ある夏の一日




 長い梅雨が明けて空がからりと笑った週末。私は尾形さんと話題の映画を見に行った。感想を語りながらお昼を食べた後は、百貨店の七階にある大きな書店をそれぞれ自由に回っている。

 外の茹だる暑さを忘れさせる冷房の風が心地よくて、紙とインクの静かな匂いに満ちた本屋はあっという間に時間が過ぎていく。小説コーナーから料理本のコーナーへ行き、一冊を手に取ってページをめくった。今日の夜は尾形さんの家にお泊まりするから、久しぶりに何か作るつもりだ。トマトやオクラ、みょうがに彩られた冷やしうどんが美味しそうで、お昼が中華だったし夜はさっぱりしたものにしようかなと思った。水色の涼し気なガラス皿が夏らしさを引き立てている写真に惚れ惚れしていたら、ふと、私は今日尾形さんの家でご飯を食べるにあたって大事なことを思い出す。
 たしかこの近くに百均があったな。

「まだ見ていくか?」
 振り返ると、さっきまで専門書コーナーにいた尾形さんが隣に立っていた。
「大丈夫です。あの、この後百均行ってもいいですか?」
「ああ。何か買うのか?」
「尾形さんの家に少し食器を置いて欲しいんです」

 私の家に尾形さんが泊まりに来る時は家でご飯を食べることが多いから、もう尾形さんの食器は一応揃っている。一方、滅多に料理をしないという尾形さんの家には一人分の、本当に最低限のものしかない。
 尾形さんがしまったとばかりに眉を顰めた。
「そうだったな。気が利かなくてすまない」
「いえ、このところずっと外食だったので私も忘れていました」

 尾形さんの家に自分のご飯茶碗が置かれることを考えると、胸が擽ったくなった。泊まりのたびに彼の家に私の私物が増えていくけど、食器はまた違う喜びがある。二つ並んだ食器は、誰かと食卓を囲む幸せが息づいている。

 でも、ちょっぴり怖さもある。尾形さんと付き合う前、私の家には今のものとは違うお揃いの食器が二つずつあった。前の彼氏が来た時に使っていたもの。別れて、何度心が死んでからも捨てることができずに自分の分だけ使い続けていたけど、尾形さんにそれを使わせたくはなくて、ようやく私はあの人との思い出を手放した。そんな兆し今のところ一つもない。でももし、もし尾形さんと別れることになった時、重い陶器が擦れ合う音を聞きながらビニール袋に詰めていくことはもうしたくない。だから出先で可愛いグラスや箸置きを見かけても、買うのを躊躇ってしまう。

 尾形さんは私が手に取っていたレシピ本に視線を落としている。尾形さんの家は物が少なくてとてもシンプルだ。私に色々買われて物を増やされたくないだろうなという心配もある。

「だったら、百均じゃない方がいいだろ」
 尾形さんの言葉に目を瞬いた。「行くぞ」と言って手を引く尾形さんについていく。どういうことか分からなかったけど、エスカレーターに先に乗った尾形さんは前を見たままだから聞けなかった。私は時折、こうして言葉数が少なくなる彼の意図を汲み取れないことがある。一緒に選んでくれようとしているのは分かるから嬉しいけど。

 一つ下の階に降り、再び尾形さんに手を引かれて連れていかれたところはさっき通りかかったインテリア用品店だった。ミントグリーンの壁紙の一画は、花をモチーフにした特徴的な北欧柄のプレートや、木目にやわらかさを感じる木の皿が店頭に並んでいる。ああ、ダメだ。こんな可愛いお皿見てたら、ていねいな暮らしへの憧れをますます募らせてしまう。

「俺が買うから好きなの選んでいけ」
「いや、でもここちょっと」
 立てかけてある値札をちらりと見た。可愛いだけあってやっぱり値が張る。ここで色々揃えたらいい値段になってしまう。
「気に入ったものを選んだ方がいいだろ」
 なんて事ないように尾形さんが言った。私の好みを分かってここへ連れてきてくれたのだろう。その優しさに少しだけ甘えてしまおうと、お礼を言ってご飯茶碗を手に取った。陶器はしっとりと冷たいのに、丸みをおびた愛らしいシルエットにあたたかみを感じるのは何故だろう。

 あれもいいこれもいいと優柔不断に迷ってようやくご飯茶碗と汁椀、お箸を決めた。おかずのお皿を選び始めると、尾形さんが買い物かごを持ってくれた。とりあえず結婚式の引き出物で貰ったというプレートは二つあるから、大皿一つと小鉢二つがあれば事足りる。でも、木製のプレートやオーバル皿、グラタン皿、サラダボウルにいちいち目を留めてしまって、その度に尾形さんが躊躇いなくカゴに入れていく。さっきレシピ本でみたガラス皿によく似たものを見つけた頃には、幅広い料理がまかなえるだけの種類が揃っていた。

「尾形さん、さすがにこれは買いすぎですよね?」
 ぎっしりと詰められたカゴを見て苦笑いした。まるで同棲でも始めるみたいだ。私の会社が厳しくて、一緒に住むことはできないんだけど。
「こういう皿はお前ん家にあるのか?」
「いえ、グラタン皿とか魚用のお皿はさすがにないですけど」
「じゃあいいだろ。長く使うんだから、これくらい別に」
 聞き逃してしまいそうな程小さな声だった。ガラス皿を二つカゴに入れた尾形さんの頬が赤いのは気のせいではない。熱がうつったように、一気に私の顔も火照っていく。その言葉の意味するところを勘違いじゃないのか聞き返したいけど、それは野暮というやつなのだろう。

「嫌なのか?」
「そうじゃなくて。尾形さんの家ってすっきりしてるし、あまりもの増やしたくないんだろうなって思ってたから」
「お前の飯が食えるなら構わない」
 愛という形のない不確かなものをまだ信じ切れていないのだろう私に、この人は真っ直ぐに信じきった愛を与えてくれる。それは形にしたら少しでこぼこしてるかもしれないけど、私の心を奥底から温めてくれるのだ。

「尾形さん」
「ん?」
「私、尾形さんにこれからもずっとご飯を作りたいです」
 大きな黒目がキュッと細まる。尾形さんが食べながら「うまい」と言うとき、あどけなく和らぐ表情が愛おしいから。

 私を見つめ返していた尾形さんは、再び私の手を引いて足早に歩き始めた。ネコの描かれたグラスに目を引かれたけど、尾形さんは脇目も振らずレジに向かっていく。
「これ買ってさっさと帰るぞ」
「もうお腹すきました?」
「違う。お前を早く抱きたいから帰る」
「なっ……!」

 レジにカゴを置いた尾形さんが私へ向いて熱を孕んだ視線を寄越す。やっぱり今日は料理できないかもしれない。でも悩みに悩んで決めたお揃いのご飯茶碗は、食器棚に並んで座るのをきっと楽しみにしている。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る