最終話
短い振動音が響く。二次会を断り先に帰った自分への宇佐美からの野次だろうと思った。しかし、決めつける頭とは裏腹に、ベッドサイドへ伸ばした尾形の腕には緊張が走っている。
伏せていたスマートフォンの画面をゆっくりと傾ける。すると、予想にも期待にも反したそのメッセージ主の名前に、眉を顰めた尾形はスマートフォンをぐっと引き寄せた。
「……は?」
暗闇の中で白い光に照らされた尾形の顔は、信じられないものを見る形相だった。
“門倉利運”
この男から尾形へ送られてきた、初めてのメッセージだ。現世で彼女と再会した夜。『俺も仕事であの辺よく行くし、名前ちゃん見かけたら連絡するよ』と勇気づける門倉と連絡先を交換したことを、尾形は今まで忘れていた。
更に驚くべきは、そのメッセージだ。
“名前ちゃんキラウシに来てるぞ”
尾形は彼女に全て話したあの朝、昨日訪れた居酒屋の二人が、前世から繋がりのある人間であることを伝えている。なぜ自分から距離を取っている今、この男たちのところへ出向いているのか。嫉妬に似たもどかしさを覚える尾形のところへ、立て続けにメッセージが入る。
“名前ちゃんには黙って送ってる 昔の話を聞きたいってさっき来た”
あの写真によって自分たちが危機に瀕していることを、門倉たちが既に聞いたのだろうと察した。
“お前とのことを思い出したいんだと”
胸が突き破られるように痛んだ。下ろした前髪の向こうで、大きな目が苦しげに細まる。
この三週間、どうすれば彼女に許してもらえるかばかりを尾形は考えていた。しかし本当はあの時、一番伝えなければいけないことがあったのだ。口にしていないだけで、もう伝わり切っていると思っていた言葉を。
ようやく気づいた尾形がベッドから跳ね起きる。床に散乱した衣類の中からジャケットを手に取ると、部屋を飛び出した。
***
こんなことをしたって何の意味もないのかもしれない。
尾形と過ごす中でも、記憶が戻ることはなかったのだから。
そう思っても、彼女は一縷の望みにかけるしかなかった。彼以外にも、彼の周囲に記憶を取り戻している人が何人もいるのなら。彼と再会した自分も思い出せるのではないかという期待を、抱かぬわけにはいかなかった。
尾形がではない。彼女自身が、受け入れられなかったのだ。心の内では思い出すことを望まれているのに、自分の愛した女に戻って欲しいと願われているのに、思い出せない自分が。
架道橋を潜った先の飲み屋街。金曜日といえど深夜にさしかかる今は、先日のような賑やかしさは引いているようだった。呑み処キラウシで彼女を迎えたのは、店を出ようとしていた最後の客だ。
「あれ! どうしたの一人?」
先日尾形と訪れた時、自分たちに構ってきた尾形の知人だ。彼女は頭を下げたが、にこりと笑うことはできなかった。雨に濡れた子犬のような顔の彼女をまごつきながらも店に入れた門倉は、自分も中へと戻っていく。
「キラウシー! 名前ちゃん来たぞ!」
店の奥から出てきた店主が三白眼を見開くと、彼女がおずおずと頭を下げた。カウンター奥に自分を座らせた店主がお茶を差し出す。口にするとほっとする温かさが胃に広がった。先程まで会社の二次会に参加していたが、酒を飲む気になれなかった彼女には疲労感だけが残っていた。
「一人で来たってことは、そのー、尾形と何かあったのか?」
隣に座った門倉が、躊躇うように切り出した。
「せっつくなよ門倉。だからお前はデリカシーがないって言われるんだ」
「何言ってんだよ! 俺は管理職として部下からしょっちゅう相談受けてるんだぞ」
「その職場が心配になるな」
くだらない舌戦に彼女が薄らと微笑む。先日、自分に二人がとても優しかったのは、自分が尾形の恋人だからだと思っていた。しかし、それだけではないのだろう。
