空白を埋めるもの
これまでは三日に一度、長く空いた時でさえ五日に一度は姿を現していたなまえだが、今日尊奈門が彼女と対面したのは実に十日ぶりのことだった。
──「そろそろ私が教えられることもなくなってきたなぁ」
いつだったか彼女が何気なく漏らした言葉が、尊奈門の胸に重くのしかかる。彼女の存在と雑渡の回復状態には、やはり何か関連があるのだろうか。
近頃の雑渡は、弱々しくも自力で寝床から起き上がれるようにまでになっていた。それは間違いなく喜ばしいことなのだが、彼女との邂逅が減ることへの不安は抑えられなかった。尊奈門にとってなまえは看護を続けるための力であり、導きであり、何より心の拠り所だったのだ。
かねてより切望していた雑渡の回復。しかしその願いが叶うほどに彼女は遠ざかって行く。
「十日って……そんなに? 私が前回諸泉くんと会ったの一昨日だよ」
驚いたような表情でなまえは言った。どうやらあちらとこちらとでは時間の流れも違うらしい。
「……なあ、やっぱり、祠を建てさせてもらえないか?」
「えっ……と、どうして?」
なまえは思わず戸惑った声を上げた。あの話し合いの後で、再びこの話題が出てくるとは思ってもいなかった。
「もしこのまま会えなくなっても、それがあればなまえが傍にいるって思えるから……」
その言葉に、なまえは気まずそうに口ごもった。
もちろん、彼女にとっても尊奈門との別れはさみしいものだ。しかし、なまえはまだその実感をもてずにいた。何せ彼女にとっては、これまでと変わらぬ頻度でここを訪れているのだ。一日ぶりの再会と十日ぶりの再会とでは、別れへの予感も、それに対するさみしさの度合いも異なっていて当然だろう。
「祠……ねぇ」
それでこの子の気持ちが慰められるのなら──そう思わなくもないが、やはり祠となると気が引けた。自分が祀られるなどそれこそ罰当たりな気がしてならないし、そもそも祀られるようなことをした覚えはないのだから。
たまたまここに来たのが自分だっただけで、これが仮に他の看護師であったとしても同じようにしたはずだ。
なまえは自分の手をじっと見つめた。この手は患者を救うためにあると自負しているが、決して神の手などではない──ただの人間の、一介の看護師の手だ。
「じゃあ、桜は?」
「桜?」
突然の提案に、なまえはきょとんと首を傾げた。
「祠じゃなくて、桜の木を植える。それなら祀るのとは違うし……皆も見て楽しめるから」
正直に言えば何もしてくれなくていいのだが──そんなことを言えばこの少年はまた暗い顔をするのだろう。なまえは「まぁ、それなら……」と頷く以外の選択肢はもてなかった。
なまえの返事に尊奈門はぱっと顔を明るくすると、勢いよく立ちあがった。
「じゃあ寿命が一番長いやつにしよう! 確か景見山の桜は千年も生きているとか……! それで、一番高い山の一番目立つところ……てっぺんに植えるのが良い! ちょっと庭師に聞いてくる! あッ、その前に組頭にも相談しないと……」
尊奈門の口から、まるで水門を開いたかのように次々と言葉が溢れ出る。彼の頭の中では、既に計画が次々と広がっているかのように。
「エッ!? それはちょっと、待っ」
「なまえの時代にも咲いていたら、同じ桜が見れるな!」
慌てて手を伸ばしたが、尊奈門の勢いは止まらなかった。満面の笑みを浮かべてそう言った彼に、なまえは言葉を失う。
「ヒンシュカイリョウされてなくて、本当の本当に同じ桜!」
まさか、あの日自分が照れ隠しに吐いた言葉がここで返ってこようとは。なまえは唇を何度か動かしたものの、ついぞ声にはならなかった。
そんな大げさなことをしなくても──とやんわり断ろうとしたところで、善は急げとばかりに尊奈門が部屋を飛び出した。板戸が勢いよく開き、ピシャッと閉じる音が響く。
部屋に残されたなまえは力なく座ったまま動けずにいた。その眼差しは遠く、時空を超えた桜の姿を思い描いているようで。
「噓でしょ……」
本当に現代にまで桜が残ってしまったら、一体自分はそれをどんな目で眺めればいいのだろう。五百年先を見据えた贈り物だなんて。気持ちは嬉しいが、できることなら遠慮したい。
しかしそれを告げるべき相手の足音はすでに遠ざかり、ついには聞こえなくなってしまった。
◇
それから三日後のことである。再び尊奈門の元に現れたなまえは、「諸泉くん、あの桜の件なんだけど……」と、植樹の話を断ろうと申し訳なさそうに口を開いた。
が、しかし。
「ああ、それならもう植えたぞ!」
尊奈門の明るい声がなまえの言葉を遮った。
「……エッ?」
なまえの言葉が喉元で止まる。しかし尊奈門はそんな彼女の戸惑いに気づく様子もない。
