臆病な愛の先に




「え、私?」
「そう。ぜひ参加してくれないかな?」
 顔の横で手を合わせ、上目遣いでお願いする彼女は女の私から見ても庇護欲を擽られる完璧な可愛さだ。容姿だけではなくこういったあざとさも、彼女が社内の男性陣から人気を集める所以である。だからこそ、男性たちを前に彼女と並ぶことになる合コンの誘いに、私は返事を躊躇う。

 男性陣は土方製薬のエリートたちらしい。二十代半ばで彼氏がいなければ、こういった席に呼ばれやすくもなるのだろう。
 子犬のような目で見つめてくる彼女に断ることも出来ず「じゃあ」と渋々参加を決めた。
「ありがとう!向こうの幹事、イケメン揃えるって言ってたから楽しみにしててね」
 ぱっと顔を輝かせて笑った彼女は決定している日時だけを伝えると、男性社員に「○○さーん!」と声をかけて去って行く。忙しい子だ。

 スマホのスケジュールに二週間後の金曜日の予定を入力した。やっぱり気が重くてため息が漏れる。コンパのような『盛り上がらなくてはいけない』雰囲気の流れる場で親睦を深めていくのは、多分私の性格には合わないのだ。それに、ああいった酒の席にあまりいい思い出がない。
 土方製薬の人達となら声をかければ二つ返事で参加する女性社員はいるだろうし、断ればよかったかな。

テーブルに頬杖をついてうじうじと悩んでいると、部屋の扉が開いた。入ってきた直属の上司と目が合うなり、ふっと鼻で笑われる。
「何しょぼくれた顔してる」
「尾形さん。お疲れ様です」
 オフィスのフロアだけでなく、この休憩スペースでも彼と一緒になることは多かった。壁際の自動販売機の前へ行った尾形さんが私に振り向く。

「何か飲むか?」
「え、いいですよ!この前もご飯奢ってもらったのに、いつも悪いです」
「んなこといちいち気にすんな。後輩は素直に奢られとけばいいんだよ」
「じゃあ、カフェオレで」
 冷えた缶を受け取ってお礼を言うと、尾形さんは同じテーブルの席に座った。奥の席にいる他部署の女性社員たちがちらちらと此方を見ている。

 このコンサル会社で、大きなプロジェクトを数々成功させている出世株の尾形さんは私の四年上の先輩だ。整った顔立ちに、頬の傷や色気のある声も相まって危うげな雰囲気を纏う彼に、憧れている女性社員は多い。

「頼んでいる資料、順調か?」
「ええ。今日中には完成してお渡しできると思います」
「早いな」
「もっと褒めてくれていいんですよ?」
「それは中を確認してからだ」
 そんな彼に厳しく扱かれながらも何かと気にかけてもらっていることに、優越感がないと言ったら嘘になる。
 尾形さんが片手でブラックコーヒーの栓を開けると、引き締まった腕の長掌筋が浮き出た。

「他に何か面倒くせえ案件持ってたか?」
「いや、そうじゃないんです」
「じゃあ何だ。また宇佐美にパワハラでもされてんのか?」
「それは尾形さんが宇佐美さんに言ってくれてからは大丈夫です。そうじゃなくて……その、合コンに誘われて」
「……ほう」

 別にこの歳になってロマンティックな出会いに憧れているわけではなかった。渋々参加を決めたのだって、前の彼氏と別れて三年も経つというのに、新たな出会いの気配がまるでない日々に焦りを感じているのも一つだ。
「尾形さんって合コン参加したことあります?」
「ねえな……ああ、いや。一度だけそんなのあったな」
「楽しかったですか?」
「いいや、あいつらだけで馬鹿みたいに盛り上がってた」
「想像つきます」
 尾形さんに異性として惹かれていないと言えば嘘になる。でも彼は尊敬する上司だ。尾形さんのようなコンサルマンになりたくて懸命に勉強している私に、彼も目をかけてくれている。そんな信頼関係を壊したくはない。女性社員たちからの好意を日々冷たくあしらっている尾形さんに、「お前も結局そうか」とがっかりされてしまうのだけは嫌だった。

「やっぱり二十代後半に差し掛かって彼氏がいないと寂しい女になってしまうんですかね。親からも結婚急かすようなこと言われるし」
「お前、結婚願望あるのか?」
「そりゃあ人並みに。尾形さんこそ選び放題なのに、そういうのないんですか?」
 コーヒーに口をつけた尾形さんの白い喉仏が動く。カフェオレを飲むと、コーヒーに溶けたミルクのまろやかさが口いっぱいに広がった。
缶を置いた尾形さんはため息をついて、ビルが競うように建て並ぶ窓の外へ視線を向ける。東京の中心地のビルはみな、その権威を誇るように窓ガラスに太陽光を反射させて堂々と立っていた。

「実はこう見えて、俺も急かされている身だ」
「そうなんですか!?」
 私の声は思いの外響いてしまい口元を抑えた。今日は私も尾形さんも休憩へ入ったのが遅いため、今はもう人がまばらにしかいない。

「親父がそろそろ身を固めろって煩くてな」
「なるほど」
 彼の父があの大手総合商社、花沢商事の社長だということ、尾形さんは将来的に花沢商事の役員のポストが約束されていたにも関わらずこの会社に入ったことは、社内ではわりと有名な話だ。尾形さんと歳の近い“本妻の息子”が花沢商事の跡を継ぐのだろうということも。

