遠雷のような胸の音
結局、尊奈門は半月を過ぎた頃に雑渡の世話係に戻ることになった。
当初はもう少し長く休ませる予定だったのだが、高坂を急遽別の忍務に向かわせる必要が生じたことと、意外にも彼の方から「尊奈門を世話係に戻したほうがいい」と(至極悔しそうに)進言があったためだ。
組頭と狼隊小頭代理の山本はここ数日、この決定を下すことに悩みに悩んでいた。尊奈門は看護に励むあまり疲労が溜まっているようだったし、そのせいか「よくないもの」まで見えているようだし。だからこその休みだったはずが、むしろ余計に元気を失ってしまったし、といった具合に。
時間が解決するか──とこのまま尊奈門ではなく別の人間に引継ぐ案が出たところで、高坂の進言があったのだ。
山本が世話係へ戻るよう尊奈門に告げると、彼の顔には久しぶりに光が戻った。それまではずっと上の空だっというのに、その日の夕餉では麦飯を三杯もお代わりしたくらいだ。
「やはりあの二人を離してはならなかったか」
山本はそう呟きながら、雑渡の療養部屋へと向かう小さな背中を見送った。
果たして「尊奈門を看護から外す」ことに意味はあったのか──山本は首を傾げる。休ませる、という当初の目的が達成できなかったことは認めざるを得ないだろう。むしろ逆効果だったとさえ言える。
しかしこの世話係の交代≠ヘ、彼らが予期していなかった方向へと波紋を広げていた。
それは高坂が件の引継書を組頭へ提出したことに始まる。その内容は会議の議題にも上がり、参考人として侍医までもが呼び出される事態となった。つまるところ、たった十歳の子どもが書き記した綴本により、上層部を巻き込む騒ぎにまで発展したのである。
「つまり、尊奈門には薬師如来の遣いが見えていると──?」
組頭の問いに、山本が頷いた。
「雑渡小頭が尊奈門からそう聞いたとのこと。どうやらその『遣い』が教える治療法を実践していたようです」
「なるほど……だから」
だから雑渡小頭はあそこから息を吹き返したのか。
言葉にはしなかったが、その場にいた全員が同じ考えを抱いた。彼らにとって、あの状態から回復するなど蘇りにも等しい奇跡だったのである。
「高坂には見えなかったのか」
「そのようです。彼の報告によれば気配すら感じなかったと。しかし、尊奈門の施していた処置は確かに雑渡殿の回復に有効でした」
幹部たちは黙して顔を見合わせた。誰もが言葉を選んでいるようだった。組頭はふむ、と顎をさすりながら黙考したのち、ゆっくりと口を開いた。
「……忍びは信仰を利用することはあっても、それに吞まれてはならない。神仏の力に頼りすぎるのは危険だが──」
一呼吸置いて、彼は結論を告げた。
「しばらく様子を見よう。彼奴が回復しつつあるのは事実。尊奈門が何を見ているにせよ、今はそれを咎める必要はない」
この時代、神に愛された者を神仏から引き離すことは極端に恐れられていた。そのような行為は神仏の怒りを買い、村や一族に疫病や飢饉、戦乱といった祟りが降りかかると広く信じられていたのである。
いくら優秀な忍びと言えど、染み付いた宗教観を払拭できるわけではない。組頭の決断の底には、尊奈門と薬師如来の縁を断つことへの本能的な恐れが潜んでいたのだろう。
◇
薬師如来の遣い説≠ェ上層部に根付き始めたことなど露知らず、その当の本人はおよそ半月ぶりの尊奈門との再会を喜んでいた。
尊奈門が世話係から外されている間、なまえがこの部屋に現れたのは計六回。初めこそ高坂の熱心さに感心したり、彼の過剰な敬愛ぶりに少々引いたりしながら部屋の様子を眺めていたのだが、それが三回、四回と続くと流石に飽きが生じていた。
誰にも認識されず、誰とも会話できず、何にも触れることもできないまま、ただその部屋に存在する"だけ"──それはそれは退屈で、そして寂しいものだった。
「やっぱり会話ができるって最高だね。諸泉くんが戻ってきてくれて本当に嬉しい」
なまえは尊奈門の膝──をすり抜けて床──に顔を突っ伏して言った。尊奈門はそんな彼女の様子に嬉しいやら恥ずかしいやらで、耳を赤く染めながら「大袈裟だな」と悪態をついた。
なまえがふっと上体を起こす。思ったよりも顔が間近に来て、尊奈門は思わず軽く仰け反った。
「もう看護から外されないように、ちゃんと大人を頼ってね。私のために」そう真面目くさった顔でのたまう彼女に、「小頭のためだ」と尊奈門が即座に訂正する。
「それで、その小頭さんはどこへ?」
この日なまえが部屋に来た時には既に、雑渡の姿はなかった。まさか、と彼女の頭に最悪の予感が過ぎったところで、替えの包帯や薬を抱えた尊奈門が部屋に戻ってきたのだ。
「暖かくなってきたから縁側にお連れした。今は侍医が見ている」
「そっか、良い気分転換になるね」
「お前も行ってみたらいいのに。椿が見れるぞ」
尊奈門は誘うように言ったが、なまえは首を横に振った。
「この部屋からは出たくないの」
