机の上には大量の陶器や竹筒が並べられた。話を聞いたくノ一たちが皆協力してくれたのだ。
尊奈門は何度もお礼を伝えながら、大きな風呂敷を抱えてくノ一の屋敷を後にした。そしてその足で、早速医務室へと向かった。
「椿油ね、あるよ」
「本当ですか!」
「量はあまりないがね。しかし剥離剤に使うなど考えたこともなかったな。どこで知ったのだ?」
「……町医者に、聞きまして」
「ほう?」
侍医は訝しむように片眉を上げた。それもそのはず、雑渡が大火傷を負ってからというもの、連日看護に付きっきりの尊奈門に町医者と話す機会などあるわけもなかった。怪しむ要素は十分にある。
尊奈門は言い訳を探すように視線を泳がせたが、侍医は「……まァいい」と話を終わらせた。
「しかし剥離剤に使うとなると、とてもじゃないが足りないな。頼んでおくから、届き次第報せよう」
「ありがとうございます!」
「それと、菜種油でも代用が効くかもしれん。これなら安価だし流通量も多い。使えないか調べておく」
尊奈門はぱっと顔を綻ばせると、勢いよく頭を下げた。「ありがとうございます!」と改めて礼を言う彼の頭を、侍医はポンポンと軽く撫でてやったのだった。
──とまぁ、そういうことがあって、いま尊奈門の元には大量の椿油があった。いくつもの陶器や竹筒が並ぶ様子は、まるで豪商の貴重品庫のようだ。
実際に使ってみると、確かに包帯の剥がれが良くなった。僅かではあるが包帯に滲む血の量も減り、小頭の苦痛も和らいだように思う。呻き声もずいぶん小さくなった。あの女の言っていたことは本当だったのだ。
ここ数日の小頭の様子を思い返して、尊奈門は安堵の息をついた。そうしてふと、木桶の水面へと視線を落とす。そこには眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた自分の顔が映っていた。
一体、あの女は何者なのか。およそくノ一には見えない立ち振る舞い、珍妙な装いに、あの知識の深さ。謎だらけの人物だが、こればかりは感謝するほかない──そう思いながらも、彼の胸に渦巻く感情はそれだけではなかった。
だって、あんなに怪しい奴のおかげだなんて。今回ばかりは良かったものの、曲者の言葉に耳を貸すなど忍としてあるまじき行為だ。
そもそも曲者どころか、──あれじゃあ、まるで幽霊じゃないか。尊奈門は、女の手が何度も雑渡の腕を通り抜ける光景を思い返した。
他でもない本人があの慌てようだったのだから、きっと忍術の類ではないのだろう。だとしたらやっぱり、幽霊以外に考えられない。そんなものが寝たきりの小頭の前に現れるなど、まったく縁起でもない。
(──いや、待てよ)
その時、尊奈門の脳裏にふと別の考えがよぎった。
「まさか、神の遣い……?」
そう思い至った途端、頭がパッと冴えた。そうだ、きっとそうに違いない。無病息災とか、きっとそういう類の。だから手当ての仕方を教えてくれたのだ。見ず知らずの自分に、あんなにも必死に。
果たして薬師如来か少彦名命か──興奮が湧き上がると同時に、柱に突き刺さった鋏(正しくは"突き刺した")が頭を過ぎる。
尊奈門はサッと顔を青ざめさせて、ぶんぶんと頭を振った。まだ神の遣いと決まった訳ではないし、白昼夢の可能性だって捨てきれない。まさか祟られるかも──なんてことは考えたくもない。
そう物思いに耽る間に、気付けば件の部屋の前に辿り着いていた。尊奈門は気を取り直すように軽く息をつくと、「包帯の交換に参りました」ときっぱりした声で板戸越しに呼びかけた。
もちろん返事は期待していない。数秒の静寂を経て、慣れた仕草で板戸に手を伸ばし──
「! おま、……ッ、」
尊奈門は出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。
「……あれ、こないだの子だよね?」
そこには、3日前に見たあの女の姿があった。