中編



 
 駅での尾形くんとの待ち合わせも、ずいぶん私の日常に組み込まれてしまった。

 尾形くんの立ち姿に通り過ぎる女性が視線を向けるのが、遠目でも分かる。足を肩幅に開いて、半袖のワイシャツから伸びた腕を曲げて時計を見ている姿はたしかに思わず目を留めてしまう。会社でもモテるだろうから前はやきもきしていた。今となっては別に、どうでもいいけど。

 尾形くんは駅へ向かってくる人の中から私を見つけると、獲物を狙う猫のようにそこから一秒たりとも目を離さない。逃げたりしないのに。でも彼の近くまで行くと、圧のある視線は健気な眼差しから送られていたことに気づいてしまう。どちらかといえば飼い主を待つ忠犬の方が合っている。私に会うためだけにここへ来ている尾形くんの健気さが、日に日に重くなっていく。

「お疲れ」
「何で待ってるの?今日帰ってって言ったじゃん」

 だからちっとも心を動かされていないことを示すため、私は自分を待っていた尾形くんにいつも冷たい言葉を投げている。いい加減その執着を手放してもらうために。情を持って接したりしたら尾形くんを期待させてしまうから。

 傷つけたいわけじゃない。表情を変えぬまましょげる尾形くんを見るといつも自分の言葉を後悔する。尾形くんを許せない気持ちとは矛盾した、彼に報いないことへの後ろめたさも私の心の中で重く募っていく。

「昨日の夜、お前の家の近くで変質者が出ただろ」
 尾形くんが言った。私は既に記憶の片隅に追いやっていた、ニュースサイトのローカル記事を思い出して苦笑いする。

「下半身丸出しで猫追いかけてた眼鏡男でしょ?そこまで近くないし遭っても大丈夫だよ」
「そんな変態野郎何するか分からねえだろ」

 尾形くんの拗ねた顔を見たら、さすがにそれ以上笑えなかった。心配して迎えに来てくれた優しさに胸を打たれてしまったから。

 空はすっかり暗く沈んでいる。こういう時、今までも何度かその提案を持ちかけようとした。そのたびに、ここからまた繋がりを深めてどうするんだと思いとどまって引っ込めた。でも、今日くらいは。決して、尾形くんのひたむきさに応えるわけじゃない。

「ご飯、奢るからどこかで食べて行かない?」
 尾形くんの瞳が一瞬キュッと細くなった。すぐにぱっと明るくなった表情に「しまった」と思いながらも、自分がデートに誘っているような状況に身体の熱がのぼっていく。

「特に意味はないから!お花のお礼、何にすればいいか分からなかっただけ」
「焼肉行くぞ」
「人が奢るからって」
「俺が出す。お前好きだろ」
「……普通」

「締めパフェ」にも行くと言って、調べていたお店のページを得意げに見せてくる尾形くんを可愛いと思ってしまう自分に、腹が立つ。前はパフェなんて興味なかったくせに。ご飯に行くだけでそんなに嬉しそうな顔しないでよ。もう尾形くんへの「好き」を諦めた私に、お願いだから期待させないで。

 ***
 
 デスクから立ち上がると、足元がふらついて慌てて椅子を掴んだ。その場で浮遊感が落ち着くのを少し待って、同僚たちとオフィスを後にする。四週間のサイクルで襲ってくる下腹部の痛みと貧血は年々酷くなるばかりだ。みんなが残業を引き受けているのに自分だけ断ることはできなくて、「遅くなるから帰って」と尾形くんに連絡していた。

 だからお腹の痛みに耐えながら駅へ向かうと、いつもの場所でいつもの立ち姿で尾形くんが待っていたから呆れてしまった。

 尾形くんが私に気づいて早足でこっちに向かってくる。今日は本当に会いたくなかったのに。互いの家で会っていた時も生理の時は断っていた。「分かった。お大事に」簡素なメッセージが返ってくるたび、そっとしておいてほしい意を汲んでくれているんだと信じてベッドに横たわった。それも尾形くんのあの言葉の信ぴょう性を高める一つになってしまったけど。