「放っておけと言っているのに、見合いの算段まで立てようとしてやがる」
 尾形さんのお父様は、ビジネスマンとしての才覚のある尾形さんを花沢商事に入れることを諦めていないのだろう。優秀なコンサル会社で様々な企業と取引をしていると感じることだが、日本は大企業のトップほど実力主義を謳いながらも結局は血の繋がりを重んじている。

「だから『考えてる奴がいる』と言った」
「いるんですか?」
「……いや」
「嘘じゃん」
「最後まで聞け。そしたら一度会わせろとよ。このままはぐらかしていても、親父は見合い相手を見繕ってくる。あの人が懇意にしているどこかの家のご令嬢だろうさ。そんな女と結婚したら、俺はゆくゆくはあの会社へ取り込まれることを約束するようなもんだ」

 尾形さんなら花沢商事へ行っても実力で上り詰めることができるに違いない。しかし、義弟に気を使っている尾形さんは煩わしさを感じるのだろう。

 コーヒーをもうひと口飲んだ尾形さんは、真剣な面持ちで私を見つめた。
「そこでお前に頼みたい。俺の恋人として、親父に会って欲しいんだ」
「え、……私?私ですか!?」
 突拍子もない尾形さんからのお願いに、素っ頓狂な声が出てしまった。

「週末に花沢グループの周年記念パーティーがある。有名企業のお偉方や取引先が集まるデカい社交場みたいなもんだ。うちからも何人か出席する。そこで親父にお前を紹介するから、俺の隣で話を合わせていてほしい」
 ただの上司と部下なのに、結婚を前提とした恋人だと偽ってお父様に紹介されるなんて、そんな大それたことをしていいのだろうか。

「まあ急にそんなこと言われても困るよな」
「困るっていうか、そもそもそれ、私でいいんですか?」
 本当に結婚するわけでもないのだから、尾形さんにとっては連れて行く相手など誰でもいいのだろう。しかしどこかのご令嬢を尾形さんの結婚相手に選ぼうとしているお父様が、私を連れて行ったところで納得するとは思えなかった。

「誰でも良くて言っているわけじゃない。上司として何年もお前を指導してきて、お前ならどこに出しても恥ずかしくないと思っているから頼んでる」
 尾形さんが薄く微笑む。仕事では詰られることも多いが、私をそんな風に思ってくれていたことに胸が詰まった。クレームが入った取引先に一緒に頭を下げてくれたり、本気で辞めたいと思っていた時に親身になって相談に乗ってくれたり、私は尾形さんに大恩がある。何より、尾形さんにこの会社から離れてほしくない。

 着て行くドレス、去年友達の結婚式の時に買ったやつでいいかな。
恋人役としてパーティーに参加する決心を固めていると、椅子から立ち上がった尾形さんが私の頭に優しく手を置いた。
「礼はちゃんとする。飯も今度また奢ってやるから、どこがいいか考えとけ」
「そしたら私、神楽坂の居酒屋がいいです」
「お前あそこ好きだな」
「だって美味しいんですもん」

 尾形さんにとってみれば私を紹介することは、お父様の用意するレールに乗りたくないためのその場しのぎだ。いつかはきっと、自分で選んだ女性と一緒になるのだろう。そう思うと切なさが胸を掠めたけど、彼が誰かと幸せになるのなら、心から祝福したい。
 私も自分の幸せを掴むためにも、合コン頑張ってみようかな。


***


 パーティ会場は港区の高級ホテルだった。
『花沢グループ創業100年記念パーティー』
 パネルの案内通りにエレベーターに乗って宴会棟に着くと、豪奢なシャンデリアが灯され荘厳な雰囲気に包まれた会場は、招待客の歓談で既に賑わっていた。
 面識のある取引先の役員や、テレビで見たことのある一流企業の社長もちらほらいる。ここへ足を踏み入れることに、仕事でクライアントに会う時のような緊張が走った。

「お前はいつも通りにしていればいい」
 辺りを見渡しながら尾形さんが言った。見ただけで上質な生地だと分かるグレーのスーツがよく似合っていてかっこいい。こんな人が身近にいたら、合コンで出会う人も霞んでしまう。というか私、男性を見る時に尾形さんが基準になってしまっている。

「何見てんだ」
「いえ、別に」
「……それ、悪くないな」
 私をまじまじと見た尾形さんの呟きに顔が熱くなる。結局新しく買ってしまった、胸元から袖にかけてレースをあしらったワンピース。髪も時間をかけてセットしてきた。尾形さんが紹介する相手として恥ずかしくないようにしなければと思っただけ。

「目的の奴はいたが今取り込み中みたいだ。先に」
「兄上!」
 後ろからの溌剌とした声に振り返る。スラリと背の高い男性が、尾形さんに向かって莞爾として笑っていた。色白の顔は恐ろしく目鼻立ちが整っていて、育ちの良さが滲み出ている。その隣には、百合のような綺麗な女性が微笑んでいた。

「勇作さん、本日はおめでとうございます」
 尾形さんが二人へ向き直る。この人が尾形さんの義弟、花沢勇作さんらしい。なるほど、尾形さんとは違うタイプの美形だ。美しさの中に屈託のない可愛らしさも兼ね持っている。