曰く、彼女にとってはたった「三日」でも、こちらでは既に二週間以上が経過していたらしい。それにしたって話が早過ぎやしないか、となまえは思ったが、祠を却下されたことに悶々としていた城の者たちが、ここぞとばかりに一斉に動き出したとのことだった。
「庭師が良質な苗を用意してくれたんだ。百年、二百年と生き続けるだろうって」
尊奈門は目を輝かせながら、両手を大きく広げて言った。まるで子どもが学校での出来事を得意げに報告するかのように。これが本当に「学校での出来事」程度なら、なまえも笑顔でそれを聞けただろう。しかし彼女は顔を強ばらせたまま、口の端をひくりと持ち上げることしかできなかった。
「五条山の、てっぺんは無理だったが、中腹あたりに! 開けた場所だから花見にはもってこいだ! 植樹の時も百人くらいは入れたし」
「植樹に……ひゃく……」
「あっ、百人は言い過ぎたな。城の警備や忍務に行っていた者もいるから八十人くらいかも」
申し訳なさそうに言う彼に、八十人でも多すぎるよ、と口にする気力はなかった。対して、尊奈門は息継ぎもそこそこに言葉を紡ぐ。
「修験者の僧も招いて木祀りも執り行ったから、きっとなまえの時代にも残っているはずだ!」
「きまつり……ア、そう……」
なまえは目を見開いたまま、ぎこちなく頷いた。木祀りとは一体──聞き慣れない言葉だが、あれほど「辞めてくれ」と伝えた儀式と何が違うのだろう。
「それで、手紙も一緒に埋めたから、良かったら掘り起こしてみて欲しい。大きな岩の、桜側に……これぐらいの深さで、これぐらいの箱に入れて……紙の保管についても小頭に習ったんだ」
「手紙、ね……岩の……そう」
なまえの視線は尊奈門の方を向いているが、その瞳は虚空を見つめていた。尊奈門の言葉はもはや右耳から左耳へと流れていき、かろうじて単語を拾っているだけである。
「ウン……なるほど、そう……ありがとう、本当に……」
眉間に指を押し当てて、なまえは深く項垂れた。その一方で、尊奈門は自慢げな表情を浮かべている。彼女がいたく感動しているとでも思ったのか、彼は「どういたしまして!」と満面の笑みで答えたのだった。
◇
なまえははっと目を覚ました。首元には嫌な汗がにじみ、インナーがじっとりと肌に張りついている。体が熱を帯びているのは、きっと気温のせいなどではない。
「……!」
跳ね起きたなまえは寝具を乱暴にかき分け、枕元のスマートフォンを探った。尊奈門の声が頭の奥で反響している。彼の言葉が鮮明に焼きついたように離れない。
検索画面に、夢の記憶を頼りにそれらしい言葉を打ち込んでいく。出てきた情報に首をひねり、別の単語で再検索。それでもピンと来ず、さらに別の語を拾い集めてはもう一度──。
三度目の検索でなまえの手は止まり、画面に目が吸い寄せられた。
「うわあ……本当にあるよ……」
思わず息を呑み、スマホを持つ手が震える。
そこに映っていたのは、淡紅色の花を咲かせる一本の桜だった。幹は長い年月を物語るように堂々としており、空へ向かって伸びた枝々には、陽を浴びて輝く花が咲き誇っている。
「まさか本当に五百年も……」
「五条山」では検索には引っかからなかったから、きっと長い年月の中で地名が変わってしまったのだろう。しかし尊奈門から聞いた地理や地形の特徴は、驚くほどぴたりと一致していた。彼が言っていた通り、桜のすぐ傍には大きな岩が鎮座している。
室町といえば、戦乱に明け暮れた時代である。その後も度重なる天災や動乱を経て、昭和には戦争もあった。そんな荒波をすべて乗り越えて、この桜は今も尚ここに生きているのか。
なまえは桜の詳細をさらに追って調べてみたが、どれだけ掘り下げても由来や歴史に関する記述は見当たらなかった。「薬師如来の遣いが云々」といった話は、きっとどこかで廃れたのだろう。それだけは良かった、となまえは小さく安堵の息を漏らした。
──「それで、手紙も一緒に埋めたから」
不意に頭をよぎる尊奈門の声。そんなことを言われては、見に行かないわけにはいかないだろう。「まだ見れてないの」と言った日には、一体どんな顔をさせてしまうことか。これ以上、尊奈門の落ち込んだ姿は見たくない。
幸い、今日は仕事も休みでこれといった予定もない。なまえは早速目的地までの経路を調べて、──寝起きの混乱がそうさせたのか──そのまま新幹線の切符を予約した。
数日後にはまた尊奈門に会うかもしれないし、それまでには感想のひとつでも用意しておくべきだろうと思ったのだ。その時に「ありがとう! とっても嬉しい!」と笑って彼に言えるは分からないが。いや、これはむしろ笑い話にするしかないのかもしれない。
なまえは慌ててベッドから降りると、早速身支度を始めたのだった。