彼らの知る〈前世の彼女〉が、皆に愛されていたのだろう。そんな〈彼女〉の魅力が尾形も惹きつけたのだと思うと、彼女の心に再び嫉妬が渦巻いた。
自分の前世の写真を見てしまったことをきっかけに尾形としばらく会っていないことを彼女が話すと、二人は顔を真白くして絶句した。写真は二人が尾形に渡したものだったらしく、仲違いさせる原因を自分たちが作ってしまったと思ったのか、彼女が止めても謝り倒した。どうしても前世のことを思い出したい、自分について知っていることを教えてほしいと懇願する彼女に、二人は戸惑いながらも遥か昔の記憶を言葉にしていく。歴史上ではとうに戦死したと言われていた土方歳三率いる一行の中で、飯炊きのような役割を与えられて旅をともにしていた〈名前〉。どこまで聞いても情景さえ上手く浮かんでこない、他人の物語だった。誰に寄りつくわけでもなく、猫のように突然現れてはいなくなりを繰り返していたという狙撃手の尾形の話も。しかし、姿を消した尾形を〈彼女〉がどれだけ心配し、再び現れた尾形にどれだけ安堵したのか。彼への愛を募らせてきた自分には、何も思い出せずとも〈彼女〉の感情を共有した気がした。他の男との結婚を尾形に止めてほしいまま、別れの日を迎えたのだろう悲しみも。
「その隠れ家や神社って、どこにあるか覚えてますか?」
「永倉さんの隠れ家は覚えてるが、とっくに盾壊されてるぞ?」
「そうですよね」
「おい、まさか行こうとしてるのか? 名前ちゃん少し落ち着けよ」
その地へ赴けば何か思い出せるかもしれない。今の彼女は誰に何を言われようと心に響くことはなく、記憶を戻すことへの焦燥を募らせるばかりだった。
およその住所を聞き出そうとした時。入口の引き戸が、勢い良く開く音がした。
驚いた三人が一斉に振り向く。上下黒のスウェットにフードジャケットを羽織った男。頬の傷がなければ、彼女は一瞬誰だか分からなかった。男は慌てて駆けつけたのか息を切らしていたが、長い前髪の隙間から覗く瞳が彼女を捉えると、その顔が今にも泣き出しそうに歪む。
どうしてここへ来たのか。考える前に、彼女の瞼が熱を持ち始める。自分の中にいる〈彼女〉を見つめていた尾形と、どう向き合えばいいのか分からなかった。しかしこうして一目見てしまえば、愛おしさが次々と雫となってこぼれ落ちてしまいそうになる。
尾形が真っ直ぐと彼女のところまで歩いてくる。何と声をかければいいか分からず俯く彼女の目の前まで来ると、背もたれに掛けてあるコートを手に取り彼女に差し出した。
「帰るぞ」
「えっ、」
彼女が慌てて門倉と店主を見ても、二人は尾形が迎えに来ることを予め知っていたかのように動じない。
「名前ちゃんは一度尾形と話し合え。それでもまだ納得がいかなかったらさっきのことは考えればいいだろ」
彼女が唇を噛み締める。話し合ったところで尾形の本心が変わるわけではないのにと思いながら、渋々コートに腕を通した。
「すまなかったな」
尾形は二人へそう言い残すと、さっさと入口へと歩き出してしまった。尾形を追いかけて店を出る彼女が振り返り一礼する。若者を見守る男たちが手を振っていた。
***
店を出た後、「少し歩いてもいいか」と自分に断りを得た尾形と、彼女は並んで歩き続けた。手を繋ぐことも、言葉を交わすこともなく。手を伸ばせばすぐに触れられるのに、自分から距離を置いた三週間は尾形を遠くに感じさせた。
駅とは反対方向の真夜中の街は、研ぎ澄まされた静寂が広がっている。河川を跨ぐ橋の上を渡る最中で、尾形がようやく立ち止まる。ビルや街灯の光を照り返した水面が不安げに揺らめいて、ひやりとした川風が頬を撫でた。夜闇よりも真っ暗な黒目が、彼女をじっと見下ろしている。
「何を聞いた」
問い詰めるような声に、彼女の肩が跳ねた。尾形が彼女に、こんな声で話すのは初めてだった。