「ありがとうございます。兄上、こちらの女性が先日仰っていた」
「ええ。父に紹介したく、参列していただきました」
 お互い敬語だけど、尾形さんが柔らかい微笑みを浮かべている。それだけでも、二人の関係はそう悪くないように見えた。『尾形さんがうちの会社に入ったのは本妻の息子との不仲が原因だ』なんて噂は、二人の関係を斜めに見る人たちの邪推なのだろう。

「初めまして。花沢商事の花沢勇作と、妻の○○です」
「初めまして。×××コンサルティングの苗字名前です」
「苗字さんのお話は兄上から聞いております。とても優秀な後輩だと」
「とんでもないです。いつも尾形さんに勉強させてもらってばかりで」
 義弟さんに私のことを褒めてくれていたのが照れくさかった。目が合うと、尾形さんは見たこともないような満面の笑みを浮かべている。逆に怖いんだけど。

「こうして兄上の大切な人に会えて嬉しいです」
 勇作さんの純真な笑顔に胸が痛む。そう納得してもらうために芝居を打っているのに、彼らを騙していることに罪悪感が渦巻いた。
「私も勇作さんに彼女を紹介できて何よりです。今度改めて、四人で食事ができたら嬉しいのですが」
「いいですね、是非!」
 一方尾形さんは芝居が板についてしまっている。この人は意外に演技派なのかもしれない。
勇作さんと奥様との話が終わると、顔の筋肉が一気に緩んで疲労が伸し掛ってきた。近くのケータリングコーナーに、今まで出席したどの立食パーティーよりも豪華なご馳走が湯気立って並んでいる。

「今のような調子でいい」
 スパークリングワインの入った華奢なグラスを二つ手に取った尾形さんから片方を受け取る。口をつけると、飲みやすいマスカットの甘みとともにきめ細かい泡が舌に乗った。
「尾形さん、ローストビーフ食べてもいいですか?」
「親父への紹介が終わってからな。全く、緊張してるのかと思ったら食い意地は張ってやがる」
悪態をつきながらも尾形さんは、安堵を滲ませた表情で笑っていた。


 花沢幸次郎社長はその風貌だけで、尾形さんとの血の繋がりを感じずにはいられない程尾形さんによく似た方だった。
 結局仕事の話が主になってしまったけど、大企業の社長と詰まることなく歓談を交わせていることに、懸命に仕事をしてきてよかったと思った。

「百之助がこんなに素敵なお嬢さんと将来を考えているのなら安心したよ。今度またゆっくり話そう。苗字さん、倅をよろしくお願いします」
 ひとまず認めてもらえたということでいいのだろうか。最後のお父様の言葉に、ずっと真顔だった尾形さんの口角も少し上がる。尾形さんの目的が達成したことに私は胸を撫で下ろした。

「お父様、優しい方ですね」
「あれはお前を気に入ったんだよ」
 尾形さんに背中を軽く叩かれる。私は彼に微笑んだけど、上手く笑えていない気がした。だって尾形さんが結婚する時、勇作さんやお父様たちに祝福される時、隣にいるのは私ではない。

 ケータリングを食べた後、今日の役目を終えた私はいじけた気持ちになってカクテルを煽っていた。すると後ろから、「おい」と咎めるような声で呼びかけられる。向こうで我が社の月島係長と話していた尾形さんが戻ってきていた。

「ペース早いぞ」
「平気です」
「大して強くないんだから飲みすぎるな。鶴見部長が来てる」
 一口飲んだグラスをテーブルに置いた尾形さんの視線の先を見ると、うちの会社の鶴見人事部長が歓談に盛り上がっているところだった。
鶴見部長は、その天才的手腕でクライアントへ最適解を導き我が社の成長に大きく貢献してきた人だという。今のポストに上り詰めた後は人材育成に力を入れており、部下からの信頼の熱い上司だ。

 頃合を見計らって尾形さんと鶴見部長の元へ行くと、部長は少し大袈裟なくらい快活に笑った。
「おー!尾形くんに苗字さんじゃないか!」
 鶴見部長とは会社の内線の取次以外お話したことはなかったのに、私の名前を覚えてくれていた。
「こんにちは、鶴見部長。ご存知いただき嬉しいです」
「身内の私にそんなに畏まらないで。苗字さんの活躍は耳にしているよ。先日も大きな案件を獲得していたし、指導している尾形くんも鼻が高いだろ」
「いえ、苗字が優秀なだけですよ。私の方こそ、彼女から学ぶことが多いです」
 今日の尾形さんはいくら何でも優し過ぎる。いつも「何やってんだ間抜け」とか「手のかかる後輩だな」とか怒ってるくせに。

 尾形さんの入社時、うちの課の課長が鶴見部長だったらしい。鶴見部長が気に入っている部下の中でも、尾形さんは特別だと聞いたことがあった。
「実は今日は、私が彼女を父に紹介したく出席をお願いしたんです」
 話が一段落すると、尾形さんが話題を変えるように切り出した。
「というと?」

「近いうちに、苗字との結婚を考えていまして、」
 思いもよらない尾形さんの言葉に、私は仰天して彼を見上げる。待って、尾形さんと私が結婚を考えているっていうのはお父様への“設定”では!?

