朝焼けにほどける影

「しばらく小頭の部屋に行くことを禁ずる」

その言葉は冷たく尊奈門の耳を打った。

それを告げた山本の表情には微かな憂いが浮かんでいたが、尊奈門にはそれが同情なのか、あるいは別の感情なのか判別できなかった。

「あと三日もすれば高坂が戻ってくる。そうしたらあいつと交代しなさい」

山本はそう付け加えると、尊奈門の肩に手を置いた。その手の温もりと言葉の意味を、尊奈門は混乱した心でぼんやりと受け止めた。

彼にとって、その通告はまさに青天の霹靂であった。十歳の幼い心には、あまりにも理不尽な仕打ちとしか映らなかった。

上手くやれているはずだった。侍医を除いては、小頭の看護に限っていえば、この城の誰よりも技術も知識もあると自負していた。

一生懸命やったのだ。朝も昼も夜も暇さえあればあの部屋を訪れた。包帯を巻き直し、焼け爛れた皮膚に薬を塗り、数刻ごとに体勢を変えた。自身の指には、夜な夜な調合する薬の匂いがしみついている。

父を救うために自らの身を焼いた男は死の淵から少しずつ、しかし確かに戻りつつあった。

一体何がいけなかったのか。尊奈門は懸命に思い返した。自分の中に過ちを見つけられなかった。ヘマをした覚えはなく、小頭の回復だって順調だというのに。

「しばらくとはいつまでですか」
「私が良いと判断するまでだ」

薄暗い廊下に立ち尽くす小さな影は、次第に足元から震え始めた。山本はその様子を見下ろしてひとつ息をついた。

「お前、良くないものが見えているだろう」
「……っ、」
「疲れているんだ。少し休んで、外の空気を吸ってきなさい」

尊奈門は拳を強く握り締めた。

「…………じゃない」
「……なんだ?」
「なまえは良くないものなんかじゃない!」

彼はそう叫ぶと、山本の制止も聞かずに走り去ったのだった。



「……まぁ、そうなるよねぇ」
「どうして! おれは一生懸命やったのに!」

通告を受けた二日後、雑渡の部屋になまえが現れた。高坂が帰ってくるという日まであと一日。彼女とも会えなくなると思うと、悔しさがより増していくようだった。

「諸泉くん、あなた『大人を頼りなさい』って言いつけ守らなかったでしょう」
「……おれひとりでもできた」

はぁ、となまえはため息をついた。尊奈門の頑張りはよく知っている。知っているからこそ、この通告の意味も容易く理解出来てしまう。

「それに、なまえのことをまるで悪霊みたいに……」
「まぁそれも……はたから見れば、さ……」
「小頭は回復してるのに」
「子どもが何もないところに向かって話しかけてるって、結構怖いものだよ」

科学という言葉もないこの時代、得体の知れないものへの恐怖は現代の比ではないはずだ。とはいえ、自身が悪霊扱いされていると思うと当然複雑ではあるけれど。

「でもおれ……この任から外れたくない」

そこへ雑渡の手が伸びてきて、ぽんと尊奈門の膝を叩いた。

「みんなお前を心配しているんだ。少し休みなさい」

雑渡にまで言われてしまっては、流石に返す言葉はないらしい。尊奈門は無言のまま、むぅと唇を突き出した。

「陣左も自分の仕事がある。交代と言ってもおそらく一時的なものだ」
「……でも、」
「尊奈門」

低く沈んだ声色に、尊奈門は思わず背筋を正した。包帯の隙間から覗く雑渡の隻眼が、いかなる抗弁をも許さぬと告げていたからだ。尊奈門に許されたのは、ただ沈黙をもって首を縦に振ることだけだった。

「それで、みょうじ殿は何と?」
「…………高坂さんがこの部屋に来たら呪ってやる、と」

なまえはぎょっとして「諸泉くん!?」と尊奈門に詰め寄った。

「いい加減なこと言うのやめて!? それじゃあ本当に悪霊じゃない!」
「……『私が加護を与えるのは元服前の男児だけ』と」
「わー! やだやだ! それっぽく言わないでよ! 信じちゃったらどうするの!!」

