雨は止みそうにない
※既婚者夢主が大学生の尾形と不倫する話です。
※ 後味の良い話ではないため閲覧は自己責任でお願いします。
雨が降りしきる午後だった。灰色の空は時間の移ろいを曖昧にさせて、静かな図書館は波のような音に閉じ込められている。案の定、来館者は少ない。私は一組も親子連れが来ないカウンターで絵本の修繕をしながら、いつもより心穏やかに過ごせていることに気づいて、そんな惨めな自分に嫌気がさしてしまう。
結婚二年目に児童書コーナーの担当を引き受けた時は、いい絵本を手に取るたびに、自分の子どもにもこの本を読み聞かせたいと、一つひとつ楽しみを増やしていくようだった。でも、一年、二年経っても妊娠せず、病院に通い始めると、「そうやってせっつかれてできるわけがないだろ」と、夫から夜の営み自体を避けられるようになった。隣から夫の寝息が聞こえるたびに、また触れられることのなかった身体は硬くなっていく。子供を授かれず、夫に求められないまま同じ場所から動けない私は、ここで子供と絵本を選ぶ母親から目を逸らすようになっていた。
【今日も遅くなる。傘はあるからいい】
更衣室に戻りスマートフォンを確認して、表示された夫からのメッセージにため息を落とした。ドア横の傘前に朝入れた二本の傘。一本は専門店で買った、一昨年の誕生日プレゼント。でも、この傘を持っていくことを忘れた夫は、悪びれもなくビニール傘を買って帰ってくる。
帰りが遅くなる“理由”に心が移っている夫はもう、私を女として見ていないのだろう。それでも傘を持って夫を迎えに行こうとしたのは、こういうことで心を取り戻せるのではないかという期待をまだ捨て切れないからだ。
正面玄関を出ると、雨は叩きつけるように勢いを増していて、外は濡れたアスファルトの匂いがした。屋根の下で男が、その雨を呆然と眺めるように立ち尽くしている。
「すごい雨ですね」
振り返った男は思いのほか若く、おばさんが馴れ馴れしく声をかけてきたと思われてそうで恥ずかしくなった。ええ、と小さく返した彼は私をじっと見てから前へ向き直る。学生だろうか? 若いのにどこか若者らしくない、寡黙そうな男。大きな瞳は石のような冷たさを思わせた。
「傘、持ってないんですか?」
「ここに置いてたんですがね。なくなってました」
玄関横の傘立てを指さして青年が呆れたように言う。思わず「すみません」と謝ってしまった。図書館に責任があるわけではないけれど申し訳なくなる。代わりの傘をと考えたけれど、事務室に保管されていた忘れ物の傘は、先日処分してしまったばかりだ。
私は腕に二本の傘の重みを感じながら、しばらくは止みそうにない雨を眺めるふりをして逡巡した。さすがに一万円以上した傘を赤の他人にあげるなんてバカげている。でも、今夜恋人と過ごす夫の、もう私には見せない優しさや、女の身体に覆い被さる姿を想像すると、この傘をもったいぶる必要なんてどこにもない気がした。それなら目の前で困っている人にあげてしまっていいのではないか。私を怪訝そうに見る青年にそんな暗澹たることを考えていると悟られぬよう、笑みを作って一本を差し出した。
「これ使って下さい」
「いや、できませんよ」
青年は目を見開いて、でもすぐに後ずさった。
「返さなくていいんです」
「俺は借りパクなんかしたくないですけど」
それもそうかと思い笑うと、青年は少し表情を弛めて、むず痒そうに頬をかく。落ち着いた雰囲気から若者らしくない印象を受けたけれど、わりと童顔かもしれない。
「お住まいはお近くなんですか?」
「まあ」
「私、苗字と言います。ここの司書として児童書コーナーにいるんです。休館日と水曜以外なら十七時まではいるので、返すのはいつでも構いません」
「そういうことなら……」
渋々と受け取った青年に礼を言われると、私は自分の傘を開いて歩き出した。私がいては彼も使いづらい気がしたから。湿気をはらんだ生ぬるい空気が頬を撫でる。帰路を急かすような雨音を聞きながらも、胸がすくような心地がした。
