雪の中の孤高



 
 この地の冬は過酷だ。

 正午過ぎから空を覆った雲は、まもなく雪をちらつかせそうな薄暗さをたたえている。まっさらな銀世界はここでは日常的な景色だ。しかし雪が降り落ちる前にそこはかとなく漂う暗鬱な空気が、私は北海道へ来てしばらく経つというのにどうにも慣れなかった。

 凍てつく風が吹きつけて、慌てて引き戸を閉める。肩を擦りながら振り返ったが、仏壇はものともせず眠るように静まり返っていた。寺内も肌寒い空気が張り詰めている。私は大きな火鉢の前に座ると、火箸で赤く熾った炭をいじり、冷え込む夜に向けて更に炭を足していく。

 両親を流行り病で亡くし、働き口を探して都会へ出た私は、盗賊団に攫われ趣味の悪い金持ちに売り飛ばされる寸前だった。その夜偶然にも奴らの根城へ乗り込んできた土方様に助けていただき、恩返しをするべく彼らの身の回りの世話を申し出てしばらく経つ。隠れ家での生活も、行く先々で仲間が増えたことで当時より賑やかしい大所帯になっていた。

 炭に火が移ったところで、玄関の引戸が開く音がした。
「おかえりなさいませ」
 振り返って確認した姿に、すぐに火鉢へ向き直る。誰だか確認するまでもないほど、私はこの人の気配に慣れていた。いや、今朝男たちが揃いで出かけていった時から、この人だけが先に帰ってくるような気はしていたのだ。何も言わずに銃を下ろした男は居間にあがり、案の定火鉢の前へどかりと腰を下ろすとその中へ手を翳した。居間へいるときは必ずと言っていいほど、火鉢の前を陣取るのが尾形さんだ。私の火鉢の世話は、最早この人のための仕事だと言っても大袈裟ではなかった。事実、炭の火が消えると尾形さんは「おい」と不服な顔をして私を呼びつけるのだから。

「雪が降ってきた」
「積もりそうですね」
 窓へ目を向けると、外は既に大きな雪片が風に舞って吹き荒れている。

 雪が降る景色は切なくなる。陽の光の差さない、真っ白で、深いしじまに包まれた世界。その美しさと無慈悲さに、いつも自分が無力で孤独だと思い知らされる気がするのだ。

 炭がパチリと、爆ぜた音を立てた。
「これじゃ爺さん達もしばらく帰ってこねえな」
 尾形さんが唇に弧を描く。白々しい。どうせそうなることを見越して自分だけ帰ってきたくせに。
「皆さまはどちらへ?」
「街へ行った。牛山が女を買わせろと煩くてな」
「尾形さんもご一緒すれば良かったではありませんか」
 立ち上がってその場を離れようとした。少し早いが夕餉の支度でもしよう。二人分でいいのなら今日は楽だ。

 後ろから畳が軋む音がする。振り返らずに歩を早めた。しかしそんな意思表示も虚しく、ここが寺だと弁えない節操なしな両腕に抱き留められてしまう。襟合わせに差し込まれていくこの手は何。そう思いながらも身体を捩ることもしないのは、無駄だと分かっているからだ。火鉢に翳していた熱い手のひらに膨らみをまさぐられると、思わずこの男を悦ばせる吐息が漏れて、低く笑う声が耳元を擽る。

 腕を引かれ、私一人が寝床にしている部屋に連れていかれて組み敷かれた。舌なめずりせんばかりの興奮にぎらついた尾形さんと、視線が重なる。

 初めて会った頃、この人の目が恐ろしかった。彼も死線をくぐり抜けてきた強者なのだろう。しかし土方様や牛山さんたちとは違う、闇を覗き続けてきたようなどこまでも真っ暗な瞳。彼が仕留めてきた鴨や兎を手渡されるたび、物言わぬままその目でじっと見てくるのだ。お前もすぐにでもこうしてやれるぞと言われているようで、彼に生殺与奪の権利を握られているようで恐ろしかった。

 そんな目が隻眼になってなお、情欲を灯して私を見下ろしている。
 荒い息が首筋に触れた。晒された肌に舌が這い、上りゆく快感に身体が跳ねる。庭の木々や砂利が薄らと雪化粧に覆われていく最中、雪に閉じこめられた仄暗い部屋で、尾形さんの猛々しい熱に飲み込まれていった。
 
