空回りバレンタイン
月に一度の土曜出勤の朝だった。俺が入社した年は二月十四日とその一ヶ月後に女社員と男社員でそれぞれ集金して菓子を受け渡す慣習があったが、時代の流れに沿ってかいつの間にかなくなっていた。個人的なやり取りは禁止されていない。それがかえって煩わしいものの、「甘いものは苦手だから」と尤もな理由をつけて断ってきている。俺にとってはどうでもいいイベントのはずだ。それなのに、どうして俺は不意に殴られたような衝撃を受けている。会社に着いたところで鉢合わせたこいつに。
「わっ、尾形!」
こいつが手に持っている紙袋は、明らかに贈り物としてこの日のために用意したものだった。一人でエレベーターを待っていたところで俺に気づいたこいつは、慌てて後ろ手にそれを隠す。誰にやるつもりかは知らないが、俺でないことだけは確かだ。そもそも、俺が甘いものが好みでないことは、同期のこいつはとっくの前に知っている。
俺に見られて恥じらうような素振りと、昨日よりもめかし込んだ姿に無性に苛立つ理由。前から、誰にも覚えたことのない感情が芽生えているのは薄々自覚していた。だが、これ見よがしに俺と対等でいようとするこいつにどう俺を意識させればいいのか分からずここまで来た。渡させたくない。そんな焦りや嫉妬を、素直に行動に移せる奴ならこうなっていないだろう。
「そんなもの用意したところで誰もお前のなんかいらねえよ」
仕事の延長で口論を繰り返してきたこいつには、憎まれ口を叩く方がよほど簡単だった。だが、口が悪いことを省みたことのない自分が初めて、彼女への言葉をすぐに後悔した。いつもの調子で言い返してくると思ったこいつが、心を刺されたように顔を歪めたからだ。
今年もこの日はどことなく浮き立った空気がオフィスに漂っていた。自分の精神が地底にめり込むほど落ちている今は、それを鬱陶しいと感じる余裕もない。島型に配置された席で俺の斜向かいのデスクに座るこいつは、表情が抜け落ちたまま俺などまるで視界に入っていないようにキーボードを叩いている。こいつにも、今日を機に近づきたい男がいる。それだけで具合が悪くなってくるのに、さっき彼女を傷つけた瞬間が頭から離れず吐き気のようなものが込み上げてくる。たとえこいつがその男にフラれようと、今後俺にチャンスが巡ってくることは決してないだろう。
そもそも、彼女に好意を寄せた相手がいることなど全く気づかなかった。他人のそういった感情に鈍いわけではないはずだ。だが、去年男と別れてから「しばらくそういうのはいい」と宣っていたこいつが誰かに視線を留めているようなところを見たことがない。だからか、職場で彼女と一番近い存在の自覚がある俺は、関係を変える度胸もないくせにうっすらと自惚れていたんだ。こいつが次に男を選ぶなら俺だろうと。
「月島係長、できた資料送ったのでお願いします」
ようやく彼女が口を開いたのは、俺たちの席の島の上座に座る係長に対してだった。確認しながら短い言葉で褒める月島に、無表情だった彼女が口角を緩く上げる。まさか月島なのか? たしかに、尊敬しているみたいなことは前に言っていた。だが付き合った女も九時には帰しそうなこの堅物に俺は負けたのかよ。そう疑ってしまうと二人が会話を広げていくのを聞いていられず、「──」と割って入るようにこいつを呼んだ。
「それ来週の会議資料だろ? 俺も見るとこあるから送れよ」
今まで仕事の中で言い争っても次に持ち込まなかった彼女は、俺の呼びかけがまるで聞こえていないように反応しなかった。そんな怒るほど渡したいかよ。髪型まで変えてきやがって。月島は鈍いからお前が多少色気づいたところで気づかねえぞ。