角を曲がるところで振り返ると、青年はまだそこにいて私を見ているようだった。頭を下げてからまた歩き出した後、私は傘のことも青年のことも、よく晴れた翌朝、夫と顔を合わせるまで思い出さなかった。
青年に貸した傘は思いのほか早く返ってきた。翌々日、退勤した私が正面玄関を出ると、外のベンチに青年が座って私を待っていたのだ。
「先日はありがとうございました」
閉じた傘と一緒に有名な洋菓子店の小さな紙袋を渡した青年は、「こういうの、何がいいか分からなくて」と小さく付け足した。
「気を遣わなくてよかったのに」
半ば無理に渡したものにお礼を用意させてしまったことが申し訳なかった。こうやってすぐに返しに来るところを見る限り、真面目な子なのだと思う。
「口に合わなかったらすいません」
「ここのお菓子大好きなの。ありがとう。美味しくいただきます」
青年は頷きながらも、おもばゆさにどうしていいのか分からないようだった。若い男の子のそんな様子を微笑ましく思ってしまうのは、私が歳をとったからだろうか。
「名前聞いてもいい?」
「尾形です」
「尾形くんは、今日は図書館の中にはいなかったの?」
「さっきまで大学の講義だったので」
「やっぱり学生さんなんだ。じゃあ私の時間に合わせて急がせちゃったよね」
「いえ、どうせこれから近くでバイトなんです」
帰り道を途中まで二人で歩きながら尾形くんのことを尋ねると、ぽつぽつと話してくれた。近くにある大学の三年ということ。居酒屋のバイトをしているということ。講義からバイトまで時間がある日は、よりバイト先に近いあの図書館で勉強をして時間を潰していること。もう遠い昔に思える自分の大学時代も、そんなふうにして日々を過ごしていたことを思い出す。恋人や友達と刹那に生き、未来にも漠然とした希望を抱きながら。今の私は、あの頃は当たり前に持っていたものをたくさん失ってしまった。
「苗字さんは」
尾形くんが今度は私のことを尋ねようとしているのだと分かってどきりとした。将来の可能性に満ちた若い尾形くんにとって、私は知れば知るほどつまらない人間に映るだろう。歳を重ねても面白みのない人間は、若い子の興味を引くような話もできない。
「本が、好きなんですか?」
「え?」
「司書になる人って、そうなのかと思って」
私は「うん、好きだよ」とだけ答えた。前は本をろくに読まない夫にも、面白かった本について何十分も語った。どんなにすすめても、夫がそれを開くことはなかったけれど。
「おすすめあったら教えて下さい」
「尾形くんはよく本を読むの?」
「ミステリーならたまに」
じゃあ、と言って私は迷いながらも、一作だけミステリー小説のタイトルを口にする。「読んでみます」と答えた尾形くんに頷くと、横断歩道を渡りきったところで尾形くんの足が止まった。何か言いたげな、切羽詰まったような顔で間を置いた尾形くんを映す目の端で、点滅していた信号が変わって赤く光る。
「迷惑じゃなかったら、また話せますか?」
読んでみます、を社交辞令のようなものだと思った私は言葉が出てこなかった。何でこんな若い子が私に。意図をはかりかねていると嫌だと受け取ったのか、尾形くんは「すいません、忘れてください」と言って話を終わらせようとした。
「待って」
尾形くんの落胆した様子に鼓動が早くなっている。この子が私に何を期待しているのか。ふと頭によぎった考えを、傘を持った左手に視線を落として振り払う。同世代のきらきらした女の子が周りにたくさんいるのに、結婚しているずっと歳上の女にそんな感情を抱くわけない。じゃあなんで、私は尾形くんとこれきりになるのが惜しくなっているのだろう。
「今言った本、私持ってるから貸すよ」
尾形くんは驚いた顔をしてから、「ありがとうございます。じゃあ明日またあそこにいます」と早口に言って、頭を下げた。
