雨も夜も




 久しぶりに全速力で走ると、すぐに息が上がって日頃の運動不足を思い知らされた。すれ違うサラリーマンが驚いたように振り返るのを目の端で捉える。それでも足を止めず、この夜闇の中を人目も憚らず走り続ける原動力はただただ情動だ。胸を突き破るような怒りと悲しみを振り払うため、アスファルトを蹴って、息を上げて、あの部屋から物理的に離れるしかなかった。

 限界がやってきたのは繁華街の前だった。体力的な、というより、流石にこんなに人が往来している通りを走り続けてたら、頭のおかしい人だと思われて通報されてしまう。

「お姉さん一人?」
 軽薄そうな男が話しかけてきたのを無視する。なぜこういう男は「わけアリの女」を嗅ぎ分けるのが上手いのか。振り切って、またしばらく歩いていく。夜遊びに耽ける開放的な雰囲気に包まれた人たちを見ていると、この街の中で自分が一番惨めな人間な気がして泣けてくる。通りの角に、ネオンの群れに負けない煌々と白い光を放つコンビニエンスストアがある。お店の前には電話しながら煙草を吸うホストらしきスーツの男の人や、缶チューハイにストローを指して地べたに座り込んでいる若い女の子たちが屯していてカオスだ。その中に混ざりたくはなかったけど、この火傷したみたいにヒリヒリした心ではカフェに入る気にもなれなくて結局一員に加わってしまう。『彼氏と喧嘩して家を飛び出してきた女』として。


「好きにしろ」
 百之助はこちらを見ることもなく確かにそう言った。男の人が頑なに意志を曲げない、こちらの話を聞く気なんてない時の姿は、石のように硬く、氷のように冷たく見えるのは何故だろう。その後ろ姿に胸が張り裂けそうになって、引くに引けなくなった私はハンドバッグにスマホと財布だけを放り込んで百之助と暮らす部屋を飛び出してきた。

 こんな時に連絡できる、あわよくば泊めてくれる友達なんていない事に、私の世界が殆ど百之助で占められていることを痛感する。いても共通の友達。杉元くんや明日子ちゃんたちに連絡するなんて絶対ダメだ。怒った杉元くんが百之助を呼び出すのが目に見えている。

 百之助とあの部屋で長い月日を過ごしてきた私は、いざ自分の世界から彼に関わるものを抜いたら仕事ぐらいしか残らないのだ。彼と別れたらあまりに空虚な日常が待っていることに恐ろしくなって肩を擦る。秋の始まりを感じさせる肌寒さに、薄着で飛び出してきたことを後悔した。

 すると追い打ちをかけるように、アスファルトをぽつり、ぽつりと雨が濡らし始めた。
 振り落ちてくる斜線の雨水が、店内からの灯りで白く光っていた。瞬く間に強くなっていく雨は、コンビニの申し訳程度の屋根の下にいる私の足元を濡らしていく。側にいたホストらしき人や女の子たちはいつの間にかどこかへ行ってしまった。

 裏手にある漫喫にでも行こうかな。わけアリの女が一晩寝泊まりするにはちょうどいい場所だ。そう思っても私の足は縫い付けられたようにその場から一歩も動けず、車のヘッドライトや街灯が滲んだように道路に反射しているのを、ただじっと眺めていた。

 雨音に混ざって、ハンドバッグの中のスマホが振動する音が聞こえる。
 取り出して画面を見ると百之助だった。嬉しいけど待ってましたとばかりにすぐ出るのは癪で、5コール目で応答のボタンを押した。

「おい、今どこにいる!」
 想像よりずっと切羽詰まった、叫びに近い声が聞こえてきて肩が跳ねた。喧嘩しても自分から謝ったりしない百之助は、しばらくしてから様子を伺うように声をかけてくるのがお決まりだから。少し弱まった雨音のおかげで、さっきの私のような荒い息遣いが聞こえてくる。百之助が今、雨の中走り回って私を探していることを察した。

「……〇〇駅の北口のコンビニ。ドラッグストアの向かいの」
「そこで待ってろ」
 通話が切れると、喉をしょっぱい何かが流れて鼻の奥がツンと痛くなった。いつ百之助が来るか分からないんだから、耐えなければ。そう思ってもしょっぱい雨水は次々と目から零れ落ちてきて、私はそれを、湿気にまみれた手の甲で拭うしかなかった。

