後編



 陽炎がたちのぼるコンクリートは、日が沈んでも熱気を残して都会の夜を蒸し暑くしていた。でも、街はようやく今年手放しで楽しめる夏を盛り上げるかのように活気づいている。

「〇〇寺は穴場だって聞いたけど」
「そんなわけないよ!あのへんはどこも同じだって」

 ホームで電車を待っていたら、後ろへ並ぶ男女の話し声が耳に入ってきた。いつか尾形くんと約束した花火大会がもう今週末に迫っているらしい。あの後舞い上がってすぐに買った浴衣はクローゼットにしまいこんだまま。尾形くんは忘れているだろうな、と独りごちてトークアプリを開く。
 毎日尾形くんからのメッセージが来ていたトーク画面は、あの日すぐに送った私のお礼のメッセージを最後に途絶えている。「元気にしてる?」尾形くんを案じる言葉を打っては、結局送信できずにバックスペースを長押しすることを繰り返していた。

 尾形くんと会わない日々は一日が淡々と過ぎていく。心を乱されることなく電車の窓の景色を眺めて、気まずさを覚えることもなく一人でマンションまでの道を歩く。住宅地への一本道は人通りもそれなりにあるから、夜でも危ない目に遭うことはない。

 ずっと自分が望んでいたことだ。これで私は、もう尾形くんを許せないことに苦しまずにいられる。さすがに不誠実だと思って遠慮していた出会いの場への誘いも、尾形くんとの関係が切れたなら断る理由はない。それなのに、毎日必要以上に仕事を急いで片付けて、駅へ早足で向かっている。そこに尾形くんの姿がないことに肩を落として、しばらく立ち止まってしまうのだ。

 なぜ尾形くんがぱったりと姿を見せなくなったのか心当たりを探すまでもなかった。マンションのエレベーターの前で私の言葉に傷ついた尾形くんの顔が、頭から離れないのだから。
 あそこで帰らずに私を看病してくれたのはひとえに尾形くんの最後の優しさだ。また穏やかな日々を送れることを夢見た私は自惚れていた。人は自分を拒絶する相手に、心を寄せ続けることはできない。せめて一言言って終わりにしてよと腹が立ちながらも、尾形くんらしいとも思ってしまう。

 諦めたんじゃない。私が尾形くんにフラれたんだ。尾形くんが呆気なく去ったことを理解しながらもまだ気持ちが追いつかなくて、私は毎晩、あの日の「お前のことが大事だから」という言葉を抱きしめて眠っていた。

 家に着くと、ダイニングテーブルに飾っていた最後の花が花弁を落として萎れていた。猛暑が続く中で長持ちしてくれたと思う。ネットで調べて一つ一つ名前を覚えた花たちは、孤独な一人暮らしの部屋を彩ってくれていた。鮮やかな青い花弁が萎びて変色しても、私はこれが唯一、手元に残っている尾形くんからの愛のような気がして捨てることができなかった。力尽きた花を花瓶から抜いてシンクに置く。持ち直すことを信じて何度も水揚げした茎は、貰った時よりだいぶ短くなっていた。

 ドライフラワーにすればよかったかな、なんて頭に過って、それをこれからも飾っていたら未練がましいかと自嘲する。空になった花瓶を洗いながら、私はあの日、花束を抱えて待ってくれていた尾形くんを思い出した。

 耳を真っ赤にして照れていた彼が、本当はああいったことが一番苦手なことを知っている。シャイで不器用な尾形くんのことを分かったつもりでいたのに。あの言葉一つで私は、彼を信じられなくなった。いや、信じようとしなかった。

 蛇口の水が花瓶をなぞって排水溝へ流れていく。私は、尾形くんの精一杯の「愛してる」を早く受け止めてあげなかったことを後悔して涙を落とした。身勝手だと思う。でも、愛を示してくれた日々が過去になっていくことを、このまま何もしないで受け入れたくない。せめてもう一度会って話したい。本当は全部嬉しかったのに、意地を張って尾形くんを傷つけ返してしまったことを謝りたかった。

 スマホを開いてからも、何と送ればいいかしばらく考えあぐねていた。駆け引きなんて分からない。でも何も言わず終わりにした尾形くんに、やり直したいとはっきり伝えたらシャットアウトされてしまいそうな気がして心が縮こまる。臆病な私はもうずいぶん前に思える尾形くんの言葉に縋るしかなかった。