バイト先に向かう尾形くんと別れた後、どきどきとした高揚感が胸の中に残り続けて、足取りを軽くした。私はもう、物語の中でさえ心が動かされるようなことがなくなっていたのに。
それからは週に一度、尾形くんと図書館の前で待ち合わせて本を貸して、次の週には尾形くんが本を返して感想を伝えてくれた。
自分の好きな物語を他人がどう受け止めたのかを聞くのは楽しい。「上手く言えませんが」と言いながらも丁寧な言葉で私にはなかった視点から話す尾形くんは、私よりよほど思慮深い。とはいえ尾形くんに無理をさせているような気もして、一週間で返そうとしなくてもいいと伝えると、「無理なんかしていませんよ」と少しふてくされたように言われてしまった。このやりとりがそのうち負担になった時、尾形くんからは申し出にくいだろう。そう心配しながらも次はどの本を貸すかを考え、尾形くんに会う日は退勤後足早に外のベンチへと向かう私は、鬱々としていた日々に陽が差し込んでいく。尾形くんの感想を思い出しながら本を捲った夜、そこから尾形くんの匂いが微かにして、そこに書いてあることから頭が離れてしまった時、私は「そんなわけないでしょ」と、誰にでもなく言い訳を心の中で呟いていた。
尾形くんのバイト先が臨時休業になった日、いつも本を貸してもらっているお礼に食事を奢りたいと言葉を詰まらせながら誘われて、私は迷いながらも、通りのチェーンの定食屋がいいと言って自分が払うつもりで入った。勘違いをしてはいけない。そう心に留めながらも久しぶりに人とご飯を食べる私は、尾形くんの大学やバイトの話を聞いて、たまにしれっと面白いことを言う尾形くんに笑い声をあげている。最初は堅苦しかったけれど冗談を言うようになった尾形くんが、私に気を許しているのだと思うと嬉しかった。三ヶ月も連絡先を交換しないまま交友が続いているなんて不思議だと思う。でも、会えるまでは言葉を交わせない不便さが、歳の離れた私たちの距離を縮めたのかもしれない。
食べ終えた後、尾形くんがセルフサービスのお茶を持ってきてくれた。一口飲んだところで、尾形くんが何か切り出そうとしているのを、私を見るその表情で感づく。
「どうしたの?」
「苗字さんは……結婚してるんですよね」
自分の顔がこわばったのが分かった。光ることをとっくに忘れた、形だけは人の妻でいる証に、気づいていないはずがないとは思っていた。でも、いざこの話題を振られると、誰に対してかも分からない後ろめたさが胸を浸している。
「してるよ」
「旦那さんと仲良いんですか?」
「それなりにね。尾形くんは彼女いないの? かっこいいのに」
夫の話を広げたくなくて尾形くんに聞き返すと、尾形くんは黙ったまま私から目を離さなかった。この聡い男の子に、本当は全部見透かされているのかもしれない。配偶者と上手くいっていないという愚痴をこぼしてその気にさせるずるい既婚者がいる。むしろ私は尾形くんに、自分が夫に飽きられた情けない女だということを知られたくなかった。
「いませんけど」
「いたらおばさんとご飯食べてないか」
言った後、こういう自虐って言われた方は返答に困るのに何やってるんだろうと恥ずかしくなる。でも、尾形くんは「何ですか、それ」と言ってむすっとした顔になった。
「俺は苗字さんのこと、おばさんって思ったこと一度もありませんよ」
お世辞に過ぎない言葉のはずなのに、いつになく真剣に言われてしまって、かえって私が返答に困ってしまった。これはそういう意味じゃない。顔が熱くなっていく自分に言い聞かせても、初めて会った時に石のような冷たさを思わせた瞳は、熱をもって私を見つめている。お互い黙ってしまうと店内の賑やかな音が響いて、尾形くんが何か小さく言いかけた言葉も、斜向いの席のカップルの笑い声に呑み込まれてしまった。
*
予報にはなかった雨が静かに降り始めて、図書館の中に雨音が広がっていく。傘を持たずに家を出た私はあてにならない雨雲レーダーを恨めしく思いながら、近くのカフェにでも入って雨足が止むの待とうと思った。でも正面玄関へ行くと、あの時と同じように尾形くんが立っていて、違うのは、その手にビニール傘を持っていることだった。