「昔の私と尾形さんのことについてですが、」
「もうそういうことはするな」
自分がこの三週間、悩みに悩んで辿り着いた答えを、尾形はぴしゃりと跳ね除けた。
彼のために記憶を取り戻したいという望みを、切り捨てられた。
「自分はその人の写真を大事に持ってるくせに……なんで私には、そんなこと言えるんですか」
声が震えるのを抑えられなかった。
「必要ないからだ」
街灯の光が滲んでいく。尾形と離れている間、初めて駅のホームで自分と会った時の彼の顔を、彼女は何度も思い出した。あんな顔を、自分では彼にさせられない。
「確かに最初は、お前に記憶を取り戻してもらえたらと思った。でも今は違う。俺が今も前世のお前への未練で一緒にいると思ってるなら、あの写真をお前の前で破り捨てたっていい」
彼なりの誠意のつもりなのだろう。しかしその言葉が一層、彼女を惨めにしてしまう。
自分が狭量な女だと、彼から突きつけられるようなものだった。
喉の奥が詰まったように息が苦しい。首を振る彼女から、堪えることができなくなった涙が次々にこぼれ落ちていく。
ただ愛し合いたいということが、何故こんなにも難しいのだろう。
「ちがうっ、そんな、そんなこと……させたいん、じゃないっ」
真夜中の静かな橋の上に、彼女の崩れた声が響き渡った。毅然としていた尾形が目に見えて動揺して彼女に腕を伸ばすが、すんでのところで触れるのを躊躇っているようだった。向こうから走ってきた車のライトが涙で濡れた頬を照らす。きっと酷い顔だろうと思っても、彼女は覆い隠そうとしない。
「尾形さんのっ、心の中にいる、もう一人の自分が羨ましくて、仕方ないんです。私の方が絶対、尾形さんのことを好きなのに。私なら、尾形さんと最後まで、一緒にいるのに。でも尾形さんが私に、記憶を取り戻すことを、望んでるなら……、な、何とかして、思い出したいって思うのは、そんなに、悪いことですか」
唇に入ってきた塩辛さに切なくなりながら、彼女は本心を吐露していく。
今ここにいる尾形と前世の尾形だって、時代も生きてきた環境も違えば、もはや別人なのかもしれない。彼なら前世のことを忘れて、他の女と幸せになる道だっていくらでも選べるのだろう。それでも尾形が忘れられなかった〈名前〉が妬ましくて。
名前は〈名前〉になりたかった。
コンクリートに涙が弾けていくのを見下ろしていると、ふいに視界が真っ暗になった。
締めつけるような、痛いほどの力強さ。尾形に抱擁されたのだと気づいた。
「すまない。そんな風に、思わせて」
耳元で途切れ途切れに聞こえてくる声も、微かに震えていた。尾形の手のひらが彼女を宥めるように、彼女の存在を確かめるように、背中を擦る。その優しさにまた鼻の奥がツンと痛んで涙が滲んでくるのに、尾形は構うことなく自分の胸元に彼女の頭を押しつけた。
「俺はお前が、思い出さないままでいい。でもな、ここにいるお前を失うことほど、辛いことはない」
会えない間、どうにかなりそうだった。
尾形の言葉が、彼女の荒んでいた胸に染みていく。今の彼女が必要だと示す言葉。彼に自分の本音をぶつけた今、ようやく真っ直ぐ受け取ることができる。
いや、初めから受け取っていたのだ。
今の彼から、今の自分への想いを。
彼は最初から、今の自分を見つめていた。
肩に顔を埋めた尾形の背中に、今度は彼女が腕を回した。泣きながら、ごめんなさい、とこぼして。彼は目の前の自分を見ていなかったのだと傷ついていた。しかし自分こそ過去に囚われて、目の前の彼と向き合うことから逃げていた。
尾形が彼女の肩に埋めていた顔を上げる。長い前髪の奥の目尻が赤らんでいて、彼女の目からも、また愛おしさが溢れて出てきた。
「愛してる。今のお前のことを」
充分だった。
