時の扉をたたく指先

「ん……うぅ、」

意識が霧の中から少しずつ浮かび上がるように、なまえはまどろみの底から徐々に現実へと引き戻されていった。まぶたは重く、幾度か瞬きを繰り返したのちにようやく目を開く。視界に映り込んだのは、これまで何度も夢に見たあの部屋と同じ天井だった。

(あ、れ? 私……あの山に行って、)

どこかぼんやりとした意識のなか、記憶の断片をつなぎ合わせようとしたその時、彼女の視界を遮るようにぬっと男の顔が現れる。

「気分はどうかな」

顔のほとんどは包帯に覆われ、さらにその上から茶褐色の頭巾が深く被さっている。唯一露出した片目は、彼女のよく知る人物のそれにそっくりだった。

「小頭さん……!?」

なまえは驚きの声を上げながら勢いよく上体を起こした。

「えっ」

彼女の声に反応したのは目の前の男──ではなく、その後ろに控えていた別の人物だった。その声に釣られて、なまえがちらりと視線を移す。

その男の顔もまた大半が茶褐色の布で覆われ、確認できるのは目元くらいのものだった。しかしその凛々しい眉の形は、どこか見覚えがあるような気がした。

なまえは困惑したように辺りを見渡した。簡素ながらも品のある調度、連子窓から差し込む柔らかな光。壁の色がわずかに濃く思えるのと、天井の一角に見覚えのない補修の跡が見えるが、それ以外はあの部屋とほとんど変わりない。

まさかいつの間にか眠ってしまったのだろうか。しかし、自分は確かにあの桜の傍にいたはずだ。

朝から新幹線に飛び乗り、バスを乗り継ぎ、軽いハイキングを経てあの桜まで足を運んだのだ。そして尊奈門に言われた通り、(周囲に人がいないことを確認しながら)彼が埋めたという手紙を探した。

──「これぐらいの深さで、これぐらいの箱に入れて」

そうしてついにそれらしい木箱を見つけて──と回想に浸っていたその時、じっと彼女の様子を観察していた雑渡が姿勢を改め、胡坐に座りなおした。

「!? もうそんなに動けるんですか……?」
「……私を誰かと勘違いしているようだね」
「え、どう見ても小頭さん……というか! 私が見えるんですか!?」

雑渡はなまえの言葉に首を捻った。

「? ああ、はっきりと」
「う、うそ……」

至極当然といった返答になまえは絶句する。それから慌ただしく手櫛で髪を整え、自身の顔をぺたぺたと触りながら「うそ」ともう一度零した。

そこに注がれる雑渡の視線は、まるで見知らぬ土地の珍品を鑑定するようであり、それでいてどこか怪訝そうでもある。

彼女をどう判断したのか、雑渡はわずかに目を細めると短く息をついた。それから彼女の視界に割り込ませるように、手元の薄い木箱を掲げる。

「君の手に握られていたものだ。なぜこれを?」
「あっ、それは──」

咄嗟に声を上げた彼女はしかし、一拍置いて「んん……?」と違和感に首を傾げた。目の前の木箱が、自分が掘り出したものより随分と状態が良かったからだ。

「諸泉くんに言われて探したんです……でも、私が掘り出したのはもっと、」

そのとき雑渡の目がかっと見開かれて、なまえは思わず口をつぐんだ。少し間があって、彼は「陣内」ときっぱりとした声で言った。そうして戸惑うなまえに視線を縫い付けたまま、後ろに控えていた男に指示を出す。

「尊奈門をここに」
「……は、」
「至急」

その声音は固く圧のあるものだった。山本は一瞬戸惑った素振りをみせたが、すぐに表情を引き締めるとそのまま姿を消した。

そう、文字通り“消した”のである。そのあまりの速さに、なまえは目で追うことすらできなかった。

「小頭」、「城」、「任務」──尊奈門の口から紡がれていた言葉たちがなまえの頭に木霊する。単に城に奉公する人々と思い込んでいたが、その認識は甘かったのかもしれない。漠然とした不安に襲われたなまえは、思わず顔を強ばらせた。

そんななか雑渡は「名前を聞いても?」とあくまで淡々と会話を続ける。しかしその口振りは、先程と比べいくらか柔らかいものになっていた。

「みょうじ……みょうじなまえです」
「意識を失う前、どこにいたかは覚えているか?」

雑渡の問いかけに、なまえはふと視線を落とす。その目は自身の腕──そこに擦り付いた土の跡を捉えた。

「もしかして私、この部屋に現れたんじゃなくて……桜の傍に?」
「五条山の桜の近くに倒れているのを私の部下が発見した」

彼女の手がおそるおそる自身の二の腕に触れる。そうしてその感触を、否、存在そのものを確かめるかのように、ゆっくりとそこを撫でさする。やがて彼女ははっとしたように顔を上げた。