「鶴見部長には話が纏まってから改めて報告させて頂きます」
「そうだったのか! いやはや素晴らしいことじゃないか!尾形くんが苗字さんを入社時から指導していることは知っていたが、そこまで親密な間柄になっていたとは」

 話が纏まってからとはどういうことだ! 「式には呼んでくれ」とか「人事異動は考慮する」とか、二人の間で勝手に進んでいく話に割り込むことができず唖然とする。まるで用意していたプレゼンの台本が違うものにすり変わっていたかのように頭が混乱した。尾形さんの思惑が全然分からない。

 鶴見部長への挨拶を終えた後、顔なじみのクライアント先に声をかけられ、その後も尾形さんのところへ色々な企業の人が集まってきてたけど、先方の話が全然頭に入ってこなかった。一度落ち着くために、尾形さんにトイレへ行くと告げて逃げるように会場を出た。華やかな柄の柔らかいカーペットをいつもより高いヒールで歩いていく。少しバランスを崩せば転げてしまうような不安な心地がした。ロビーのソファーに腰を下ろした私は状況を整理しようと、尾形さんにこのパーティーへの参列をお願いされたあの日からの彼との会話を思い返す。

 尾形さんは結婚を考えている人はいないと言った。だからお父様によるお見合いを躱すために、私を恋人だと偽って紹介した。それは間違いない。しかしこの件に関係のない鶴見部長にまで、私を婚約者のように説明したのだ。

 まさか尾形さん、本当に私と結婚するつもりなのだろうか。
「苗字!」
 突然名を呼ばれてびくりと肩が跳ねた。項垂れていた頭を上げると、一人の男が此方へ足早にズカズカと歩いてきている。

「鯉登くん」
 同じ課で働く同期である彼も来ていたのか。
正直今は鯉登くんと話している場合ではなかったけど、怒りに興奮したように眉を釣り上げた彼は私の前で止まると息巻いて話し始めた。

「今、月島係長が菊田課長に話しているのを聞いたぞ! お前、尾形主任と結婚するのか!?」
 頭を鈍器で殴られたように目眩がした。着々と広まっている話に、どうしてこんな事になっているのかと額を手で抑える。

「そもそもお前たち、付き合ってたのか!?」
「そうじゃないはずなんだけど、なんかよく分からなくて」
 あまりの困惑に、自分が何か勘違いしているかもしれない錯覚に陥ってくる。私は鯉登くんに事の経緯を話すと、隣に座った彼は信じられないものを見る顔で口をあんぐりと開けた。

「苗字それ、外堀を埋められてるぞ」
「え、外堀?」
 尾形さんが私と結婚するためになぜそんな回りくどい方法をとるのだろう。そもそも彼は自分を慕う後輩として私を可愛がってくれているだけで、異性としての好意を寄せているとは到底思えなかった。

「卑怯な男め」
 そう吐き捨てた鯉登くんは、その真っ直ぐな目で私を見つめて両肩を掴んだ。
「なあ苗字! 今ならまだ間に合う。自分で尾形主任にその気はないと言うんだ。そうでないと逃げられないところまで手を回されて」
「ははぁ、言ってくれるじゃねえか」

 その場の温度が一気に下がったような寒気が走った。鯉登くんの説得を、嘲笑うかのような声が被さったからだ。
 振り向くと、不敵な笑みを浮かべ髪を撫でる尾形主任がいる。鯉登くんからギリっと歯を食いしばる音が聞こえたような気がした。

「鯉登、手ぇ離せ」
 威圧的な尾形さんに、立ち上がった鯉登くんは敵意を顕にした笑顔で詰め寄る。
「失礼しました。先程尾形主任が菊田課長たちに仰っていたお話と、今苗字に聞いた話に齟齬があるようでしたので。親しい同期が心配で、つい熱が入ってしまいました」
「それはお前の願望だろ?こいつのことはこいつが決める。お節介が過ぎるぜ」

 オロオロしながら二人を交互に見つめる。私のことなのに私が口を挟む余地がなかった。
「もう用は済んだから帰るぞ」
 この状況で彼がどういうつもりなのか問いただすことなどできない。自分を案じてくれている鯉登くんに申し訳なさを感じながらも、私は立ち上がった。

「苗字」
「鯉登くん、また週明けね」
 苦虫を噛み潰したような表情の鯉登くんに、これ以上気を揉ませないよう笑顔を作ってその場を後にした。

 尾形さんの後を黙ってついて行く。彼も一度も振り返らず、エントランスに横付けされたタクシーに二人で乗り込んだ。運転手に互いの住所を伝えると、車が水平線の上のように滑らかに走り出す。冷房が効き過ぎている車内に寒気を感じて腕を擦った。

「エアコン、少し弱めてくれ」
 尾形さんが運転手に言うと程なくして、冷えた空気に生温さが混じっていく。
 煌々とした光を纏って昼とは違った顔を見せる街は、夜遊びに耽ける大人たちの活気に溢れていた。夏の夜はみな開放的な気分になるものだ。しかし、ドア一枚隔てたこの車内は別世界のように沈黙が支配している。尾形さんと互いに黙ったままでいることは多いけど、いつもとは明らかに違う、気まずさの漂う雰囲気。先程のこともあって恐れにも似た緊張が走っている私は、息をつくことさえままならなかった。