 好き。大好き。
 電話越しに触れた愛が、つまらない意地を決壊させていく。

 急な雨のせいで、私が歩いてきた通りに人はほとんどなくなった。気まぐれに強まったり弱まったりする雨音を聞いていると、私も百之助を探しに行きたくなる。

 私が歩いてきた方からずぶ濡れの男が一人走り込んできて、コンビニの前で止まった。
 バケツの水でも被ったかのような乱れた前髪の奥で、私を見つけた目がほっと緩むのが見えて、また涙が溢れ出す。Tシャツもジーパンも本来の色を変えている。まるで自分の捨てた猫がずぶ濡れになって追いかけてきたような、締め付けられる気持ちになって、私は百之助に駆け寄った。

「本当に、出ていく奴がいるか」
 肩で息をしながらそう言われて、私は濡れることも構わず百之助を思い切り抱き締めた。頬を濡らすそれが、雨なのか涙なのかもう分からない。
 冷えているはずの背中は、ちゃんと私の手のひらにその奥の熱を伝えてきた。




 きっかけは些細な事だった。
 最初のうちの、お互い棘のある言葉を投げたところで止めるべきだった。でも、今日は一度険悪な雰囲気が流れたリビングが浄化されることはなく、そうなると普段は目を瞑っていたことまで持ち出してまたヒートアップしてしまったのだ。

 百之助は愛を言葉にすることはない。でも、私を失うことの恐怖を原動力にずぶ濡れになって街を走り回った彼が、私をちゃんと愛していることだって分かっている。その愛という不確かなものが、こんなに近くにいるのにお互い時々見えなくなってしまう。多分、今日はそんな夜だった。

 扉を開けると、白を基調としたシンプルな部屋の中にキングサイズのベッドが鎮座している。
 雨宿りに私たちが駆け込んだのは古びたラブホテルだ。一番演出の少なそうな部屋を選んだつもりだ。でも、ビジネスホテルには決してないそこはかとなく漂う雰囲気に、百之助と同棲してからめっきり来なくなったのもあり羞恥を覚えてしまう。

 後ろで百之助が服を脱いでいる。見慣れているはずの濡れた髪や割れた腹筋が扇情的で、ずくりと、身体の芯が熱を持っていく。
 私は気恥しさを隠すように洗面所へ向かって、洗面台下の籠からタオルを取り出して彼の頭に被せた。わしゃわしゃと拭いてあげると小さな水滴が飛んでくる。されるがままの百之助が本当に濡れた猫みたいで、ちょっと口元が緩みそうになる。

「服、ドライヤーで乾かせるかな?」
 お風呂を沸かすべく再びバスルームへ向かおうとした。私は自分を追いかけて来てくれた百之助に世話を焼いてあげたかったから。
 でも、驚く程強い力に抱きとめられてしまう。

「......百之助?」
 背中から、さっきよりもずっと近くに彼の温度が伝わってくる。
「悪かった」
 私は驚いて腕の中で彼に振り向いた。百之助が自分から謝ることなんて今まで一度もなかったから。
黒い瞳が寂しげに、怯えたように揺れていて、私の心をまた締め付ける。

 私はどこか、あの2LDKでの生活に慢心していたのかもしれない。二人の世界って何よりも信じられる確かなものだと思ってしまうけど、愛がその実、朧気なものである以上、本当は脆くてすぐに壊れゆくものなんだ。

「ううん、私こそごめんね。......私には百之助より大切なものはないから。探してくれて」
 最後まで言い切ることは叶わず、百之助が急くように唇を塞いだ。私を溶かすような熱い、余裕のない口付けは、私の全身にさざ波のような快感を響かせて思考を奪っていく。割り入ってくる舌に上顎を撫でられるとびくりと身体が震えた。それを愛おしそうに百之助が更に抱き締めて、キスをしながら部屋の奥へと押し込んでいく。受け止めるのに必死になっていた私は、あっという間に羽のように柔らかく、白いベッドへと押し倒されていた。

 ギジリと音をさせて百之助が乗り上げてくる。首筋に、鎖骨に口付けの雨を降らせながら、裾から服を捲られて肌が晒された。
「ねえ待って、電気」
「あ?今更何恥じらうってんだよ」
「さすがに明るすぎて、なんかやだ」
「チッ」
 百之助は枕元へ手を伸ばし、ボタンをどれだか試すようにいくつか押してベッドの真上の照明を消した。

 部屋が仄暗くなると、さっきまでほんの微かだった雨の音がずっと近くに聞こえてくる。それが私たち二人の世界をより閉鎖的にした気がした。
 服も下着も脱がせた百之助が、谷間へと口付けて舌を這わす。素直に吐息を漏らす私を楽しむように、百之助の愛撫はいつも緩慢に私を焦らしながら、でも確実に弱いところを突いてくる。期待して尖り立った蕾をようやく唇が掠める時、私の吐息が声になったところで、彼の口角が意地悪く上がるのだ。

