らしくない夜だった
休憩室の窓から見えるのは、先程まで整備を行っていた機体だった。細部にわたる点検と修理の末に新品同様まで回復したボーイング767-300は、数日のうちに寸分の狂いもなく空へ発つだろう。それが格納庫の中でもことさら美しく見えるのは、己の仕事への自負もあった。大規模なメンテナンスが完了した時は爽快な気分になるものだ。だが、手元のスマホに視線を戻した俺は、返信の来ないLINE画面を見てため息を吐き出している。すぐ近くに座る宇佐美が覗きこんできたからサイドボタンを押して暗転させた。
「何、フラれたの?」
軽口のつもりだったのだろう宇佐美は、黙ったままの俺を見て「え、マジで?」と真顔になる。なぜ付き合う前、宇佐美に彼女のことを話してしまったのだろう。あの時はクリスマスに贈るものが決まらなくて、俺よりも女の喜ぶものに詳しそうなこいつに聞くのが確かだと思ってしまったんだ。それぐらい、外したくなかった。
ごめんなさい もう会えません
昨日会っていた彼女とのLINE画面には、俺への拒絶と取れるメッセージが送られてきていた。どういうことか確かめようとする俺の返信の連投は無視されたままで、いきなり突き放された現実を何かの間違いではないかと受け入れられずにいる。
「あんな時間かけてようやく付き合ったのに、何やったの」
宇佐美を無視したままもう一度、窓の外の整備機体を遠く眺める。巨体に反した繊細な作り。それを扱うための徹底した慎重さが求められるこの仕事が、俺は嫌いじゃない。この仕事と同じだ。彼女との関係も、一つの過ちが全てを台無しにすると分かっていたから慎重に縮めてきたのだ。
日勤後に初めて立ち寄った近所の弁当屋で、彼女と知り合った。長丁場の点検を終えたばかりで疲れていて、それ以上に腹も減っていた。カウンターでメニュー表をぼんやり見ていたら、から揚げ弁当を薦めてきたのが店員の彼女だった。家に帰って弁当を食べる間、その味に満足しながら、弁当を渡される時の彼女の笑った顔を思い出した。
あれから一年経っている。あの弁当屋に行くようになってからも勘違いした客になるつもりはなかった。だが、警戒されないよう世間話の話題に気を遣って、あまり頻繁には行かないようにして、そのくせ混雑する時間帯を避ける俺は、細心の注意を払っている時点で充分勘違いした客だったのだろう。地方に出張に行った土産を渡した時、彼女の方から俺と二人で会いたいと言ってくれた。手応えを感じながらも、そこで早まらず友人ぐらいの距離を保ち、クリスマスと俺の誕生日を二人で過ごしてから、初めて彼女と手を繋いだ。満を持して恋人になってからも、このまま手堅く関係を深めるつもりだったんだ。じゃあなぜ、こんな事態になっているのか。
付き合って初めてのデートはバレンタイン当日だった。昼過ぎから水族館に行き、ゆっくり回った後に彼女が行きたいと言っていた喫茶店に入った。水族館で撮った写真を見返した後、これからはお互い名前で呼ぼうと彼女が言うから初めて彼女の名前を口にした。イルミネーションが光る街中を歩く間、俺と手を繋いで笑っている彼女をあまり直視できなかった。予約していたレストランで夕食を食べ終え外に出ると、彼女がトートバッグから小さな紙袋を取り出して俺に渡した。
「今渡してもいい? フォンダンショコラ、作ったの」
まさか手作りが貰えると思っていなかった俺は、まごつきながら礼を言ってそれを受け取る。冷え冷えとした風が吹くが、それすら心地良さを覚えるほど頬が熱かった。駅まで向かいながら、今夜も彼女の住むアパートまで送っていこうとしていた。だが、改札が見える駅の入口まで来たところで彼女が足を止めたから、手を繋いでいた俺の腕はくんと引かれた。
「どうした?」と聞いても黙っている、恥じらうような表情で俺を見ている彼女。恋人になったのだから、別れ際ならもっと気の利いたことを言ってほしいと思っているのか。それとも、手を繋ぐ以外の恋人らしいことを求めているのか。逡巡して、彼女に向き直った俺は頭を撫でようと手を伸ばした。すると俺が触れる隙もなく、彼女の方から俺の胸に飛び込んできたのだ。