 しかし、尾形さんはどういうつもりで私と結婚するなんて言ったのか、先に彼がタクシーを降りる前に聞かなければ。頭を固定したようにずっと窓の外を眺めるふりをしていた私は、そっと尾形さんへ振り向いた。

 暗がりの車内で、私を見つめる尾形さんと視線が重なる。
いつから私を見ていたのだろう。
「今日はすまなかったな」
「いえ、……あの」
「本当は親父が俺の選んだ相手を認めようが知ったことかと思っていたが、ああまで気に入られると悪い気はしないな」
 尾形さんの大きな手が私の頭に触れると、彼に問いただそうしていた意気がうち消えていく。

 ダメだあああ! 満足気に目を細めて私を見つめる尾形さんに「いや、私たち付き合ってませんよね?」などと言えるわけがない。私の胸中を他所に、恋人同士の密室を思わせるただならぬ空気が流れ始める。
「俺の家で少し飲み直さないか?」
「尾形さんの家で、ですか?」
「貰い物のワインがあってな。お前ワインが一番好きだろ」

 この流れはさすがにまずい。どんな展開になってしまうかを想像して、顔がどんどん熱を持っていく。
「安心しろ。今日のことを少しゆっくり話したいだけだ。取って食ったりしない」
「なっ……そんなことは別に心配してません!」
 見透かされてムキになる私を、尾形さんが揶揄うように笑う。私たちらしいやりとりに少し安堵した。忙しい時も嫌なことがあった時も、尾形さんとのこういう時間にいつも私は救われてきたのだから。

 あまりに突然の事に、尾形さんが何を考えているのかばかり考えてしまっていたけど、私はどうしたいのだろう。
 彼のいい部下でいたい。でも彼が誰かと幸せになるとき、心から祝福できるとは思えなくなっている。そんな自分の感情を、もう誤魔化すことはできなかった。
 もし尾形さんが私を選んでくれるというのなら、私は。



 品川駅からほど近い先進的な外装のタワーマンションの前で、私は首を真上に上げた。いつかの飲み会で宇佐美さんが「お前あんなところ住んで女連れ込みまくってるんだろ」と尾形さんに絡んでいたのを思い出す。本人曰く会社から近ければどこでも良かったらしいけど、それだけで借りれるグレードのマンションでないことは明らかだった。

 結局尾形さんの家でタクシーを降りてしまった。考えてみれば尾形さんとは二人でよく飲みに行くし、酔い潰れた私を家まで送り届けてくれたこともある。こう見えて(と言ったら小突かれるだろうが)紳士的な人なのだ。本当にただワインを飲みながら会話するだけだろうと自分に言い聞かせながら、彼についていく。

 大理石の床のだだっ広いエントランスを過ぎてエレベーターに乗った。音もなく上昇していく感覚に胸が早鐘を打つ。一人分は空いているはずの尾形さんとの距離が、タクシーの時よりも近く感じた。

 まもなく尾形さんの部屋の階へ着く時だ。パーティ用のチェーンバッグから、スマホの着信を知らせる規則的な振動が伝わった。
 留め具を外して開いた中から覗き見た画面に、私は声を漏らしそうになる。

《鯉登音之進》

「出ないのか?」
尾形さんの声に、背中に冷たいものが走る。顔を上げることができない。
「ええ、大丈夫です」
「俺に気を遣ってるなら構わないぞ。急ぎの用かもしれないだろ」
 尾形さんのことだ。着信の相手が誰なのか察した上で、私が出るか試しているのかもしれない。彼にはそういう意地の悪さがあるのだ。
 私を心配してかけてくれている鯉登くんに心苦しくなる。後から折り返して気付かなかったと言おう。エレベーターを降りてすぐ横の、尾形さんの部屋の前で振動が鳴り止むとホッとした。

「お邪魔します」
 尾形さんにドアを開けてもらい中へ入ると、長い廊下の両脇に部屋のドアが連なっているのが暗がりの中でも見えた。尾形さんが電気をつけ、白い壁が視界に広がり眩しさを覚える。時折尾形さんといる時に鼻をかすめる匂いと同じ匂いがする。久しぶりに男性の家へあがったことに緊張しながら尾形さんの後ろを歩く。少しワインを飲んで、一時間くらいでタクシーを呼んで帰ればいい。今日のことを話し合うためにもあまり酔うわけにはいかなかった。

 すると突然、リビングへ向かっていたのだろう尾形さんの足が止まった。
「こうするしかねぇよなぁ」
 鼓膜へ這いずってきたかのようないつもよりも一層低い声だった。尾形さんが呟いた言葉の意味が分からず、しかし嫌な予感がせり上がってくる。振り返った尾形さんは、大きな黒目が更に闇に塗られたようにどこまでも暗く、私を蔑むように見下ろしていた。

「くそ真面目でとことん鈍くて、その上こうやって簡単に流されるときたもんだ。そしたら尚更合コンなんて行かせられねぇだろ」
「尾形さん?」
 淡々と吐き捨てるような尾形さんの声には明らかに怒気が含まれていた。こんな尾形さんを見るのは初めてで、何が彼の機嫌を損ねたかのかも分からず恐怖に後ずさる。それに更に苛立ったのか、肩を思いきり掴まれ壁に押し付けられた。