なまえがどれだけ喚こうが、その声が雑渡に届くことはない。何とか訂正させようと尊奈門の肩を掴もうとするが、その手は虚しく空を掻くだけだ。

それらの抵抗を雑渡は知る由もないのだが、彼は尊奈門の嘘を見透かしたように呆れ混じりのため息をついた。

「尊奈門……顔がにやついてるよ」
「ふっ……くくく」
「全く、忍なら顔に出すなとあれほど……」

「それに」と雑渡は続ける。

「本当に彼女の加護がなくなったらどうするの」
「それは困ります!」

ぴしゃりと背筋を伸ばしてそう言った尊奈門は「高坂さんを呪うと言ったのはおれの嘘です」と深々頭を下げた。それに対し、「だろうね」と雑渡がさして興味もなさそうに答える。

「それより、彼女に頼みたいことがあったんじゃないの」
「あぁ、そうでした!」

尊奈門はがばりと頭を上げると自身の懐に手を滑り込ませ、一冊の綴本を取り出した。そうして「頼みたいこと?」ときょとんと首を傾げるなまえに、両手で丁寧にそれを差し出した。

「高坂さんへの引継書だ。網羅できているとは思うが、念のため確認してもらいたくて」
「なるほど……?」

物に触れられないなまえに代わって、尊奈門が綴本を広げてみせる。そこには細かな文字がびっしりと並んでいた。

ところどころには図解も添えられており、包帯の巻き方を示す手順図や、体位変換の仕方を表す人体図なども描かれている。それらは流麗な筆致とは対照的に、実に子どもらしいぎこちない線でできていた。

これらの図から察するに、きっと全て尊奈門が書き記したのだろう。この量を、おそらくはこの二日足らずで。

「字、上手だね……」
「そんなことはどうでもいい! 中身を見てくれ!」

そう言いつつも褒められた嬉しさを隠しきれないのが尊奈門の可愛いところである。が、しかし、今のなまえにはそれを堪能する余裕はなかった。

「ごめん、読めない……」
「は、」
「達筆すぎて……」

申し訳なさそうに縮こまるなまえと、思わぬ展開に絶句する尊奈門。

彼が精一杯書き連ねたその大人びた筆運びは、現代を生きる彼女にとって、あまりに高度な暗号でしかなかったのだ。これをすんなり読める人間は古文書に通じた学者か、よほどの好事家に限られてくるだろう。

結局、尊奈門は綴本の中身を全て読み上げる羽目になった。二日で書き上げたとは到底思えない分量を聴きながら、なまえはぼんやりと思う。こういうところなんだよなぁ、と。呆れを通り越し、どこか危ういまでの完璧主義な彼の性分が、今はただ痛々しかった。

​​​​​​​​​​​​「ん、完璧! ちょっと心配になるくらいには」
「心配? 不足があるならちゃんと言ってくれ!」
「違う違う、やり過ぎだって言ってるの。交代する理由分かってる? 休む気ちゃんとあるの?」
「休めるわけないだろう! 大体、おれはまだ納得してない」

だめだこりゃ、となまえは深いため息とともに額に手を当てて天井を仰いだ。その顔には早くも諦めが滲んでいる。

この頑固な少年を説得するより、雑渡の火傷を治す方が簡単なのではないかとさえ思えてくる。周りが心配して決めたことなのに、当の本人にその意味が全く通じていないのだから。​​​​​​​​​​​​​​​​

と、そこへ「尊奈門」と雑渡の声が響いた。

「外を見て学んで来るといい。城に引きこもっていては視野が狭くなる一方だ」
「学んで……、?」
「いまお前の頭は凝り固まっている。この機会に町にでも行ってきなさい」

尊奈門はしばらくぽかんと雑渡を見つめていたが、やがて何か腑に落ちたような顔で「はい!」と力強く頷いた。

その様子に、結局この人の言うことなら聞くんだ、となまえは彼の現金さに呆れるほかなかった。同時に、彼を上手く丸め込んでみせた雑渡に、感心半分呆れ半分といった視線を向けたのだった。

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ちんぷんかんぷん