 部屋のクローゼットを開けて、しまい込んでいた浴衣を出す。浴衣姿を「見たい」と言った尾形くんのことを考えながら選んだ、白地に青いしだれ桜の柄。

 これも断られるどころか無視されるかもしれない。自分から心が離れた相手を誘うことがこんなに勇気がいると、尾形くんの立場になって分かる。あの言葉以外にも、私はひたむきな尾形くんにそっぽを向くようなことばかり言ってきた。自分が尾形くんの立場ならとっくに匙を投げているに違いなかった。

【元気にしてる?前に約束した花火、今週末なんだって。尾形くんと行きたいと思って連絡しました】
【浴衣買ってたから】

 何度も深呼吸してから送ったメッセージには会いたいもごめんねも入れていないのに、義理堅い尾形くんを断りにくくさせる言葉を付け足す私は本当に可愛くないと思う。

 既読はすぐについた。でも一晩待っても返信は来なくて、もう尾形くんは本当に私に未練がないんだと思って心が沈んだ。じゃあ最後に玄関で触れようとしたのはどういうつもりだったのと、拗ねてふて寝して。腫れた目を擦りながら通知を見たのは翌朝だった。

 

 ***


 待ち合わせ場所の駅は押し合うように混んでいて、人の匂いや熱気で具合が悪くなりそうだった。駅員の誘導によってじりじりとした歩みで外へ向かう。慣れない着付けで何とか着た浴衣が乱れていないか気がかりだった。難しくて結ぶまでに手間取った帯が崩れていないか、自分で確認することはできない。

 ようやく外へ出ると、空には優しい茜色が広がっていた。よどみない空気を深く吸いながら辺りを見渡して尾形くんを探す。なかなか見つからなくて不安が立ち込めてきた時、後ろから肩を叩かれた。

 振り返ってそこにいた姿に安堵して、胸が切なく締め付けられる。本当に来てくれたことがのぼせるほど嬉しい。もしやり直すことを断られても、お互いの気持ちがそこに向いてない以上仕方ないと構えてはいるつもりだった。でも尾形くんを前にしたら、どうしても彼の隣にいる未来を望んでしまう。

「お待たせ。すごい混んでるね」
「ああ」

 ネイビーのシャツを着た尾形くんは少し痩せたような気がする。私と目が合うとすぐに横へと逸らした彼は、浴衣なんてろくに見ていない。少し前までは照れながらも私を褒めてくれた彼へ、浅はかに期待してしまった自分が恥ずかしくなる。尾形くんは断りにくい誘いだったから本当に義務的に来たのだろう。彼の心を取り戻したいと意気込んでいた私は、その素っ気なさに怖気付いてしまった。

「見る場所、こっちでいいのか?」
「うん」

 挫けた心を誤魔化すように無理やり笑みを作った。呼んだのは私なんだから、この時間は二人で楽しく過ごそうと思って。

 打ち上げ場所へ行くまでの間、言葉は交わさなかった。濁流のような人の流れの中で、私は履き慣れない下駄で置いていかれないように尾形くんの背中を追いかける。周りの人たちがみんな明るい表情を浮かべている中で、私たち二人の雰囲気だけが固く、冷たかった。
 何も言わず私から離れた尾形くんも、会って思いの丈をぶつければ心変わりしてくれるかもしれないと思っていた。私へ振り返ろうとしない、意志を固めた背中。そこに少し前まで向けられていた熱は全くなくて、自分から尾形くんに想いを告げる決意も萎んでいく。

 無理やり人の間を通り抜けて後ろから来た男の人が、私と尾形くんの間に割って入った。このままでは尾形くんを見失ってしまう。距離のできてしまった尾形くんに近づこうとしたら、タイミング悪く片方の下駄が足から抜けてしまった。その場に立ち止まる私を邪魔そうに、次々と人がぶつかりながら通り過ぎていく。蹴られて横へと飛んでいった下駄を捕まえて慌てて履き直した。でも前を見てももう、尾形くんの背中は見えない。