この愛は、自分だけのものだ。
自分がずっと欲しかった言葉を紡いだその唇に、彼女は口づけた。もう目の前の彼の愛を見失わないことを誓って。
***
枝々に咲き満ちた花が、街を淡紅色に染めている。
ゆっくりと時が流れている桜並木の下。柔らかな日差しが織り成す木漏れ日の中で、尾形ははじめて、春の美しさに心が解けていくのを感じていた。
「綺麗ですね」
隣を歩く彼女に相槌を打つ。家を出てすぐに絡めた指は、春になってもひやりとしていた。離れていた分、もう一度繋ぐことのできたこの手の愛おしさを噛み締める。
「ここでも楽しめそうですね、桜」
「ははぁ、せっかくいい場所を取りたいって人を叩き起したんだから、名所の花見を満喫しようぜ。」
「起きてたくせに」
彼女の頬がほのかに染まる。今朝、尾形を起こしに行くとそのままベッドの中に引きずり込まれたことを思い出したのだろう彼女に、彼がしたり顔で笑う。人で溢れ返っているはずだと最初は乗り気でなかった尾形だが、昨夜から彼女がキッチンに立って弁当の用意をしている様子をそわそわと眺めていた。
駅まで続く桜並木には、所々で人が足を止めている。カメラを持って撮影する人、赤子を乗せたベビーカーを押す女性、杖に手を添え合う老夫婦。自分たちが来た方向へ走っていく子供たちとすれ違うと、彼女は見守るように振り返った。
「どうした?」
「……いえ。こうして街ですれ違う人たちにも、全く違う人生を歩んでいた前世があったのかもしれないと思うと、不思議だなって」
彼女の表情は穏やかだった。彼女が本当に納得したのか、尾形は少しの間気がかりだった。しかしあの日からもう、彼女が自分たちの前世について尾形や周囲に聞くことはない。「お騒がせカップルかよ」と自分を揶揄ってきた宇佐美が彼女と二人で会っていたことが、尾形はまだ少し気に食わないが。
穏やかな風に枝が揺れる。冬に再会し、ひとつ季節を越えた先。尾形の中で、時折舞い散る花びらがあの日の雪に重なる。
「最初はお前に、思い出して欲しかったと言ったな」
彼女が少し間を置いて黙って頷く。尾形を見つめるその瞳は、優しいのに揺るぎない強さがあった。
「本当はそれと同じくらい、それ以上に、思い出されたくもなかったんだ。……前世で俺は、本当に碌でもない男だった。お前を傷つけるようなこともした」
記憶が戻った尾形は、自分が生まれ変わった意味を考え続けた。同じ家族、帳尻を合わせるように前世の自分と重なっていく人生に、前世での所業を今世で償えということかと憤った。しかし自らの罪に向き合わされる人生の中で、彼女と再会して初めてその運命を喜べた。
「お前は俺のことを思い出したところで、嫌な記憶でしかないかもしれない。だから、俺のことも、……お前が連れ添った男のことも、思い出されるのが怖かった」
今さらこんなことを伝える必要などないのかもしれない。しかしあの夜、己の心の内をぶつけてきた彼女に尾形もまた、己も胸襟を開かなければならない気がしていた。
彼女がぴたりと足を止めて、尾形が振り返る。
咲き乱れる花の中で微笑む彼女が、尾形の時を止めた。
舞い散る白い雪が、淡く色づいた桜へと変わっていく。
「多分、前世の私は、結婚して家族を持ったあとも、尾形さんのことが忘れられなかったんだと思います。だからこうして生まれ変わって、また会えたんですよ。今度は尾形さんと幸せになりたいと願ったから」
尾形の心の奥に降り積もっていた雪が、眩い白い光に溶かされていく。
雪の中を一人で歩き続けた尾形に、春が訪れた。
「言ったからな」
「え?」
「“最後まで一緒”なんだろ、お前は」
繋いだ手を強く握り直す。世界で一番美しい花を見つめる目が、愛おしさに細まる。甘い光の中で舞う花びらが、現世で結ばれた二人を祝福していた。