「おい、無視してんじゃねえよ」
「何、なんかおかしいと思ったら喧嘩してんのお前ら」
隣に座る宇佐美がニヤつきながら俺たちの顔を見合わせる。こいつには俺の感情がバレているから、余計なことを口走らないよう目で圧をかける。
「――、いつもより可愛いじゃん。今日誰かに渡すんでしょ」
それを無視して、俺が気づいても決して口にできない台詞を易々と吐く宇佐美を思わず横から蹴り飛ばしそうになった。だが、「別に?」という彼女の低いテンションの受け流しに意識を引かれる。宇佐美ということは……いや、ないな。同期として宇佐美とも長い付き合いのこいつは、宇佐美を今日呼び止める表面的なところしか知らない女たちとは違う。そこまで趣味は悪くないだろう。
島での会話が途切れてからも、彼女がどこかに視線を向けるたび俺もそこへと目を走らせた。今日のこいつなら相手の動向を気にしているから分かりやすいだろうと踏んで。だが、俺の勘違いだったかと疑わしくなってくるほどいつもと変わらず、給湯室へ行ったりコピーを取りに席を立つ彼女に俺だけが落ち着かずいる。仕事中に色恋で気がそぞろになるなんて馬鹿げていると分かっているのに、目の前の業務はいつもより進まない。そうこうしているうちに昼休憩の時間に入った。
「尾形、よかったら飯一緒にどうだ」
離れた席から俺のところへ来たのは菊田課長だ。新入社員時代から世話になっていることもあり、たまに飲みにも誘われる。彼女はというと、他の社員が次々と席を立つ中でまだキーボードを打つ手を止めない。その姿がこれから渡す相手のところへ向かう頃合いを見計らっているような気がして、俺はまた心がざわついた。普通に考えたら、彼女はこの時間に渡しに行くのではないか。
「菊田課長」
「ん?」
「こいつも一緒でいいですか」
「はぁ!?」
突然自分に振られた彼女が目を剥いて俺を見上げた。
「そりゃいいが、どうした?」
「前に菊田課長と入った中華屋、今度連れてけって言われてたんで」
「言ってないと思うけど!?」
「あー、あそこ美味かったよな。──も来たかったら奢るぞ」
こいつも世話になってきた菊田課長からの誘いは断りづらいらしく、渋々ついてきた。さっきまで俺に一目もくれなかったくせに、今は横から忌々しげに見てくる。
「何だよ」
「こっちの台詞なんだけど」
邪魔されたと苛立っているのだろう。ざまあみろ。店についても険悪な俺たちの空気を察した菊田課長が、注文をしてから「そういえば今日バレンタインだよな」と話題を出そうとして墓穴を掘った。今は特に触れられたくないだろう彼女が「そうですね」と会話を広げる気のない相槌を打つ。「あれ、こういうのも今セクハラになるのか?」とコンプライアンスに怯えて顔色を変えた中間管理職に、巻き込んで申し訳ないとは思っている。
*
あんかけ焼きそばを頼んだ彼女は味が本当に美味いことには満足したようで、店を出るときは顔が綻んでいた。新入社員の頃から食い物で機嫌が直る単純なやつだ。会計を払ってくれた菊田課長に礼を言い、二人の後ろを歩いていく。このまま会社に戻ってもまだ幾分時間はある。俺がいない隙を見て渡すつもりだと思ったが、菊田課長と話している彼女は時間を気にする素振りはない。相手はこの時間にいつも決まった場所にいるから探す手間がないということだろうか。例えば喫煙所とか。ここから先の彼女の行動をどう阻むか考えていると、彼女が「あの、菊田課長……」と小声で呼ぶのを耳に拾った。今まで談笑していた時とは違う、わずかに緊張感を滲ませた空気が、こいつが何を切り出そうとしているのか俺に悟らせる。嘘だろ?