 尾形くんはいなくなった私を探さないかもしれない。思いをぶつける前に、尾形くんからの返事をじゅうぶん受け取ってしまった私はもう仕方ないのかなと思った。尾形くんを許すことのできなかった私のせいだから。このまま尾形くんのまっすぐな瞳や言葉も過去のものになっていく。遠ざかった尾形くんが他人へと戻っていくことを、もう人の波に流されているだけの私に止めることはできない。

 前の方で、人ごみが掻き分けられて細い道を作るように動いた。誰かが人の波に逆らってこちら側へ歩いてきている。それが尾形くんだと気づいたのは、青ざめた彼が私のすぐ前にいる人たちの間を縫って出てきてからだった。

「何やってんだよ」
 私を見た尾形くんは大きく息をついた。探しに来てくれた。自分が素っ気なくしていたから帰ったと思ったのかな。瞼が熱くなって、「ごめん」と言って赤い鼻緒を睨んだ。今日が最後に会う日ならせめて、なるべく尾形くんにいやな記憶を残したくないから。

 右袖が広がって、しだれ桜が揺れる。尾形くんが私の手を握ったのだ。

「早く行くぞ」
 ぶわりと、頬が熱くなった。手を引かれるまま尾形くんの隣に並んで歩き始める。鼓動がうるさくて喧騒が遠かった。そっと見上げた横顔は凛として、私が知る尾形くんの中でも一番かっこいい。

 初めて外で繋いだ手。ベッドの上で重ねてきた時よりも冷たい気がする。ぎゅっと握り締めてくる手には、私と離れないためのたしかな力があった。ずっと前に一度躱されてしまってから、また伸ばすことはしなかった。繋げなくても大好きだったから。

 でも、本当は恋人らしく繋ぎたかった。

 泣かないように必死な私は、中学生みたいな初々しさに浸る余裕はなかった。信号待ちで一度手を離した尾形くんが今度は、指を絡めて手を繋ぐ。重なった手のひらが愛おしい。もう一度逞しい腕の先を見上げたら、むこうを向く尾形くんの耳は耐えきれず赤くなっている。私のために慣れないことをする彼が今ここにいることが、たまらなく嬉しかった。

 川沿いの土手に着くと、緩い傾斜の芝生は既に人で埋まっていて、人が二人座れそうな場所を見つけるまでに少し歩き回った。ようやく腰を下ろそうとした時、尾形くんがズボンからハンカチを出して私の下に敷いた。紳士的な尾形くんに私の方が動揺してしまう。ぎこちないお礼を言って、肩が触れ合う距離で並んで座る。

 空の茜色が広い川面に反射している。名残惜しい景色に藍色が溶け込んでいくのを、私たちは黙って見つめていた。あたりは間もなく花火が始まることへの高揚感に包まれているけれど、いやな騒がしさはない。

「この前、ひどいこと言ってごめんね。どうしても会って謝りたかったの」

 私が切り出しても、尾形くんは前を見たまま黙っていた。怖かったけれど迷いはない。尾形くんに握られた感触がまだ手に残っている私は、もう一度彼と恋人になりたい。もう、尾形くんを好きでいることを諦めたくなかった。

「お前に、俺が言ったことを許されたかった」

 静かに話し始めた尾形くんの横顔は、憂いげに目を伏せていた。

「でもあの日、俺といることでお前がずっと苦しむなら、……離れた方がいいと思ったんだ」

 嫌われたのだと思っていた。私を想っての理由に胸が苦しくて、そうじゃないと、尾形くんに抱きついて否定したかった。

「苦しかったのは、尾形くんのことを嫌いになれなかったからだよ。許したら負けだと思って意地になってたから」

 尾形くんの表情が滲んでいく。その中で黒い瞳も揺れているような気がした。私たちはきっと、お互いの心の内の吐露でしか救われなかったのだろう。伝え合った今、尾形くんをすごく近くに感じる。

「どうして私のことを、諦めないでくれたの?」

 だから、ずっと不思議だったことを尋ねた。恋愛相手に困ることのなさそうな尾形くんが、あそこまでそっぽを向け続けた私に執着する理由が分からなかったから。

 辺りはぐっと薄暗くなっていたけれど、私を見つめる尾形くんの目には、息を詰めて答えを待つ自分がはっきりと映っているような気がした。羞恥が込み上げてきてやっぱりいいと言ってしまいたくなった時、尾形くんは訥々 とつとつと話し始めた。