「具合悪いんだろ」
「いつものだから」

 私のもとへ来た尾形くんが顔を覗き込んでくるから、逃げるように俯いた。またぐらりと視界が揺れる。こうやって、何も伝えていないことを尾形くんは察している時がある。

「タクシーで帰るぞ」
「大袈裟だよ」
「痩せ我慢するな」

 ろくに歩けねえだろと言いながら、尾形くんは遠慮する私の腕を引いてそのままロータリーに連れていく。誰にも甘えられなかった一日の最後に、尾形くんの優しさには触れたくなかったのに。

 有無を言わせない尾形くんが私をタクシーに押し込んで、自分も乗り込むと私のマンションの住所を伝えた。車が静かに走り出す。自然と身体から力が抜けていった。大袈裟だと言ったけど、この身体で満員電車に乗って駅から歩いて帰るのは正直きつい。心地よい冷房と他に誰もいない空間に安心してしまう。

「食欲は?」
「あまり」
「すぐ食えそうなものあるのか?」
「うん」

 駅から離れるにつれ街の光がどんどん少なくなっていく。私は窓から目を離さなかった。尾形くんが何を言おうとしているのか、分かるから。だってそれを受け入れるわけにはいかない。自分が作った条件を破らせるわけには。尾形くんも私からの「部屋には入れない」という姿勢を感じ取ったみたいで、それ以降何も話さなくなった。

 ひどい女だと思う。私を彼女だと思っていなかった過去も、恋人としてやり直そうと誠意を見せ続けてくれている今を考えたらもう些細なことかもしれない。それでも、ふとした瞬間にあの言葉が頭の中で響いて、尾形くんの優しさを信じられなくさせるから苦しかった。許せる度量のない私が尾形くんとヨリを戻しても、苦しんで尾形くんを傷つけて、結局壊してしまうに決まってる。

 意識的に呼吸を深くして痛みを紛らわせていたら、いつもの通勤時間よりずっと早く家に着いた。私が財布を出すより早く尾形くんが運転手にお金を出してしまう。これ以上尾形くんにお世話になれない。追いかけるように開いたドアから降りたら、目眩がしてその場に膝から倒れてしまった。尾形くんがすぐに肩に腕を回して、抱き上げてくれたけど。

「立てるか?」
 頭がふわついて吐き気がする。心配して降りてきたのだろう運転手と尾形くんの話し声も入ってこない。尾形くんに支えられてエントランスに入りエレベーターの前に立つと、このままではまずいという危機感がはっきりしてきた。エレベーターが降りてくる間に落ち着きを取り戻して、私はそっと尾形くんの腕から離れた。

「ごめん、もう大丈夫。今お金払うから」
「お前との約束は覚えてる」

 バッグから財布を取ろうとした手を止めた。私との約束を一度も破ろうとしなかった尾形くんの声は、張り詰めている。

「まだお前に許されてないことも、分かってる。でも今日だけは部屋に入れてほしい。簡単なことは俺がやる」

 頼ってしまいたくなる自分が怖かった。尾形くんと終わらせなければいけない自分の意志が、ぶれてしまいそうで怖い。

「別にいい。尾形くんにそこまでしてもらえない」
「心配だから」
「いいってもう!尾形くんといたくないんだよ!」

 だから今までで一番いやな言い方をした。でも尾形くんの硬直した表情を見て、そんな言葉を選んでしまったことを後悔する。

 分かってる。いつまでも意地を張り続けているのは私だ。もう傷つきたくない私はこれが正しいと思って、真摯な尾形くんを認めようとしなかった。でも、あの日自分のプライドを守ることを優先した尾形くんが私のために変わっていく姿を見ていると、尾形くんを許せない私の方がずっと悪者に思えてくる。

 着いたエレベーターが私たちを急かすように開きっぱなしになっている。

「もうやだ、こんなの」

 綯い交ぜになった自分の感情がお腹の痛みを押し上げて、私は情けなくぽろぽろと涙を落とした。ほら、めんどくさい女でしょ。早く「やってらんねえ」ってなってよ。でも、黙ったままの尾形くんは私から離れなかった。真っ黒な瞳は、私が泣いてることも、八つ当たりしていることも静かに受け止めている。