「今日実は、」
「菊田課長、――が漫画買うのにコンビニ寄りたいらしくて、俺も用あるんで先戻っててください」
間一髪で横入りした俺に、振り返った彼女が今度は最初から怒りを湛えた視線を向ける。それを鼻で笑う余裕もないほど、彼女の好きな相手が俺には想定外だった。菊田課長は「お前らほんと仲良いな」と訝しむことなく、コンビニの前で足を止めた俺たちと別れた。とりあえず中へ入ろうとしたら、後ろから彼女が俺の背中を思い切り叩いた。
「あんた、何なのさっきから!」
「さすがに歳離れすぎだろ」
「何が!?」
「菊田課長に渡すつもりだったろ、あれ」
彼女は言い当てられたことに一瞬表情を硬くしたが、すぐに「そうだけど?」と答えて俺から視線を逸さなかった。その開き直った態度に、俺に止める筋合いなどないことを今さら気づく。歳が十以上も離れているから菊田課長はない≠ニ思い込んでいたのは俺で、とうに成人を過ぎた彼女が独身の上司を好きになることは何ら問題ない。焦るまま彼女の言葉を遮っただけの俺は、苦し紛れに「付き合ってる奴、いるって聞いたぞ」と再びでまかせを口にした。彼女が呆れたようなため息を落とす。
「好きだから渡そうとしたわけじゃないよ」
店の中から、OLらしき客がぞろぞろと出てくる。俺たちはドアから離れて窓沿いに横に並んだ。最後に出てきた女が店内で買ったのだろうゴディバの紙袋を提げているのを、彼女がぼんやりと見つめている。
「本当は渡す人がいたけど、やめたから。持って帰るならお世話になってる上司にあげようと思っただけ」
「……何でそいつには渡さない」
「どうせ上手くいかないもん」
寂しげに弱々しく笑った横顔に、俺は今朝彼女に放った言葉を思い出した。あの時までは不安や緊張の中で立っていたこいつの意志を、俺が挫いたのだろう。何もできずにいたのは自分の不甲斐なさに他ならないのに、今もみっともなくこいつの足を引っ張っている。
「まあでも付き合ってる人いるならやめとこう。ただの部下でもいい気しないだろうし」
「今朝言ったこと気にしてるなら、嘘だ」
彼女が目を見開いて俺を向く。背中を押すような真似なんかしたくない。こっちはこいつに前の男がいる時から拗らせてるんだ。だが、彼女から自信を奪って諦めさせるのは違う。こいつを否定してしまった俺は、傷つけたままにはしたくない。その矛盾した感情が、彼女をどこにも行かせたくない本心に背いた台詞を言わせる。
「お前なら……上手くいくと、思ってる」
口にしただけで、鉛を飲み込んだように胸が重く沈み込んだ。彼女は言い終えた俺から目を離さなかったが、途端に唖然とした表情を緩ませてふっと小さく笑った。
「尾形ってほんと、」
「何だよ」
「別に。時間ギリギリじゃん、戻ろうか」
彼女が笑みを作って再び会社へと歩き出す。隣に並ぶと、いつもと同じ様子で午後の業務について話した。その様子が、挑戦か諦めかを今決めてふっきれたように見えて、後押ししてしまった俺は結局相手が誰なのか聞けなかった。
午後の就業時間中も、彼女が誰かに渡しに行く様子はなかった。俺は斜向かいへと神経を向けながら巻きで業務を片付けていたが、こういう日に限ってイレギュラーが起こるのはなぜか。今しがた本部の稟議が通ったプロジェクトについて、担当取引先へ本日中に発送しなければならない書類を作成していた。そこに別の担当取引先からの「過去十年の取引のデータを至急送ってほしい」という急な依頼が来て、ひとまずエクセルのファイルを開いたところ直近三年分のデータしかなかった。残りは書庫にある伝票からデータを起こさなければならない。二つの仕事に迫られた状況に舌打ちすると、斜向かいに座る彼女が立ち上がった。
「データは私入れる。何年分ないの?」