「今日バイトは?」
「ありません。すいません、借りてる本は今日持ってきてないんです」
「いいよ別に。勉強に来てたの?」
「いえ、……今行けば苗字さんと会えると思って」
そう言葉にして俯かれると、食事以来ずっと尾形くんとの接し方に悩んでいる私は苦しく感じた。
「傘持っていないんでしたら、駅まで送っていきます」
悪いと断っても、「この前も結局苗字さんに奢らせてしまったので、これくらいさせて下さい」と言われたら、開いた傘の中に入るしかなかった。今までになく距離が近くなる。傘を持つその節くれだった手は、尾形くんが男の子ではなく男の人なんだと、私に改めて意識させる。
雨音が重い。歩く間、傘を私の方に傾けて濡らさないようにしてくれる尾形くんと、私はほとんど会話を交わさなかった。あの日以来、尾形くんは分かれ道で挨拶した後も足を止めたまま、私が駅へ向かう後ろ姿をじっと見ている。そんな尾形くんに向けられた感情を、私は大人として受け入れてるわけにはいかなかった。自分の寂しさを埋めるために尾形くんを利用してはいけない。とっくに分かっていることなのに。
「ここでいいよ。あと駅まで少しだから走ってく」
いつもの別れ道まで来たところで、私は尾形くんにお礼を言った。本返すのいつでもいいからね、と付け足して、図書館を出た時より雨足の強くなった傘の外から出る。すぐに頬に雨が触れた。でも、私がそれ以上濡れることがなかったのは、尾形くんに腕を掴まれて傘の中に引き戻されたからだ。
手にこめられた力は、振りほどこうと思えば振りほどける曖昧な力だった。私に選択を委ねているのだと思ったけれど、表情は親に置いていかれてしまう子供のようだった。沈黙の中で傘を打つ雨音が響く。こんなふうに私に必死になってくれる男の前では、常識や正論なんてなんの歯止めにもならない。この人を失いたくないという、痛いほど私の中で走っている感情だけが全てだった。
私は尾形くんと来た道を引き返して、彼の住むアパートに行った。部屋に入ると片付いた部屋のテーブルの上に私が貸した本が置いてあって、隅にはシングルのベッドがある。怖気付く私を逃がさないように、この瞬間を待ちきれなかったかのように、尾形くんは私を抱き寄せて余裕なく唇を塞いだ。舌を優しく吸われて口の中をなめられると頭がくらくらする。足元にも力が入らなくなった私は呆気なくベッドに押し倒されていた。尾形くんに貸した本からした匂いがとても近くにある。
「一度だけのつもりで来たんじゃないですよね?」
「……ううん、違うよ」
私の上に覆い被さった尾形くんが頬に触れてまたキスをする。若い男を手玉に取れるような女とは程遠いのに、こんなに尾形くんに執着されている自分には、なにか特別な価値があるような気がしてしまう。深い口づけをしながら尾形くんが私の服をたくし上げる。アパートへ来る間、私をホテルではなく部屋に躊躇いなく連れてきた尾形くんは、今までにもこういう経験があるのかもしれないと思った。でも、下着を外すその手つきは不慣れで、そんな拙さにさえ私は高揚してしまう。
「そんなに見ないで」
「綺麗だから」
若さを失っているだろう身体にがっかりされるのではと恐れていたのに、尾形くんはため息をつくようにそう言った。あらわになった胸が両手に包まれて形を変える。息を荒くしながら揉みしだく尾形くんがその先端を口に含むと、快感が走って声を漏らした。尾形くんが夢中になって胸を吸っている。分別のある歳上らしく尾形くんの前で振る舞ってきたのに、今の私は彼の下で分別を忘れて乱れていた。
胸を包んでいた手のひらが肌を滑って、その心地良さに涙が滲んだ。冷たい陶器が触れられて温度を持つように、もう二度と男の人に抱かれることはないと思っていた身体は、尾形くんの丁寧な愛撫に柔らかくしなった。女として求められる悦びに理性を明け渡した私は、スカートと下着を脱がせた尾形くんが両膝を開いてもされるがままでいた。