 
 きっかけは火鉢だった。

 炭が燃え尽きた火鉢を見つめる尾形さんの後ろ姿が、哀愁漂う猫の背中を思わせて何だか可笑しかったのだ。
「今火を起こしますね。待っていてください」
 そう声をかけると、尾形さんは驚いたのか瞳孔を細めて私を見上げた。私に恐れられている自覚があったのだろう。皆が親切な中でも、彼だけは私に冷たかったから。それ以降彼は、私がどこにいようと炭の火が消えそうになると私を呼びつけ、自分の獲った獲物を台所で捌く私を斜め後ろに立って眺めるようになった。

 会話を交わすようになり、街への買い出しについて来るようになり、狩りへ連れて行かれるようになり。

 やがて二人きりになると、彼は私に触れるようになった。

 尾形さんにとってみれば、私に構うことに意味などないのだろう。土方様たちとは利害の一致により旅を共にしているだけ。誰にも気を許すことはない孤高の存在。そんな彼も、何の力も因縁も持たない無害な娘になら、気まぐれに戯れることができたというだけだ。私を抱くときに目に浮かべる漲った熱と、同じ温度の感情がこの人にあるなんて思い上がってはいけない。でないと全て奪われてしまうと、心に歯止めをかけてきたつもりだった。
 
 
 尾形さんが雪見障子に映る景色を眺めている。顔は見えないが、温度など感じさせない真っ暗な瞳に戻っているはずだ。その目が時折遠くを見つめるとき、どこを見ているのかを私は知らない。彼がこの旅の果てに何を求めているのかも。どうして右目を失ったのかも。こんなに近くにいるのに、この人は自分の心の内に私を寄せつけないのだから。

「縁談の話が、来たんです」
 背中に向けてぽつりと言った言葉は、振り返りもしない尾形さんのせいで、行き場をなくし宙を彷徨っているようだった。

 相手は阿寒で滞在した旅館の一人息子だ。仲居さんの下げ膳を手伝った私を、女将さんが気に入って下さり永倉様に尋ねてきたらしい。永倉様の温情でもあるのだろう。旅の終わりが見えてきた今、自分たちの世話をしてくれた身よりも行くあてもない娘を、平穏な暮らしに帰してやろうと。

「土方のじいさんに聞いた」
 ようやく返ってきた一言に、目の前が真っ暗になった気がした。

 知っている。土方様があなたに話すところを、私は隠れて聞いていたのだから。決して言葉にはしないが私たちの関係を察していたのだろう土方様が、どういう意図であなただけにその話をしたのか分からないわけがないはずだ。でも尾形さんは火鉢から顔を上げぬまま「いいんじゃないか。嫁の貰い手ができたならあんたらだって安心だろ」と言っただけだった。それでも二人きりになればこうして抱くのだから、最低な人。でも抱かれた後、一縷の望みにかけてこの話を切り出した私はもっと最低だ。

 こっちを見ようともしない男にこれ以上縋りつく自分が惨めで起き上がった。すると尾形さんが急に寝返って、引き止めるように私の腕を掴む。

「寒い。まだここにいろ」
 身勝手さに呆れる間もなく引き寄せられ、ぺしゃりと布団の中へ倒れ込んだ。尾形さんの逞しい腕の中に抱き入れられる。肌の温もり、脈打つ心臓の音が伝わってくると涙腺がじわりと緩んだ。目を離せば吹雪の中に消え入ってしまいそうなこの人と、互いの温度を確かめ合う時間に何度も安堵してきたのだから。

「名前、すまない」
 肩が震えるのを気づかれたくなくて奥歯を噛み締めた。

 そう思うのなら連れて行って。でも、尾形さんはこの旅が終わり目的を果たそうと、降り止まない雪の中を一人歩き続けるのだろう。その隣に私が連れ添うことを許してはくれない。身も心も奪っておいて、私の人生を奪うことまではしてくれない。

 雪がしんしんと降っている。尾形さんが私に与えてくれた熱を憶えていたくて、濡れた頬を彼の胸に寄せる。すると彼の腕にもっと力がこもるものだから、また涙がこぼれ落ちていった。
 

 どうかこの人の行く先に、雪が解け、柔らかな風が吹く、春が訪れますように。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る