凪の空の下で
尊奈門から引継書を受け取った高坂は当初、夜に軽く目を通せばいいか、くらいに考えていた。看護の交代は明日からだし(当然小頭への挨拶は帰還してすぐ向かったが)、「侍医が用意したのか」と聞けば「おれが書いた」と返ってきたからだ。
忍務の疲労と山積みになった報告書、そして使用した忍具の点検と手入れ──諸々の後処理で何かと慌ただしい中、件の引継書が後回しになるのは自然なことだった。何せ五つも歳下の、まだ見習いですらない子どもが書いたものなのだから。
が、しかし。
「引継書に目は通したか?」
昼を少し過ぎた頃だった。忍務で使用した薬やら包帯やらを医務室に戻しに行った際、侍医にそう声を掛けられた。
「……いえ、まだです」
「そうか。しっかり読んでおきなさい」
高坂は狼狽えたように妙な瞬きを数度繰り返した。何せこの侍医は、普段あまり余計な会話をしないのだ。仕事の話となれば雄弁になるが、世間話に花を咲かせるような男ではない。
そこで急に引継書のことが気になりはじめた。包帯を棚に仕舞いながら、脳裏には尊奈門の顔がちらちら浮かぶ。あいつのことだからきっと大真面目に、大いに張り切って書いただろうことは想像に容易い。だからこそ、子どもの書いたものだからと一蹴する気はさらさらなかった。しかしあの侍医にこう言わしめるとは一体──
高坂は足早に医務室を出ると、忍具の手入れを後回しにしてそのまま自室へと戻った。そうして昨夜──というよりもはや明け方──に尊奈門から受け取った件の引継書を手に文机へと向かった。
高坂は引継書を開くと、最初は慎重に、そして次第に息を呑むように帳面をめくり始めた。
「これは……」
彼の細く長い指が、治療の細部を示す図版に触れる。そこには全く未知の治療法が詳細に描写されていた。
傷の洗浄法、腫れを静める方法、そして薬の材料──聞き慣れない植物、めったに使わない鉱物の粉末。
本当にこの文書は尊奈門が書き記したのだろうか。これを元に尊奈門が看護をしていたのならまだしも、否、仮にそうだとしても、この内容はあまりに異質である。
高坂は息を呑みながら、最後の紙葉まで一気に読みこんだ。何かに取り憑かれたように、舐るような視線を文書の端々にまでに走らせる。
しばらくの耽読ののち、高坂は引継書をぱたりと閉じると静かに立ち上がった。そうして本を胸に抱え自室を出る。向かった先は医務室、あの侍医の元だった。
「これは本当に尊奈門が書いたのですか?」
開口一番そう尋ねながら、我ながら馬鹿げた質問だと思った。尊奈門の字の癖はよく知っている。内容にそぐわないあの下手くそな図版だって、きっとあいつが描いたものだ。
こくりと頷く侍医を見て、高坂は質問を違えたと思いつつ言葉を続けた。
「新しい医書を入手されたのですか? これの引用元を拝見したいのですが」
果たして明か朝鮮か、否あの異質な内容は西洋──南蛮のものかもしれない。いつものように慈林寺が医書を融通してくれたのか、それとも最近繋がりが深まったと聞く妙岳寺か。
しかし高坂の予想に反して、侍医はゆっくり首を横に振る。高坂はその意味を捉えることが出来ず、きょとんとした顔で首を傾けた。しかしすぐに、ああと納得した顔をして更に問いを重ねた。
「口承ですか。どこで学ばれたのですか?」
「高坂、違うのだ」
侍医の声には子どもを諭すような響きがあった。
「そこに書いてあることのほとんどは尊奈門が仕入れた医術だ」
そして高坂はやはり、その意味を捉えることができなかった。
「……え? どういう、」
「件の雑渡小頭の重火傷、私も手を尽くさないはずはない。国内の名だたる医師や各地の寺院に問い合わせ、幾多の医書を繰り返し紐解いた」
「しかし、だ」と侍医は続ける。
「尊奈門が『町医者に聞いた』と言って知らせてくる医術は、私が集めた知恵のすべてを凌駕していた。調べに調べた末の知見など、あいつの一筋の記述にも及ばないほどだった」
高坂は言葉に詰まった。それもそのはず、尊奈門はまだ十歳の子どもで、努力家ではあるが飛びぬけて優秀というわけでもない。