太ももが撫でられて、濡れそぼったそこに尾形くんの息がかかる。僅かな刺激にさえ声を漏らした私を可愛いがるように、熱い舌がそこを舐めて蜜を掬った。あまりの快感に腰を浮かせてもベッドへと押さえつけられてしまう。はしたない喘ぎ声の向こうで雨が振り続けている。快感に溺れているうちに大きな波が来て、舌のざらつきが陰核を刺激するとつま先を立てて達してしまった。夫とする時にイッたことなんてほとんどなかったな、とぼんやりと思い出す。
服を脱いだ尾形くんの体躯にやっぱり若さを感じていると、ベッドの下からコンドームの箱を取りだした。驚いている私に尾形くんはバツが悪いように「飯に誘った日、一応買っておいたんです」と言って、開き直って私に跨る。
「なのに苗字さん、ずっと俺のこと躱すから傷つきましたよ」
「真面目な顔してこんなこと考えてたの」
揶揄うと尾形くんが覆いかぶさって私を抱きしめる。初めて触れ合った肌の温度は、これから始まる行為をただ身体だけで繋がる時間ではないものに導いていた。
「そうですよ。会った時からずっと、こうしたいって思ってた」
キスをした尾形くんの滾る熱を受け入れる。尾形くんを締め付けて離さないように中が収縮してしまう。苦しそうな尾形くんに一番奥まで押し開かれると、それだけで中が痙攣して達した。セックスがこんなに気持ちいいと思ったことは初めてだった。指を絡めて手を繋いだ尾形くんが腰を前後し始める。自分たちの歳の差も夫のことも忘れて尾形くんに抱かれているうちに、気持ちが昂って「好き」と口にしていた。憤ったような顔をした尾形くんが思い切り奥を貫いて、自分とは思えない喘ぎ声を漏らす。限界の近くなった尾形くんが「名前さん」と熱に浮かされたように私を呼ぶ。私、いつ尾形くんに下の名前を教えたんだっけ。頭に浮かんだ疑問も絶頂の波にさらわれて、蕩けた意識の中、肩を震わせた尾形くんの熱を受け止めた。
*
夫が不倫相手と別れたことを知ったのは、尾形くんと恋をして半年が経った冬の初めだった。夫の帰りが妙に早くなってから間もなく、華奢な筆跡で書かれた私宛の白い封筒が届いたからだ。そこには夫が、妻と別れて君と子供を作りたいと自分にいつも話していたということが感情的に書き連ねられていて、夫も復讐を宣告されていたのか、私の様子を伺っているようだった。何事もなかったかように接する私に夫は安心したのだろう。仕事が落ち着いたからこれからは早く帰れるという辻褄合わせの流れで、先日から大学生がインターンに来ていて、最初は陰気臭く見えたのに仕事ができる自分を慕ってくると得意げに話していた。その週末、機嫌取りなのかフレンチの店に連れていかれたけれど、前の週に尾形くんと食べたファミレスのデリバリーの方がずっと美味しかった。
一度だけ尾形くんに、夫から何も怪しまれていないのか、行為が終わったベッドの中で尋ねられたことがある。私たちの関係は尾形くんのアパートの一室で完結していて、尾形くんに貸した本は私の家に戻ることなく、彼のテーブルの上で積み上がっていた。堂々とデートができない不自由さを強いている私は、夫の影を気にしないわけにはいかない尾形くんにずっと後ろめたさがあったから、尾形くんを安心させるつもりで夫との結婚生活について話した。それなのに、最後まで黙って聞いていた尾形くんに抱きしめられて「俺がもう、名前さんを一人にしないから」と言われたら、年甲斐もなく男の胸の中で泣いてしまったのだ。
そうして尾形くんにのめり込んでいく私にとっては、夫が今更ベッドの中で触れてくるのは苦痛で仕方なかった。最初はさり気なくベッドを抜けたり読書で夜更かししてやり過ごたけれど、断り続けていると疑念を抱くのではと思うと応じないわけにはいかず、心のなかで尾形くんに謝りながら夫とセックスした。前は泣くほど悩んで求めていたものは、尾形くんとの恍惚とした時間を覚えてしまった私には、早く終わらないかなという感情しか湧かなかった。夫が私の中に出した後、水を飲んでくると行ってキッチンへ行き、戸棚の上から錠剤のシートを取り出して一錠口に入れる。婦人科で処方してもらった低用量ピルだった。