ずっと黙って自分の業務を進めていたはずのこいつが、俺の状況を把握して助け舟を出してきたのだ。一度は無視したが、「書庫から取ってくるから早くしてくれない?」と急かされたら答えるしかなかった。俺が書類作成を進めていく最中、彼女は伝票をめくりながら黙々とデータを打ち込んでいく。会話は交わさないが、彼女のキーボードを打つ音に信頼を預けていた。書類をまとめ郵便局に持ち込んだ後、会社に帰ってくると全てのデータが埋められたファイルが彼女から届いていた。それを取引先にメール送信して電話で確認した後も、彼女が席に戻ってこない。
「――はどこ行った?」
「百之助が戻ってくる前に帰ったよ?」
「は!?」
宇佐美が吹き出したがどうでもよかった。彼女がそんな逃げるように早く帰った理由に、仕事に追われているうちに忘れていた紙袋のことが頭に過ぎったからだ。なぜ、会社の人間だと決めつけていたのだろう。就業時間後に待ち合わせている、どこぞで知り合った男ということもありえるのに。今からそいつのところに向かっているとしても、応援するような真似をしまった俺に止めるすべはない。定時で他の社員も次々とパソコンをシャットダウンして業務の片付けに入る中、俺だけが脱力感で呆然としている。
週明け、彼女に一声かけたら恩着せがましいふりをしてから笑うのだろう。俺がこれ以上バツが悪くならないように。入社した頃から、思ったことを素直に言葉にできない捻くれた俺をあいつは理解してくれていた。何も言わなくても、今日のように俺が窮地に陥っている時は手を差し伸べる。だからずっと甘えて、はっきり言葉にすることから逃げてきたんだ。こいつが俺の気持ちを察して、意識して、勝算が見えてからでいいと。
机上を片付けないまま、椅子から立ち上がってコートも着ずにオフィスから走り出る。やけくそだと言われればそうかもしれない。だが、今日これだけのことがあってなお彼女に伝えられないのなら、俺は二度と彼女に近づけないだろう。逃げずに言葉にするのは今日しかなかった。
だいぶ日の伸びた夕刻の空の下で、駅へ向かって一人で歩く彼女はすぐに見つかった。手には今朝の紙袋を持っている。俺の追いかける足音で、彼女が振り向いて足を止める。
「尾形、何やってんの!?」
「行くな」
「い、行くな?」
「渡さないでほしい、誰にも。俺が食うから……頼む」
「ちょ、何言ってんの?」
戸惑っている彼女は、引き止められたことに迷惑そうなわけではなかった。やっぱり諦めたのではとよぎったが関係ない。二度と他の男と上手くいかれてたまるか。
「お前を、取られたくない」
意を決して言葉にしたはずなのに、自分の声は随分情けなく聞こえた。今までの俺では決して言わないだろう言葉に息を呑んだ彼女は、思い詰めた表情で黙っている。やっぱり駄目かと思ったが、真っ直ぐに俺に向き直ると紙袋を差し出した。
「中、見てみたら?」
自分が渡されるとは思っていなかった俺は、ぎこちない手つきでそれを受け取った。黒い無地の紙袋からクラフト素材の箱を出す。箔押しされたロゴは、Golden coffee。
「珈琲なのか?」
「甘いものが嫌いな誰かさん宛てのね」
「…………お前、早く言えよ!」
バレンタインという時点で自分である可能性をまず除外していた俺は、一日振り回された気になって珍しく大きな声が出た。そんな俺をまるで出し抜いたように、「バカだなぁ」と彼女が笑う。
「ずっと自分にやきもち妬いてたってこと?」
「お前が後ろに隠すからだろ」
「だって、ちゃんと渡したかったんだもん」
俺を映す瞳が、光を帯びて揺れる。そこから今日彼女が自分から伝えるつもりだった言葉を受け止めた俺は、職場の近くであることなど忘れて彼女の肩を抱き寄せた。今、溢れんばかりに胸に満ちている感情が、言うなれば「甘い」のだろう。