「あっ」
 頂を熱い舌に転がされるとき、両方の膨らみは彼の手の中で形を変える。以前、お風呂でもテレビを見ててもキッチンに立っていても、すぐに服の中に手を滑り込ませて胸を触る彼の手癖を咎めたことがある。一見変わらない表情の中でしゅんとしてしまった百之助を見て可哀想になったけど、その分好きに触れるこの時間に、彼は存分に愛でてくる。
 力強く鷲掴んでいた指が頂に触れ出して、快感にシーツを蹴った。防音性の高い部屋故なのか、やけに声が響いてしまうのが恥ずかしい。手の甲で抑えようとすると絶対に掴み取られて、もっと快感を与えようと躍起になられてしまうから、しないけど。

 百之助の手が滑り落ちていく。唯一履いたままだったショーツの上から触れられたそこは、彼を待ち望んではしたなく濡れそぼっていた。硬い指が直にその湿度を確かめるように動くと、ゆっくり入口へと侵入してくる。
 奥まで届いたそれが中を掻き回し始めた。
「ああっ、ん、」
 先程までの愛撫でひどく火照った身体を仰け反らせた。恥じらいでギリギリ保っていた理性が瓦解して、あられもない嬌声が響く。それに気をよくしたのか、百之助が更に指を増やして中を解していく。追い詰めるように動きを早くして。
 
 百之助の前戯は丁寧さを超えて執拗だ。切れ目のない絶頂から逃れることもできず、腰をガクガクと浮かせる私に、自分の手の中で乱れる私に悦びを覚えている。でもこれも、きっと彼なりの愛情表現だと分かったのは付き合ってしばらくしてからだ。

「も、ダメぇ、おねが、」
 息も絶え絶えになった私に満足した百之助が指を抜いた。
 暗がりの中で視線が重なる。飄々として他人を寄せつけないように見えるこの人は、淋しがりやで、やきもち焼きで、愛に臆病だ。

 そんな彼と時にはすれ違って衝突しながらも、その度に愛が深まっているのは錯覚ではないはず。でも人って、好きな程に好きだけではいられなくなるのはなぜなんだろう。

 百之助に解されたそこに彼の熱が捩じ込まれていく。その圧倒的な質量に全身が燃えるように熱くなる。全て入りきったところで百之助は息を浅くする私を見下ろしていたかと思ったら、引き抜くように少し腰を戻した。
「ゃあっ!!」
 目の前にバチバチと白い閃光が走った。不意を突くように、さらに奥へと思い切り貫かれたのだ。自分でも分かるほど中が収縮して、百之助が苦しげに眉を顰めている。腰を掴む手に力が入って、百之助が快感に耐えているのが伝わってくる。それに高揚を感じる間もなく、容赦ない抽挿が始まった。

 突き上げられる快楽で目の端が濡れていく。こうして一つになっている間は、愛のややこしさなんて忘れて彼の温度に安心してしまう。百之助もきっと同じだ。
「本当に可愛いな、お前」

 荒い息に混じった彼の言葉はどんな刺激よりも甘美だ。もう糖分の過剰摂取だというくらい、その甘さに脳がどろどろに溶かされてしまう心地さえする。動きに呼応するような嬌声はとっくに恥ずかしさなんて忘れている。
「もう、どこにも行くな」
「えっ」
「俺から離れるな。次、どこかへ行ったら、」
「んっ、行かない、あっ......、ずっと、百之助のそばに、っ、いるから、」

 百之助を引き寄せたくて腕を伸ばす。降りてきた彼もその逞しい腕の中に私を閉じ込めた。百之助の汗の匂いや、耳元で聞こえる息遣いに、心が温かいもので満ちていく。二人の世界の中で、一番安心できる場所だ。

 限界を知らせるように腰を打ち付ける速度が増す。快感に塗れていた私は呆気なく達してしまった。構わずに私を揺さぶる百之助の腕の中で、頬に涙を伝たせながら絶叫する。胎に温かいものが流れ込んでくる中で、私の意識は遠のいていった。



 目が覚めると、部屋はひっそりとした静けさに包まれていた。
「雨、止んだみたいだね」
「ああ」
 窓の外は、雨によって浄化された澄んだ空気に包まれているんだろう。 雨が明けた朝の美しい景色は好き。洗われたような青空や、鏡のように映る水たまり、雫を滴らせながら咲く花を見ながら、私たちはあの家へ手を繋いで帰る。

 見えなくなった明日が戻ってきた幸せに頬を緩ませると、百之助が胸の中へと私の頭を抱き寄せた。鼓動の音は、私を再び眠りに誘うメトロノームのようだった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る