翌日の日曜日、友人たちと集まると嘘をついた私は、昼前に尾形くんのアパートへ向かっていた。夫が早く帰ってくるようになったことに尾形くんが就職活動に向けて忙しくなったことが重なって、会えるのは二週間ぶりだ。途中のスーパーで食材を買い込んだのは、昨日夫と寝たことへの罪滅ぼしのような意味合いもあったかもしれない。そんなこと、尾形くんが知りようもないのに。
アパートへ着くと、尾形くんは私を招き入れた後すぐに背中を向けてリビングへと向かった。そこにいつになく素っ気なさを覚えてしまう。
「疲れてる?」
「そんなことありませんよ」
薄暗い部屋の中で、ローテーブルに積み上がる本がまた増えている。その前に座る尾形くんは、私が高校生の頃に読んだことがある、自分で手に入れたのだろう本を開いていた。精巧なトリックが仕掛けられたミステリーが好みな尾形くんに、私が貸せる本はもう尽きかけていてる。
「料理作ろうと思って買ってきたの。色々作りたくて買い過ぎちゃったから作り置きしとくね」
いつもはキッチンに立てば後ろから抱きつく尾形くんは、何も言わずリビングから動かない。そこでようやく尾形くんが怒っているのだと気づいて、機嫌を取るように彼の隣へと座って肩を寄せた。
「なかなか来れなくてごめんね。本当は一昨日も来たかったの」
「いえ、俺も忙しかったので」
これを伝えれば喜ぶだろうと思って、尾形くんの顔をのぞき込んで続ける。
「来週、夫の一泊の出張があるの。だからその日は帰らないで一緒にいれるよ。せっかくだからどこかいいホテルでも取って」
「名前さんは、いつまでそうしてるつもりなんですか?」
抑揚のない声でそう言った尾形くんがやっと顔をあげる。その瞬間、心臓がうるさく音を立てて警鐘を鳴らした。しんとした部屋で、外のひえびえとした雨の音が不気味に響いている。
「そうしている」というのは、今尾形くんの機嫌を取ろうとしている私のこと? いや違う。気づいた瞬間に、尾形くんに唇を塞がれた。ねっとりした舌が口の中を撫でて身体をわななかせると、後ろのベッドに押し込まれた。いつもこうして始まる甘美な時間。でも、自分に跨った尾形くんに初めておそろしくなっている。
軽蔑した、穢らわしいものを見るような尾形くんの目。昨夜のことがバレたのだと悟った。ありえないのに、自分を裏切っている女への憎しみをこめた目はそう語っている。
「まさか、頃合いを見て俺を捨てるつもりじゃないですよね?」
「そんなわけないじゃない」
尾形くんの怒りを宥めるように柔らかく否定する。でも、心臓はうるさく音を立てていた。離婚するつもりのなさそうな私に不信感を抱いているのだろう。夫と別れても構わないと思っている。でも、尾形くんにのめりこみながらもそれを選ぶことはできない私は、不倫相手を捨てた夫と何が違う?
「俺がもう名前さんを一人にしない」という言葉を思い出す。逃がさないという意味を持って、重く私にのしかかってくる。
「嫌なこと言ってすいません。俺だって分かってるんです。名前さんが今は上手くやらなきゃいけないこと」
仄暗く微笑む尾形くんに、自分の危うさを隠そうとしない彼に、私は何も言えなかった。
「でも、俺はちゃんと準備してますから。名前さんとの将来のこと」
そう言って首筋に舌を這わせた尾形くんは、執拗に私の身体に快感を植つけていく。まるでこの身体にまだ残っている感触を塗り替えるように。時折、私の反応を冷たい目で見下ろして。
尾形くんにいつもより激しく中を穿たれる間、ローテーブルに置かれた読みかけの本が視界の隅に入った。主人公の夫を殺した犯人が誰かを知っている私は、神妙な面持ちをした喪服姿の自分を思い浮かべてしまった。