またそれか、と尊奈門は内心で溜息をつく。なまえがここに現れ始めてからもう三ヶ月が経つというのに、いまだこの部屋から行動範囲を広げるつもりはないらしい。
以前、尊奈門はその理由を聞いたことがあった。曰く「誰にも気付かれないまま辺りを徘徊するって、何だか幽霊みたいで気味が悪いし」ということらしい。
今は今で地縛霊みたいだけどな、と尊奈門は思ったが、それは胸の中に仕舞っておくことにした。(自分の不用心さが原因で)既に悪霊扱いされてしまっているのだから、尚更そのような軽口を叩くことは憚られた。
しかし、「この部屋を出るようになったら、医務室に案内してより深い看護の話ができるのに」と思ってしまうのも事実だ。それを強要する気はないけれど、どうしてももどかしさを感じてしまう。
「それに椿を見なくても、私にはあれがあるしさ」
そう言って彼女は窓際に置かれた古い花瓶を指さした。枝を活けた頃にはまだ固く閉じていた蕾も、今ではすっかり満開になっていた。
「絵、見たよ。あの梅の花、諸泉くんが用意してくれたんでしょう?」
尊奈門がこくりと頷く。なんだか照れくさくて、なまえの方は見れなかった。彼女の視線から逃げるように、じっと梅の花を見つめる。
その花瓶の下には、今も桜の絵が置いてある。彼女はあれが梅ではなく桜だと気付いているだろうか。どうしてか、そのことを聞く勇気は出なかった。
「桜もきれいだけど、梅もいいね。そういえば今年は見てないかも」
「今年は? 去年は見たのか」
「たぶん見てない」
いたずらっぽく笑うなまえに、「なんだよそれ」と尊奈門は呆れ笑いを返す。
「だから、ありがとう」
彼女の言葉に「別に」とぶっきらぼうに返した尊奈門は、そこでふっと視線を落とした。
あの二本の梅の枝が、あの村の光景と強く結びついていた。
梅の花を買ったあとに立ち寄った、焼き討ちにあったあの村。崩れた土壁の隙間から聞こえてきたうめき声。「ころしてくれ」と、誰にともなく、あるいは神にでも訴えるように泣いていたあの声が、今も耳の奥で熱をもって蠢いている。
あれから幾度となく夢に見た。夢の中では、呻き声の主は決まって雑渡に変わっていた。
血と、何の汁かも分からぬ黄ばんだ液で汚れた包帯に全身をくるまれ、ただ布団の上で悶えていた頃の姿だ。その彼が、夢の中でははっきりと目を見開き、こちらを見据えているのだ。救いを求めているのか、怨んでいるのか──それが、まっすぐこちらを射抜いて言う。「ころしてくれ」と。心からの善意が産んだ、生き地獄の呻き声。
「来年には小頭さんも、外に梅を見に行けるんじゃないかな。順調に治ってるみたいで良かった」
「……」
返事のないことを不思議に思ったなまえは、「諸泉くん?」と彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……本当に良かったのか、と思って」
尊奈門の声はいつになく沈んでいた。
「どれだけ回復しても、元通りというわけにはいかないだろう」
「……あの調子なら、いずれ歩けるくらいにはなると思うよ」
「杖をつきながら? 誰かに支えられながら?」
急に荒っぽくなった声が彼の口から溢れ出る。そこには怒りと悲しみが混じっていた。
「誰よりも早く山の中を駆け抜けていた小頭が──」
「諸泉くん」
なまえは気遣うように彼の名を呼んだが、彼の言葉は止まらなかった。
「小頭は……あんなお姿になってまで生きたかったのか」
尊奈門は小さな拳を握りしめ、震える唇を必死に抑えていた。
「諸泉くん」
なまえはもう一度呼びかけた。尊奈門に触れることはできないが、できるだけ近くに寄り添うように身を乗り出す。
「私の時代でも、あの状態から回復するってすごいことだよ。どんなに治療を尽くしても、どうにもならないことはたくさんある」
なまえの手が彼の膝に伸び、その上で固く握りしめられた拳をすり抜ける。彼に触れられないことに、こんなにも歯痒さを感じたことはなかった。
「小頭さんの身体は生きようとしたんだよ」
尊奈門は無言のまま、その言葉を聞いていた。彼女の慰めは理解できたが、腹の奥底に巣食った疑念は消えなかった。
生きようとした>氛氓サれが本当に小頭の意思だったのか、それとも自分が彼に強いた運命なのか。あの村で聞いた「ころしてくれ」という言葉が、雑渡の声となって耳に響く。
「それはすぐに答えが出るものではないよ。来年か、再来年か、もっと先か──」
なまえは梅の花に視線を移した。
「その時に小頭さんが笑っていればいいんだよ」
尊奈門は小さな腕で目をこすった。彼女の言うことは分かる。だが、これは生きること≠強いた側の自己満足にすぎないのではないか。生き延びた先に待つのが苦しみだけだったら──その時、自分はどうすればいいのだろう。
「うん」
返した声は震えていた。それ以上の言葉は喉から出てこなかった。ただ自分を慰めようとしている彼女のために、精一杯絞り出した一言だった。