あたたかな日々をこれからも



 黄昏が広がる。
 夜が迎えに来たことを知らせる青暗い空の下に、燃えるような赤焼けの名残りが伸びている。何だか切なくさせるその夕景に胸を焦がしながらも、私は冷たい風を切って家路を急いでいた。

 システムトラブルにより昨日言い渡された休日出勤。本当はまだ寝ていられたはずの時間にスーツを着込みヒールを履いた身体は、鉛のように重く感じた。しかし、システムも復旧し無事に仕事を終えた今、疲労こそあれどやり切った爽快感に包まれている。
 何より、家へ帰れば私を待つ恋人がいることが浮腫んだ足さえ軽くしていた。

【終わった!今から帰るよ】
 数十分前に送ったメッセージにはすぐに【お疲れ】と返信がきた。昨夜は後ろから私の腰に腕を巻きつけてぶつくさと文句を言っていたけど、今朝はボサボサ頭のスウェット姿で玄関に来てお見送りしてくれた百ちゃん。どんな一日を過ごしたのだろう。土日を一緒に過ごすために金曜の夜から泊まりに来てくれているのに、申し訳ないことをしてしまった。
 今日は頑張ったから、奮発してデリバリーを使おう。百ちゃん何がいいかな。明日はどこか出かけるつもりでいたけど、二人でごろごろと過ごすのもいいかもしれない。昨夜は早起きしなければならない私に気遣ったのだろう彼が、今夜はきっと。そんなことを考えてると、きゅうと身体の奥が疼いてしまう。

 ようやくアパートの前に着き、鍵を回して重い扉を開いた瞬間。外に流れ出てきた柔らかくて温かな匂いに、私はドアノブを引く手を止めた。
 もうデリバリーを頼んでくれたのだろうか。玄関に入り、外気との寒暖差にほっとしたのも束の間。私の鼻は、この1Kの廊下に満ちた香ばしい匂いに圧倒された。
 デリバリーではない。キッチンに置いたオーブンレンジからは、オーブン使用後にしばらく鳴り響く稼働音が聞こえてくる。

「百ちゃーん、帰ったよー!」
 奥のリビングへ呼びかけても、百ちゃんが出てくるどころか物音一つ聞こえてこない。彼の靴はある。状況を理解出来ず、ヒールを脱いで彼とお揃いのスリッパに足を入れた。

 片付けられた調理台には、近所の美味しいパン屋さんの紙袋から飛び出たバケットが立てかけてある。あとは、家にはなかったはずの使いかけのマカロニ。
 パンに合う、マカロニを使った、オーブンで焼く料理。彼が何を作ったのかが分かった。
 料理が何かということより、私はすごく驚いていた。百ちゃんが料理したということに。付き合い始めた頃、「俺は一人暮らししてから料理なんてした事ないぞ」と、何の自慢にもならないことを豪語していたあの百ちゃんが。

 週末に料理することを負担に思ったことはない。彼は口数が少ないながらも美味しいことを伝えてくれるし、食後の片付けは率先してやってくれるから。しかし今日、私に仕事が入ってしまったことで、自分が台所に立つことを決めたのだろう。材料を調べて、買い物に行き、バケットを小脇に抱えて帰り、レシピと睨めっこしながら料理して私の帰りを待っていた。

 胸がぎゅうっと何かに抱きしめられる感覚がした。この空間に満ちた幸せな匂いが、寒い冬のカイロのように、私の心を温めていく。
「百ちゃーん、ご飯作ってくれたの?」
百ちゃんは未だに姿を現さない。照れくさくなってしまったのだろうか。めいっぱい褒めてあげたいのに。私はしびれを切らして、完成品が入っているのだろうオーブンを開けてしまった。

 思わず、ふふっと笑みが零れた。百ちゃんがリビングから出てこない理由が分かったからだ。
「焦げてる」
 庫内灯に灯されたシェフオガタのメニューは案の定グラタンだった。ただ、表面の炭のような黒々しさが“焦げ目がついた”という域を超えている。

 最後の最後に熱を入れすぎてしまったことで、シェフは向こうの部屋で拗ねているのだろう。何でもそつなくこなすのに、こういうところあるよね、百ちゃん。私は次々に笑みが零れ出そうになるのを抑えながら、ようやくその薄い扉を開けた。

 真っ暗な部屋の中。ベッドの上でふて寝している、大きな猫がもぞりと動く。
 灯りをつけてベッドの横で屈み、起こすように彼の肩を揺すった。
「百ちゃん」
 彼がゆっくりと枕に突っ伏していた顔を上げた。
 いじけたような、バツの悪そうな顔。彼が今日、どれだけ意気込んでキッチンに立ったかを物語っていた。

なぜかなんて、決まってる。
「慣れないことするもんじゃねえな」
起き上がった彼がセットしていない髪をくしゃりと搔いた。
「ううん、嬉しいよ。グラタン難しいのに大変だったでしょ」
「……お前が好きだって言ってたから」
「言った?そんなこと」
 首を傾げた私に、百ちゃんが眉を寄せる。
「言っただろ。あのグラタン皿買った時」
 記憶を辿る。オーブンの中のグラタン皿を買ったのは、うちで二人でご飯を食べるようになって少しした頃。百ちゃん用の食器を揃えに行った時だ。

 百均じゃ味気ないと言った私に「どれでも一緒だろ」と彼は興味を示さなかった。多分あの頃の百ちゃんは、食に頓着がなかったのだと思う。そんな彼の手を引いて向かったのはショッピングモール内のインテリアショップ。そこで私は、あのグラタン皿に一目惚れしたのだ。
『必要か?それ』
『必要だよ。だって私グラタン大好きだし。それにスープとかにだって使えるから、寒くなったら絶対活躍するよ?』

 思い出した。そのやりとりを覚えていてくれたから、百ちゃんはこの寒い秋の夜にグラタンを作ってくれたんだ。

 百ちゃんの手をぎゅっと握る。幸せで惚けた頭に、伝えたい言葉が溢れ出てくる。でも、今はこれが精一杯。それよりも。
「お腹空いた。早く食べよ」
「食えんだろ、あんな焦げたら」
「焦げたグラタンだって美味しいんだよ?」

“美味しい”という日常の中の小さな感動。それを百ちゃんと分かち合う日々が、これからもずっと続きますように。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る