「そうだ、その手紙。それを手に取ったら急に目眩がして、」
「……どうしてこれが手紙だと? まだ開けられた形跡もないのに」
「え? 諸泉くんが『手紙を埋めた』って……もしかしてその箱じゃないんですかね?」
「……いや、」

雑渡は歯切れ悪くそこで言葉を切った。黙して木箱を凝視するその瞳からは、思考も感情も読み取れない。沈黙が室内に満ちる中、なまえは焦燥にかられるように言葉を継いだ。

「あの、小頭さんには見えなかったかと思いますが、私、ずっとここに──」
「私にはそれを確認する術がない」

雑渡が冷静に彼女の説明を断ち切る。なまえは「……ですよね」とあきらめたように小さく頷くと、ゆるりと視線を落とした。

「だから今、尊奈門をここに向かわせている」雑渡は少し間を置き、言葉を選ぶように続ける。「無礼を働いていることは重々承知している。どうかご理解いただきたい」

「それは……はい、もちろんです」

そう言いつつも不安げに肩を縮こまらせていると、雑渡は逡巡するように視線をさ迷わせた。そうして一瞬の沈黙の後、軽く息をつくと「ひとつだけ」と言葉を続けた。

「本当は確認が取れてから言うべきなんだろうが」
「……?」
「"あの御方"が現れなくなってから──」

やけにもったいぶった口振りで、雑渡はそこで言葉を切った。そうしてふと、板戸の方へと視線を移す。

「こちらでは九年の月日が流れた」

彼の言葉が空気に溶け込むのと同時に、板戸がすっと音もなく開く。扉の向こうには一人の青年が佇んでいた。その背後には山本の姿もある。

すっかり、あの「諸泉くん」が現れると思っていたなまえは、きょとんと首を傾げた。

その視線の先で、あの少年の面影を宿した瞳が驚きに見開かれる。

「……なまえ?」

青年が震える指先で自身の口布に触れると、そっとそれを下にずらした。途端晒された素顔に、今度はなまえの目が大きく開く。

「え、?」

そこでようやく、雑渡の言葉がなまえの胸にすとんと落ちてきた。同時に、彼の言わんとしたことを理解する。九年──それは少年から青年へと成長するには、十分すぎるほどの年月なのだと。

「諸泉くん!?」
「なんでここに!」

なまえは慌てて立ち上がると、ばたばたと彼の元へ駆け寄った。

「うそ、本当に? わぁ、こんなに大きくなって!」

なまえは尊奈門の頬を両手で包み込むと、驚きを込めてこねくり回した。

それに対し、尊奈門はまるで時が止まったかのように硬直していた。どうやら彼女の手を振り払う余裕もないらしく、頬を好き放題に揉まれている。

思わぬ再会に思考が追いついていないようだった。

「すごい、触れる! 本当に諸泉くんだよね?」
「こっちの台詞だ! なんで......どうして......」

尊奈門の手がまるで幻を掴むかのように、おそるおそるなまえの手に伸びる。それはすり抜けることなく、彼女の手にぴたりと被さった。

「あはは、どうして泣きそうになってるの」
「うるさい! お前が......!」

言葉にならない何かを押し殺すように、尊奈門は短く言い返す。

「そうだよね、ごめんね。まさかこんなに時間が経ってるなんて思わなかった」

そう言ってなまえは昂る気持ちに身を任せ、ぎゅっと彼を抱き締めた。

「う、わっ......」
「ついこないだまであんなに小さかったのに。そっか、九年……もう十九歳なんだね」

その年月の長さを、なまえはようやく実感として捉えた。自分にとっては少し前の出来事が、この世界では遠い過去になっていたのだと。彼を抱き締めたまま、なまえはわしゃわしゃと頭を撫でまわした。

「......なまえ、おいッ」
「まさかこんな風に触れる日が来るなんて」

しばらくの間、なまえは尊奈門の頬を撫でまわしたり背の高さをを確かめたりと、好き勝手に成長の跡を確かめ続けた。

やがて、雑渡が控えめながらも意味ありげな咳払いをした。

「そろそろ離してやってもらえるかな」

どこか含みのあるその声に、なまえははたと我に返る。

「え?」
「尊奈門が限界みたいだ」

そう言われるやいなや、なまえは慌てて体を離した。目の前には顔を真っ赤に染め上げ、目を泳がせる尊奈門がいた。

「わあ……、ごめんね」

そうか、十九と言えばそういうお年頃か、となまえは苦笑った。しかし彼に触れられることが嬉しくて、再び目の前の両頬に手を伸ばすと、それをまたこねくり回したのだった。

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ちんぷんかんぷん