尾形主任とワンナイした話



 尾形主任と一夜を過ごした。
「この後、二人で抜けないか」
 会社の飲み会の最中。耳へ這い寄ってきたテノールの囁き声はいつにも増して色気を帯びていて、酔いとは違う熱が一気に顔へ集まった。

 二次会への参加を躱してバーへ入った私たちはそこで密やかな時間を楽しんで、そしてバーを出たところで、彼に唇を重ねられた。誘われた時点でそういう事だと分かっていたし、それでいいと思う程、私は彼に好意を募らせていた。甘い言葉を紡ぐような口付けは、そこに同じ温度の情があると錯覚してしまいそうなほど優しかった。

 私たちの熱が溶け消えた闇の中に、カーテンの隙間から薄らと光が差し込んでくる。ようやく彼の部屋のインテリアが浮かび上がってきた。散らばった衣類をかき集めて、静かな寝息を立てる尾形主任へと振り返る。初めて見た寝顔があどけなくて。愛おしさが胸を締め付けて、まだここへ留まらせようとしてくる。目が覚めた彼に、その逞しい腕で引き寄せられることを求めてしまう。彼の興奮を乗せた吐息や、熱に濡れた瞳を思い出すだけで、欲を受け止めた下半身が切なく疼いた。
 でも、もうこの部屋を出ていかなければ。猛々しいセックスの中で、私の絶頂を何度も手繰り寄せる彼は、女遊びしているという噂話の信憑性を高めるには十分だった。きっと私だけじゃない。彼にとって私は、気まぐれな一夜限りの戯れだ。「勘違いしていませんから」という意思表示。蕩けた声の中で、口をついて出そうになった二文字を押し殺した、私のちっぽけなプライドだった。

 いい夢を見たと思うことにした。自分なんかが相手にされるわけがないとその想いをしまいこんできた相手に、一晩愛されたんだ。十分じゃないか。
 マンションを出ると、皮肉なほど澄んだ朝空が広がっていて、一晩のうちに恋が叶って恋に破れた私をますます虚しくさせた。

***

「口紅、忘れていってるぞ」
 会議室で資料の準備をしていると、いつの間にか入ってきた尾形主任が壁にもたれかかって腕を組んでいるものだから、大袈裟なほどビクリと肩が跳ねてしまった。
 なかった事にして接していたつもりだ。しかしふと視線が会う度、彼の横を通り過ぎる度に、あの夜の記憶が私の中になだれ込んでは思考を雁字搦めにする。
 やっぱり尾形主任の部屋だったのか。ベッドに組み敷かれた時に手放したバッグから転げ落ちたのだろう。あれを気に入ってからしばらく使っていなかった口紅は、久しぶりに塗るとどうも馴染まない。

「わざとか?」
「違います」
 見透かすような意地悪い笑みに、思わず語気を強めてしまった。尾形主任が白けたようなため息をつく。ああ、冗談に決まってるのに、何ムキになってるんだろ、私。

“わざとだよ”
 バイト後に終電をめがけて好きな男と走っていたのに、ヒールが脱げて間に合わなかったあの子を思い出す。嫌いだった。“酔っちゃった”よりもよほどあざとい一言で男をその気にさせて、弁える体を取りながらも結局彼女からその男を奪った、あの魔性の女が。
 でも私にもあんな可愛げがあれば。一番じゃなくていいから側にいさせてと縋りつける女になれば、彼に愛してもらえるのだろうか。

「会社で渡すことはせん。自分で取りに来い」
 尾形主任が踵を返して出ていった後、私はその場に立ちつくすしかなかった。苦しさと期待が綯い交ぜになって、私の情緒を掻き乱す。辛い。また彼に抱かれたら、今度こそ逃げられなくなってしまう。

 彼への執着が泥のように心に塗れていく。仕事で彼に褒められるだけで胸を弾ませていたあの頃には、もう戻れないんだ。

***

 インターホンを押すと、通話の声が聞こえることなくドアが開いた。部屋の奥から漂ってくる彼の香りに、あの日の記憶が鮮烈に蘇って頭の中で警鐘が鳴る。
「取りに来ました」
 彼にというより、自分に言い聞かせるように言葉にした。受け取ったらすぐに帰る意志を固くして。

「ほらよ」
 サンダルに足を入れた尾形主任が、玄関の棚に置いてあった口紅を手に取って私に差し出す。会社で書類を渡される時と変わらない冷たい表情。やっぱり自分はあの一夜関係を持っただけの部下なんだと、分かっていたはずのことに胸が軋んだ。

 これを受け取ったら、もうここへ来る理由もない。
 恐る恐る手を伸ばす。凍りつく唇からは、縋る言葉なんて口にできるはずがない。

 震える指先が冷たいプラスチックに触れた。すると口紅を離した尾形主任の手が、その奥、私の腕を掴んで勢い良く自分へと引き寄せた。
プラスチックが床を打って転がる。足元は簡単によろめいて、短い悲鳴をあげながら彼の胸に飛び込んでしまった。
 逃げることを許さない両腕に強く抱き締められると、もう一度欲しかったその温度が私を包んで、全身から力が抜けていく。

 後ろでドアが、重い音を立てて閉まった。
「どういうつもりだ」
「……え?」
 私の首元に顔を埋めた尾形さんから、呻くような苦しげな声が漏れた。
「何も言わず部屋を出ていったかと思えば、俺の事なんてもうどうでもいいみてえに振る舞いやがって」
「いや、それは尾形さんが」
「俺がなんだ」
「……私に彼女面みたいなことされたら、迷惑、だろうなって」
「んなこと誰が言った」
 私を睨み上げる尾形さんはすごく怒っている。でも全然怖くなくて、沈んでいた心に喜びが溢れ出てくる。

 いいのだろうか、自惚れて。
 もう一度恋が叶って。
「こっちは最初からそのつもりしかねえんだよ。今さら駆け引きみたいな真似すんな」

 視界が滲んで、私は目尻を拭った。そんな器用なことができる女なわけないのに。跳ね除けられるのが怖くて、縋る勇気がなかっただけなのに。でも目の前の彼もきっと、負けないくらい不器用なんだ。

 鼻と鼻が重なり合う距離で、ようやく私はあの時口にしたかった二文字を言葉にした。すぐにあたたかな唇が重なった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る