「元々、女と付き合ったり、好きじゃない。興味がないと言った方が正しいのかもしれない。だからそうなっても、すぐに向こうから文句を垂れて離れてく」

 ずっと前にはぐらかされた尾形くんの過去の恋愛は、あの頃私が想像していたものとはずいぶん違かった。

「それでよかった。杉元たちのように女を褒めたり趣味に付き合ったり、俺には性に合わんからな」

 そうやって周りにドライに振舞ってきた尾形くんは、本当は誰かに心を許したかったのかもしれない。尾形くんの繊細さに何度も触れた私はそう思わずにいられなかった。興味がないと言って諦めることは、他人に期待することより簡単に自分の心を守れるから。

「でも、お前だけは違った」

 尾形くんの切実な声が胸にしみる。だって、手を繋げなくても好きと言われなくても、尾形くんのことが大好きだったから。時折見せる尾形くんの柔らかい笑顔や、さりげない優しさをずっと私が独り占めしたかった。不器用で恋愛に関して大人になれない彼だからあの言葉が口をついて出たことも、今なら分かってあげられる。

「だから離したくなかった」

 ありのままの相手を受け入れることが愛だと思っていた。でも、相手のために変わろうとすることも愛に他ならないのだろう。

 私のために変わってくれた尾形くんは、最初から何も変わっていなかった。

「お前はいいのかよ、もう」
「うん。もうとっくに許してるよ」

 尾形くんが安堵したように息を落とした。笑い話にできるには時間がかかると思う。頭で理解することと心で受け止めることは、同じようで全く違うから。だから目の前にいる尾形くんだけを信じられるように、今度は私が変わりたい。

「これは、一度しか言わないからな」

 尾形くんが私へと向き直ると、空気が張りつめた。その表情が真剣さをたたえていて、覚悟を決めた瞳に思わず息を呑む。

「好きだ。俺と付き合ってほしい」

 まっすぐな告白に、涙が次々とこぼれ落ちていく。私のことが好きで好きで堪らない人の言葉はやっぱり飾り気がなくて、でも私にとっては震えるほど甘い言葉だった。濡れた頬を尾形くんの親指が拭う。優しい仕草をしながら「そんなに泣くなよ」って困った顔をする尾形くんがちょっと可笑しい。

 熱く裂けるような喉から声を絞り出そうとしたら、辺りにざわめきが広がった。空を見上げると、光が天をめがけて走っていく。次の瞬間、大輪の花が夜空にめいっぱいに咲いて、地面を揺らすような爆ぜた音が響いた。弾けた光がスローモーションで空に散って消えていく。またすぐに違う光が空へ上って、花が舞う。色とりどりの花が絶え間なく鮮やかに咲く景色と、尾形くんからの告白が心に焼き付いていく。目を奪われているのは尾形くんも同じで、花火が弾けると同時に淡く照らされる横顔がすごく無垢に見えた。


 ひとしきり花火が空に舞うと、歓声と拍手が沸き起こった。私は尾形くんの手を握りしめて、もう一度彼と見つめ合った。熱の篭った瞳を見ていたら、引いたはずの涙がまた溢れ出てくる。
 もたついている時間はない。次の花火がまたすぐに打ち上がってしまう。心が叫んでいる今、愛する人へ言葉を紡ぎたかった。

「私も、尾形くんが好きだよ。尾形くんと一緒にいさせて」

 言い終わったと同時に、尾形くんに肩を寄せられて唇を塞がれた。再び炸裂する音が響く。すれ違った時間を埋めるように愛を確かめ合う私たちの後ろで、光が次々と花開いている。尾形くんの一途な口付け。もう二度と触れられないかもしれないと思ったこのひたむきな温度に、頭の芯が溶けそうだった。

 何度も重ね合った唇を離すと、空は金色の光が煌めきながら消えていくところだった。唇を撫でる生暖かい風は夏の夜の匂いがする。

「浴衣、可愛いな」

 甘い囁きに心臓が跳ね上がった。尾形くんに照れはなくて、むしろ私の不意を突くのを愉しんでいる気がする。

「ありがとう」
「駅でお前のこと見つけた時、やばかった」

 驚いた私を目尻を下げて笑う尾形くんに、また恋をする。それは終わらない花火のように、次々と私の心に花開いて愛を刻むのだろう。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る