 抵抗するまもなく尾形さんの顔が迫ってきて唇が塞がれる。私に考える隙など与えないような荒々しい接吻を、戸惑いながらも受け止めるしかなかった。舌が捩じ込まれ上顎を舐め上げるように掬われると、身体が快感にわなないていく。耐えきれず肩を押してもビクともしないどころか、痛いほど手首を握られてしまう。

 ようやく唇が離れると、私たちの唇の間に互いの混ざりあった粘液の糸が伝っている。私たちの間に培われてきたものが崩れ落ちていく感覚に、胸が引き裂かれるように痛んだ。
 そんな私に構うことなく、尾形さんは私の耳へ唇を寄せその中を弄び始めた。唇で食まれ、耳穴へと舌を差し込まれると、情けないほど身体は正直に脚の力が抜けていく。

「はっ」
 へたりこみそうになった私を愉悦を浮かべて見下ろした尾形さんは、私の腰を持って抱き上げると手前の部屋のドアを引いた。尾形さんの匂いが一層強くなったことに、そこが寝室であることに気付いた私は彼の腕を引き剥がそうとする。
「尾形さん、待って」
「そう言ってやめてもらえると思うほど、 俺はお人好しに見えてるのか?」

 脅える私を嘲笑う尾形さんに部屋へ引き入れられると、壁際のベッドに投げるように押し倒された。
 すぐさま覆い被さってきた尾形さんがスーツの上着を脱ぎながら口元を歪めて私を見下ろしている。熱い吐息が肌を掠めて、全身が縮こまっていく。

「なんで。尾形さんは、こんなこと」
 震える声で紡いだその言葉を、ネクタイを外して床に投げ捨てた尾形さんが鼻で笑った。
「俺にどんな幻想抱いてんだ、お前」
 突き放すような冷たい声なのに、厚い手のひらで頬を触れる手つきはひどく優しかった。

「まぁ、そうだよなぁ。お前にとって俺はいい先輩でしかないもんな。どれだけお前を可愛がっても、お前に近付くハエ共を追っ払っても、お前は他の男にしっぽ振りに行くんだろ」
 ようやく尾形さんの不可解な言動に合点がいった。尾形さんはいつまでたっても私が自分に靡かないことに痺れを切らして、自分のものにするために強硬手段に出たのだろう。言葉を失う私の頬から離れた指が鎖骨の形をなぞっている。

「俺はこんなことしない?ははっ。俺はなぁ、ずっとお前にブチ込んでやりたいと思ってたんだぞ」
「ヒッ」
 短い悲鳴を漏らした私に尾形さんが不気味に笑った。真っ黒な瞳には情欲の膜が張って、劣情を顕にしている。本能的に腰を引くと、尾形さんが私の首筋に顔を寄せた。噛み付くように吸いつかれピリッとした痛みが走る。

「痕ついちゃ、」
「俺につけられたって言えばいいだろ。鯉登のボンボンにも」
「なんで、鯉登く、」
 逃げるように首を逸らしても、執拗に場所を変えて何度も吸い付かれてしまう。肩を押しつける手が胸に届くと躊躇いなく揉みしだき始めた。恥ずかしさで呼吸もできない私の首筋に、尾形さんの湿った荒い息がかかる。

 ずっと近くにいて、互いを想っているはずなのに、どうしてその想いが屈折して、交わることなくこんな形で抱かれてしまうのだろう。いい後輩でいたいなんていい子ぶらないで、もっと正直に尾形さんと向き合えばよかったのだろうか。

 背中に腕が回されてドレスのファスナーが開く音がした。中に入った手が背中をまさぐり、ブラジャーのホックを外す。袖を抜かれながら服を捲られると、覆うもののなくなった胸が晒された。思わず腕で隠したが呆気なく退かされてしまう。
「服の上から見るよりデカいな」
 まじまじと見下ろす視線を直視したくなくて目を逸らした。いつもワイシャツの下の膨らみもそういう目で見られていたのだろうかと思うと羞恥がこみ上げてくる。感触を堪能するように握りながら、尾形さんは谷間にぴたりと顔を寄せた。指でその先端を弾かれると、甘い痺れが走って体がビクリと跳ねる。

 尾形さんの目が愉悦に細まる。その目に下腹部の奥が疼くのを感じた。立ち上がった突起を舌で転がされ、どうしようもない快感に身を捩る。
「んゃあっ、あ、ひ、あッ」
「エロい声出しやがって、この淫乱」
「ちがッん、あ」
 尾形さんがもう一方の膨らみをぎゅっと握り、指で頂を摘む。反応を楽しむように甘噛みされ、舌先で虐められると、意識が浮遊して何も考えられなくなってくる。自らの劣情を見せつけてきた尾形さんは、私を手酷く扱いながらもその手つきに迷いがあるように時折優しく触れてきた。尾形さんだって本当はこんな風に私を抱きたくないはずだ。

「尾形さん、待って。きいて」
 ようやく顔を上げた尾形さんに一度静止を求めたが、彼は眉を顰めて舌打ちするだけだった。乱暴にスカートを捲られ脚を押し広げられたかと思えば、ストッキングを縫い目の部分から勢いよく引き裂かれてしまった。
 ショーツのクロッチ部分に顔を近づけた尾形さんが、喉の奥で笑うのが聞こえる。

