第一話




 薄暗い灰色の雲が垂れ込めた朝だった。

 とうに木の葉を全て落とした街路樹は、冬が過ぎるのを待ち詫びながら寒々しい枝を空へ伸ばしている。その間を吹き通る肌を刺すような風に、尾形は自ずと眉を顰めた。

 朝一の会議で発表するプレゼンのために普段よりも早く家を出た。それでも乗車した電車の混み具合は殆ど変わらない。今の会社へ新卒で入社して五年。卓越したビジネスマンとしての才覚で辣腕を振るってきた尾形は、社内で一目置かれる存在だ。しかし、激務に追われる日々の中では稼いだものを使う時間も碌になく、この通勤時のストレスから逃れるためにも会社近くのマンションへ越すことを検討していた。

 人と人の隙間など殆どない車両で、みな息を押し殺したように耐え忍んでいる。尾形もこの十数分をやり過ごすべくネットニュースをチェックしていたが、ふと窓の外を向いた。同じようなビルが立ち並ぶ、都会の景色が捲られていく。その中に、光のような白い粒がひらりと降り落ちてきた。

 初雪だった。風に吹かれて舞う繊細な雪片。次々に降り落ちてくるその姿は美しく、乗客たちの心に小さな光を灯したのか、車内の雰囲気から重苦しさが抜けていく。

 尾形だけが、窓から視線を逸らした。彼にとって雪の景色は、否応なく前世の記憶を克明に呼び戻す。東京とは比較にならない北海道の骨身に染みる寒さ。兵団での生活。日露戦争。金塊争奪戦。樺太の旅。
 降り続ける雪の中で、自分のそばにあった温もり。
 
 記憶の中の銀世界へ誘われていく尾形を呼び戻すように、降車駅に到着したアナウンスが流れドアが開いた。ギリギリのところでせき止められていた人たちがホームへとなだれ込んでいく。階段へ向かう最中、尾形の頬に冷たいものが触れた。確かめる間もなくじわりと溶け消えて、尾形はその感触を鬱陶しそうに指で拭う。

 雪は嫌いだ。己の証明のために為した前世の所業を、そんな自分に愛を与えてくれた者を手に掛け、突き放したことを思い出させる。
 これが自分への罰なのだろうか。
 心の中で自嘲した尾形の背中に、後ろから誰かがよろめいたように衝突してきた。

「ごめんなさい!」
 女の声だった。雑踏の中のたったその一言に、自らの心臓の音が全身へ響き渡る。身体の奥底で眠っていた何かが覚醒していくような感覚。反射と違わぬスピードで後ろへ向いた尾形に、怒られると思ったのか女は肩を震わせた。

 その顔に、面影を探すまでもなかった。間違いない。記憶を取り戻してから今日までずっと、尾形がその残像に囚われ続けてきた彼女だった。OLらしい格好からして、年齢はあの頃より少し上だろう。生まれ変わり同じ時を生きている偶然などありえないと、自分に言い聞かせてきた。しかし一人、また一人と、あの時代を共に生きた人間と再会するたび、彼女と自分にも前世の因縁があればまた巡り会えるはずだと、執念深く望みを持ち続けた。

 その彼女が目の前にいることに、この人生で最も感情が昂っていく。
「名前だろ? 俺だ、尾形だ」

 しかし、尾形が彼らしからぬ微笑みで名乗っても、彼女の顔は固まっていた。尾形との再会に驚いた表情ではない。大きな瞳には疑念と恐れが浮かんでいる。急に振り返って詰め寄ってきた男を、不審がり怯えている目だ。

 我に返った尾形が一歩離れると、彼女が薄い唇をおそるおそる開けた。
「あの……、すみません。どちら様ですか?」
 

 ***


 普通の女が、ここでは異色だった。
 茨戸の抗争から土方たちの陣営に参入した尾形は、彼らの隠れ家へ赴くと世話係の娘を紹介された。

 名前と名乗って頭を下げる華奢な女はいかにも非力そうで、先ほどのような闘いに巻き込まれればすぐ命を落とすだろう。土方曰く、小樽で争った盗賊団が人身売買を目的に攫ってきていた女らしい。行くあてがない娘にここで飯炊きの役割を与えて置いていることに、軍を相手取って闘おうとしている奴らがお人好しが過ぎないかと尾形は内心呆れた。

 彼女はきびきびとよく働き、そしていつも笑っていた。抱かせろと迫る牛山からは逃げ回り、血だけでいいから分けてくれという家永の懇願には苦笑するが、それでもいつも気丈に振舞って皆の世話をする。面子が面子だ。利害関係のためとはいえ、互いを信用しているわけではない者同士が寝食を共にしているのだから、ここでの共同生活は殺伐としそうなものだ。しかし、何の力も利害も持たず皆に親切な彼女がいることで、まるで気のいい女将の民宿にいるような空気が流れていた。

 彼女の笑みに一同が和まされるのが癪に触って、尾形は決してその輪へ入ろうとはしなかった。彼女もまた、尾形を前にするとその表情に緊張が走るのだ。愛想もなく、仕留めてきた鴨や兎を手渡す時に自分をじろりと見下ろす尾形が怖かったのだろう。尾形はそこで態度を改めるどころか、彼女から話しかけられても冷たくあしらったり嫌味を返して、意地の悪さを存分に発揮していく。

 こんな女に絆されてたまるか。
 そう態度を硬化させていた尾形だが、彼女が火を熾す火鉢は尾形が占領しているようなものだった。雪山で火を起こさず一晩過ごすだけの忍耐力のある彼だが、家屋の中では誰に憚ることもなくこの小さな温もりにかじりつくのだから、ふてぶてしいことこの上ないものである。

 ある夕時だった。出先から戻った尾形はいつものように火鉢の前に腰を下ろしたが、ほどなくして炭が燃え尽きた。先ほどまで赤く火を灯していた炭が、一つ突けば崩れ落ちそうな灰になって熱が引いていく。己を温めていたはずの燃え殻を、尾形はただじっと見つめていた。

「ふふっ、」
 擽ったそうな笑い声。顔を上げると、夕餉の支度をしているはずの彼女が立っている。居間には尾形しかいない。態度には出さずとも尾形を恐れていたはずの彼女は、明らかに尾形の様子に笑いを零したのだ。

「何笑ってる」
「いえ、ごめんなさい。炭火が消えてしまってたんですね。言ってくだされば良かったのに」
 尾形が睨みをきかせてもあまり意味がないようだった。火が消えてがっかりしていると思われたのだろう。苛立ちよりも羞恥に近い感情が込み上げてそっぽを向く。

「尾形さん」
 早くあっちに行け。そう思いながらもその場を離れない彼女に「何だよ」と悪態をついてもう一度顔を向ける。猫のような大きな目を更に見開いた尾形は、その表情を硬直させた。

「今火を起こしますね。待っていてください」
 人の心を包むような、花が綻んだような微笑み。こいつは自分に辛く当たってきた人間に、こんな風に笑えるのかと呆気に取られた。

 罪を知らない笑顔で、あの男たちと笑っているのが気に食わないと思っていた。しかし今、自分に向けられた柔らかな笑みに、尾形は感じたことのないむず痒さを覚えている。

 心の乱れを誤魔化すように髪を後ろに撫でつけた。火鉢なんて要らないほど顔が熱くて仕方がなかったが、彼女に新しい炭を熾しに行かせるためには、「早くしろよ」と憎まれ口を叩くしかなかった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る