「前、こういう時どうすればいいか分からなかった。お前が放っておいてほしいならその方がいいと思ってた」

 いつまでも私を諦めない尾形くんを見ていれば、さすがに気づくしかなかった。私を抱くことにしか用がなくて会わなかったなら、とっくに見切りをつけているはずだと。

「今はお前の助けになりたい。お前が大事だから、ここで帰りたくない」

 自分の胸の内を真っ直ぐ伝えることができるようになってしまった尾形くんに、私は嗚咽が止まらなかった。尾形くんへの恋を終わりにできていないから。好きだから許せなくて、好きだからもう終わりにしたかったのに。蓋をしていた感情が溢れ出して、私の意地も不安も呑み込んでいく。

 
 低い足音が近づいてきて目が覚めた。キッチンから流れてくる美味しそうな匂いが食欲を誘ってくる。

「食えそうか?」
 ベッドの前に来た尾形くんに頷いて起き上がると、思わず目を瞑ってしまうほどの頭痛が走った。時間のわりに深く眠ってしまっていたらしい。でも尾形くんに出してもらったカイロのおかげか、お腹の痛みはだいぶ引いている。

 ダイニングテーブルに座った私の前に尾形くんが湯気の立つ料理を出してくれた。私をベッドに寝かせてから作ってくれた料理は、冷蔵庫に大した食材がなかったにも関わらず一汁二菜にまとまっていた。一人分の食事しか置かない尾形くんに「一緒に食べよう」と言ったら、尾形くんは少し躊躇って、泊まった時に自分が使っていた食器を向かいに並べだ。

「いただきます」
 食べる前に手を合わせた私を、尾形くんが箸を取らずに見つめていた。尾形くんの視線は何だか落ち着かなくさせる。その瞳の物事を見極める力に気づいてから、自分が尾形くんにどう見られているのかいつも気にしていた。

「どうしたの?」
「いつも」
「うん」
「そうやって手合わせるの、いいなって思ってた」

 箸を持つ手が固まる。不意打ちで何も言えなくなった私に「冷めるから早く食えよ」と促す尾形くんも結局照れていた。二人で黙々と、鶏のトマト煮とほうれん草の胡麻和えを口に運ぶ。優しい味にほっとして胸の高鳴りが収まっていく中で、尾形くんの綺麗な箸先を見た。私は尾形くんの食べ方にいつも惹かれていた。お酒の飲み方にも品の良さが佇んでいる。料理の切り方や味付けが丁寧なのも、几帳面な性格ゆえだろうなと思う。

「それ」
 尾形くんがテーブル上の花瓶を見て言った。
「まだ枯れてなかったんだな」
「切り花すると結構もつの」

 網戸から流れてくる夜風が青い花弁を小さく揺らす。会話はあまりないけど、私たちはあの日から一番柔らかい雰囲気でいられた。尾形くんの優しさを受け止めた場所には、二人で料理をした時やモーニングへ行った時と同じ、ありきたりで穏やかな時間が流れている。そういう時に笑ったり真剣になる尾形くんをたくさん覚えていたはずなのに、いやな記憶に蝕まれた私は思い出せなくなっていた。

 食べ終わると尾形くんはお皿まで洗ってくれて、その後私がいつも飲んでいるカモミールティーを淹れてくれた。

「そろそろ帰る」
 私がカップに口をつけると、尾形くんは座ることなく鞄を持って玄関に向かった。尾形くんにいいと言われながらも見送りに席を立つ。

「ありがとう。美味しかった」
 玄関で向かい合った尾形くんにお礼を言う。尾形くんが私へゆっくりと手を伸ばしたからどきりとした。いつも帰り際、彼は玄関で頬に触れてキスをしたから。避けようとは思わなかった。この口付けを受け入れることが、元の私たちの形に戻る合図のような気がした。でも、尾形くんは結局私に触れることなくその手を降ろして力なく微笑んだ。尾形くんのこんな笑みをはじめて見た私は、彼に縋りたくなるような切なさを覚えた。

「じゃあな」

 ドアが閉まってから戻った部屋は、いつも自分一人が暮らしている場所なのに急に広くなったようで心細い。夜風が肌寒くなってきた。窓を閉めて、私はまたテーブルに座りカップに口をつけた。

『砂糖じゃダメなのか?』
 いつか尾形くんが泊まりに来た夜、眠る前の紅茶を煎れながら、後ろから抱きつく彼に話したことを思い出す。はちみつを一さじ混ぜたカモミールティー。前から私を大事にしていたことを伝えるほのかな甘味に、たまらず涙が落ちた。




 でも、それから尾形くんは駅に来なくなった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る