「こっちはそうは言ってないぞ」
 指を押し付けられたくちゅり、という水音に言い逃れできず、羞恥で涙が滲んでくる。
「ああ、嫌がってるフリか。気付いてやれなくてすまんな。誰に抱かれてもお前はこうやって善がるんだろ」
 いくらなんでもあんまりだと、怒りに上体を起こそうとした。しかし尾形さんがショーツをかき分け、その薄肉を指でなぞると再び抗えない快感がこみ上げてくる。
 生温かい息がかかって思わず腰を引いたが、腿を抱えるように掴んだ尾形さんが更に顔を埋める。次の瞬間、そこを熱い何かがねっとりと這って強烈な刺激が襲った。

「いやあっっ!!」
 生き物のように蠢めくそれが、尾形さんの舌だと気付いたが逃げることなどできない。悶える私に構うことなく、尾形さんはあふれ出る愛液を絡め取っていく。

「ダメッ、ダメぇ、んぅ、ひっ、ああっ、や、」
 強ばっていた腿からくたりと力が抜けて、全身が溶けるように脱力していった。舌のザラザラとした感触がヒダを打って頭がおかしくなりそうだ。花芯を丁寧に剥かれてその中を舌先で突かれると、腰がガクガクと浮いた。

「尾形さん、おねが、やめてっ、」
 快楽と羞恥に涙声で懇願すると、一度尾形さんは動きを止めた。様子を伺うように私を見上げている。この期に及んで、やっぱりこの人は本気で嫌がれば止めてくれるような気がした。しかしすぐさま、自分でも分かる程ひくついた秘穴へと舌が捩じ込まれる。じゅぷじゅぷと音を立てて抜き挿しされると、舌の形が分かるほど中が締め付けてしまう。
 膨れ上がった突起を指で摘まれる。目の前にチカチカと白い閃光が瞬いた。

「もぉ、ダメぇっ、ん、きちゃう、きちゃうの、」
 舌を抜いた尾形さんが突起を舐め上げる。優しく唇で挟まれたそこが吸い付かれると、電流を流されたように全身が痙攣した。
 甲高い声をあげて達している間も尾形さんの愛撫が止むことはなく、続けざまに指で蜜壷を掻き回し始める。私は今度こそ本気で泣きじゃくりながら彼の頭を遠ざけようと腕を伸ばした。それでも執拗に責め続ける尾形さんに、片手で両手首を纏められてしまう。二本の指が腹側を擦るとしなるように身体が仰け反った。

「イッた、もぉイッだからぁ!!ああッ、ン、やめてッ、お、おかしくなっちゃうよぉ!」
「美味そうに俺の指咥えて言っても説得力ねぇぞ」
「あ゙あッ、またイぐ、ヒっひゃう、ッああああ!!!」
 意地悪く笑う彼に、本気で嫌がればやめてくれるなんて思ったのが間違いだった。切れ間なく押し寄せてくる絶頂に、彼の指を締め付けながら悲鳴をあげ続けるしかない。前戯でこんなに快感に狂ったことなどなかった。尾形さんにこんな姿、見られたくないのに。

 ようやく尾形さんが満足して指を抜くと、シーツの上で脱力した身体が鉛のように重く感じた。肩で息をしながら見上げる天井はぼやけている。気怠さと恍惚感に、意識がすう、と遠のいていく。

「何一人で終わった気になってんだ」
 冷たく言い放ちながらも、興奮の滲んだ声だった。ベルトの金具を外す音に顔を上げると、尾形さんが取り出したそこは凶暴さを匂わせる程はち切れんばかりに反り立っている。

 この状態で受け入れたらどうなってしまうのか恐ろしくて火照りも覚めていく。私の脚からショーツを抜き取った尾形さんは、肩を掴んで身体を反転させた。愛液が前へ伝っていく。蜜口へ宛てがわれた先端が、ぬめりを確かめるように上下に扱いた。
「あっ、それ、やだ、んッ」
「ケツ動いてんぞ」
 勿体つけるように擦り付けられる熱に、怯みながらも身体は期待してしまう。何度も達した後の身体は容易く刺激を拾って、無意識にお尻を突き出すような態勢をとっていた。
 
 次の瞬間、圧倒的な質量が一気に中を貫いてきた。
「あぁぁっ!」
 目の前にバチバチと火花が散る。媚肉が待ち望んでいた猛りに歓喜してぎゅうっっと締め付けるのが分かった。一突きで達してしまった私の後ろで、尾形さんが苦しげに息を乱している。彼から流れ落ちた汗が肌を打つ。尾形さんにも余裕がないことが伝わって、こんなの違うのに、快楽とは違った悦びを覚えてしまう。

 呼吸を整える間もなく律動が始まる。浅い所まで引き抜かれ、再び奥へと押し入ってくる。彼に晒しているお尻がぶるぶると波打ってしまう。
 腰を掴み直した尾形さんが動きを性急なものに変えた。特に感じるところを何度も打ち付ける陰茎が、中で更に大きさを増していく。

「あっ、それダメ、おくっ、あたって、んふ、いっ、イク、ッ」
 喉まで貫かれているような官能と圧迫感に目を瞑ると、あり余る湿度が水音を奏でているのが一層伝わってきた。