頭の中で、引継書の記述が目まぐるしく回る。あの細やかな筆致、常識を覆すような治療の内容。
「まさか……本当に?」
高坂の声は平常心を保とうとするように、僅かに強ばっていた。侍医はそれに返事をすることも頷くこともなく、ただじっと高坂が持つ引継書を見つめた。
「皆は『良くないものが見えている』と言うがね、私はその逆ではないかと思っている」
「逆、とは……」
その噂は高坂ももちろん知っていた。直接目にしたことはないが、ときどき何もない空間に向かって話しかけているのだとか。小頭の「迎えの者」と会話しているのでは、などと放言した不埒者に激昂したのは記憶に新しい。
「あの子が耳を傾けているのは、導きを与える何かではないか、と」
「……しかし、それでは尊奈門を外すのは悪手では」
「さてね。どのみちあいつは少しやりすぎだ。休ませるべきだろう」
侍医はそう言うとあっさり踵を返してしまった。おかげで山ほどあった質問は喉の奥でうごめき、出かけた言葉は舌先で溶けていった。
高坂はもどかしさのあまり胸がじりじりするのを感じた。尊奈門のこと、侍医の言葉の真意、引継書に記された特異な医術の数々──。とその時、侍医がふと顔だけ振り返った。
「お前にも見えるといいな」
そこにあるのは、ふとした瞬間にこぼれたようなごく自然な笑みだった。高坂はそれを向けられながら、物珍しそうに目を瞬かせたのだった。
◇
看護を交代したその日、尊奈門は城門を潜り町の路地に足を踏み入れた。実に二ヶ月ぶりの外出だった。
町の喧騒、人々の営み──それらの光景を前にして、言いようのない違和感に襲われる。長らくの看護生活から唐突に引き離されたせいで、突然舞い込んできた自由に戸惑っていたのである。日がな一日小頭の看護に身を捧げてきた彼には、この自由時間をどう使えばよいのか見当もつかなかった。
前は町に行くことが楽しくてしょうがなかったのに、いま頭の中は小頭の心配ばかりである。「頭が凝り固まっている」というのはきっとこのことだろうと、(実は適当に言い含められたとは露知らず)尊奈門は大真面目に頭を抱えた。
団子屋や猿回し、威勢のいい商人の掛け声が響く町は活気に溢れているが、心惹かれるものがない。まさか町に出てやりたいことの一つも浮かばないとは。浅いため息が街の喧騒に溶けていく。
そうしてふと、先日の雑渡との会話を思い返す。
「町へ行ったら、彼女にお礼の品を買ってきて欲しい」
「……お礼、」
「頼まれてくれるか?」
「も、もちろんです! お礼がしたいのは私も同じです。 ……でも、なまえは物に触れないのに何をやれば、」
「そうだねぇ、花はどうかな。この部屋に飾っておけば彼女も楽しめるだろうから」
「お前がこの部屋に来る口実にもなるだろう」そう言って薄く笑って見せた雑渡は、金をいくらか尊奈門に持たせたのだった。
──とまぁそういうわけで、一応は目的らしい目的はある。他にやりたいことも見つからないし、と尊奈門は早々に花売りを探すことにした。
通りには既に多くの人々が行き交っている。荷を背負った商人たち、野菜を売る女たち、駆け回る子供たち。
それらを眺めながら、不意に「なまえと一緒に回れたら楽しいだろうな」と思った。
およそ五百年も先の時代に生きるなまえ。彼女がこの景色を眺めたら一体どんな反応をするだろうか。きっと目を丸くして、「まるで絵巻物の中に入ったみたい」とでも言うに違いない。
「……そうだ、桜」
尊奈門はいつかの彼女との会話を思い出した。今年は桜を見るように、と二人で交わしたあの約束を。
あの後、彼女はきちんと約束を果たしてくれたのだ。「家から少し離れたところに桜並木があって、友達と見に行ったの」と。
花を飾るなら桜がいい。あの会話をしたのはもう一ヶ月は前のことだ。彼女のところは既に散った頃だろう。しかしそう思ったはいいものの、こちらではまだ桜の開花には少し早い。
どうしたものかと考えて、結局、尊奈門は梅の枝を二つ買うことにした。