 その時だ。突然バイブレーションの音がベッドの下から聞こえてきた。
 床に投げ捨てられているバッグが、振動音に合わせて小刻みに震えている。
「見ろ、お前が出ないからまたかけてきたぞ」
 動きを止めず、呆れたように笑う尾形さんが恐ろしくて振り返ることができない。

 黙ったままの私の背中に被さった尾形さんは、耳元に唇を寄せて囁いた。
「鯉登だろ」
「んアッ、ち、違います」
「こいつはお前が心配で仕方ないみたいだな。さっさと出てやれ」
「出れません。やめてください」

 床に手を伸ばしチェーンを引き上げた尾形さんに、冗談ではないことを悟って声が震える。尾形さんは中を開けてスマホを取り出して、着信中の画面を見せつけるように私の前に差し出した。
「お前が出ないなら俺が代わりに出るぞ」
「お願いします、本当に、やめてください」
 身を縮めてうつ伏していると、鼻の奥がしょっぱい何かでツンと痛んだ。間もなくして着信は止まった。一粒落ちた涙が次々とシーツに滲んでいく。どうして尾形さんはこんな酷いことばかりするのだろう。そこに愛はなく、支配欲と恐怖で押さえつけられているような行為が悲しかった。

「…悪かった。やり過ぎた」
 尾形さんがバツが悪そうに呟いた。プライドの高い彼が今までこんな風に謝ることはなかった。聞き間違いかと濡れた睫毛を瞬かせていると、中から竿が引き抜かれ、ゆっくりと仰向けに返された。

 瞼を濡らした涙が優しく拭われる。一見いつもと変わらない表情の中に、諦めにも似た寂しさが浮かんでいる。
「嫌われて当然だろうが、俺は、お前を誰にもやりたくないだけだ」

 誰にも渡したくないなら家族や上司で外堀を埋める前に、無理に事に及ぶ前に、どうして素直に想いを打ち明けないのかがこの表情を見るまで分からなかった。きっと私が思っているよりずっとこの人は臆病で、私が自分から離れて、今の関係が崩れることが怖かったのだろう。

 そんな不器用で情けない尾形さんを受け止めるように、彼の背中へ腕を伸ばす。一瞬その黒目が揺れたような気がしたけど、すぐに私の耳元に顔を寄せて抱き締めたから分からなかった。ようやく触れ合った肌の温もりが心地いい。どんなに酷いことをされても、私は尾形さんを嫌いになれないのが悔しかった。

 どちらからともなく唇が重なる。さっきとは違う甘く互いを溶かし合う口付けを繰り返していると、尾形さんの屹立が太腿に触れた。
「いいですよ」
 吐息混じりに笑った私に、尾形さんが目を見開いた。腰を屈めた尾形さんが再び私の蜜壷へ埋まっていく。中がうねって、その気持ちよさに眉を寄せた。

 密着したまま腰を突き動かされ、ベッドのスプリングが軋む音を立てる程揺さぶられる。脳が焼き切れていくような快感の中、尾形さんにしがみつくことしかできない。

「名前っ、」
 嬌声を漏らす私に、尾形さんが呼んだことのない下の名前を掠れた声で呼ぶ。それに昂って、中が彼を今までになく締め付けてしまった。互いに絶頂が近くなり、熱を孕んだ瞳が私を捕らえる。唸り声をあげながら腰を打ちつける尾形さんが愛おしくてたまらない。

「ん、もうダメッ、あ、イクっ、ああッ!!」
 尾形さんが一番奥を穿つと、意識が白けていった。腹の上に弾けた熱を感じる。




「悪かった」
 二度目の謝罪をした尾形さんは随分しおらしかった。
「何についてですか?」
 湿り気を帯びたシーツの上で、私を抱き締めて離さない尾形さんに顔を上げる。今日はこのまま寝るつもりなのだろうか。互いに汗ばんだ身体のままだったけど不快感はなく、静かで柔らかい、満たされた時間が流れている。

 意地悪く追及する私に、尾形さんが面食らった顔をしたのがおかしかった。
「……お前を騙して連れて行ったこと」
「私が怒ってるのはその事じゃありません」
「電話のことはもう謝っただろ」
「それも許してませんから。でもそうじゃなくて、」

 尾形さんの腕からするりと抜けて上体を起こす。彼が捕まえようと伸ばした腕が空を切った。
 もう手に入れたつもりなのだろう。でもまだ早いんだから。

「尾形さん、一度も好きって言ってくれないんですもん」
 そんなことかと安堵したようなため息が漏れた。ふっと微笑んだ尾形さんは、起き上がると私の髪を優しい手つきで撫でた。

「好きだ。ずっと前から」
「もっと早く言って欲しかったです」
「その気がないのに言ったら逃げるだろ」
 臆病で不器用で、嫉妬深いこの人が可愛くて口付ける。力強く引き寄せられて、今度こそ彼の腕の中に収まった。

「私も尾形さんのこと好きです。誰かと結婚されたら嫌なくらい」
「……明日籍入れるか」
「まずは恋人からお願いします」
 目尻を下げて笑う尾形さんは、頼れる上司でも仮の婚約者でもなく、ただの私の最愛の人だった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る