いつもの彼女とは結びつかない行動に、俺は全身を硬直させた。俺を離さないよう腕を回す彼女に「ど、どうしたんだよ」と言葉につっかえて、ぎこちない動きで肩に触れる。行き交う奴らはちらりとこっちに視線を向けるが、すぐに目を逸らして歩いていく。いつも彼女の近くにいると仄かに香ってくる花のような匂いが、理性を狂わせるようにぶわりと襲ってきた。コート越しに伝わってくる彼女の熱。強引さとは裏腹な柔らかい感触がする。ダメだ。まだ俺に、そんなつもりは……。
「帰りたくないって言ったらワガママ?」
熱を灯らせた目で見上げられたら、俺に抗うことなどできなかった。着実に彼女との距離を縮める中で、先走ろうとする欲を何とか押さえ込んできたのだから。
二ヶ月は待つはずだった。場所だって準備を整えて俺の部屋に招くつもりでいた。だが、一度彼女の身体に触れてしまったら、忍耐強いと思っていた俺の意志なんてひとたまりもなかった。この女の全部をものにしたい。情動に突き動かされて彼女の手を引き近くのホテルに入った俺は、何度も浸った想像のように夢中で彼女を抱いた。そして夜明け前、目を覚ましたら広いベッドに俺一人だけが寝ていた。俺を起こさず先に帰った彼女に嫌な予感がして、スマホを開いたらこのメッセージが届いていたのだ。
付き合って早々にホテルに行ってしまったという一つしか、やらかした心当たりはない。だが、あの流れはお前が先に望んだことだろと、彼女の身勝手さに腹が立った。そのたびに、俺の下で乱れる想像より艶かしかった彼女の姿が頭の中で再生される。嫌がる素振りがあったとは到底思えない表情や声は脳裏から離れず、わけが分からない俺は叫び声をあげたくなっていた。
「それって、単純に百之助が下手だったから幻滅したんじゃないの」
「あれがお前の最後の整備機体ってことでいいんだな」
彼女の感情の変化を知る手がかりが欲しくて、宇佐美に大まかな話をしたことをまた後悔する。売られた喧嘩を買おうとしたが、今はこいつとやり合う気力もなかった。
「まあでも意外だな。その子、百之助から聞いてると駆け引きするような感じの子でもないしね」
そんなこと、地道に彼女との距離を縮めてきた俺がよく知っている。いつも食事の会計をした後で半額を俺に渡そうとしたり、帰れば礼のLINEがすぐに来たり、女と親しくなることに慣れていない俺にずっと真摯に向き合っていた。男を惑わせて楽しむような女ではない。
「帰りに弁当屋に行ってみなよ」
「定休日……」
明日以降も、店に来た俺に彼女が表情を強ばらせるのを想像するだけで足が向かない。彼女の真意を確かめないことには納得できないのに、それをはっきりさせたら本当に彼女との関係が終わることに怖気づいている。
昼休憩の終わりに差し掛かって、宇佐美とともに事務所を後にする。まもなく六年の運行を経た機体が格納庫に入ってくる。機体なら構造を理解しながら修復できる俺も、彼女との関係を修復するすべはまるで分からなかった。
職場へ向かう前に一度戻ったマンションの部屋には、帰ってからも小さな紙袋がテーブルに置いたままあった。フォンダンショコラと言っていた、カップ状のチョコレートケーキが包装されて入っている。彼女から渡された時には胸を詰まらせたが、今はとても食べる気にはなれなかった。
弁当屋で調理も担っている彼女は、最初にすすめたから揚げ弁当をその後も俺が一番頼むようになって嬉しかったと話していた。仕込みから揚げるまで彼女が任されているようだ。この前は喫茶店で、春になったら自分が家で弁当を作ってくるから、桜が綺麗な公園にピクニックに行こうと言っていた。俺とのこれからを楽しみにしている言葉に、彼女と付き合えたこと以上に報われた気になったんだ。
やり切れない思いのままに捨てることは、さすがにできない。このまま常温で置いておくわけにもいかず、ひとまず冷蔵庫に入れようと紙袋から取り出す。すると、菓子が抜けた空の紙袋の底に、何か小さな二つ折りの紙が残されているのが見えた。
メッセージを添えられたものだろうか。それにしてはリング状のメモ帳から一枚切り外された適当なものだ。手に取って、折られた面を開く。そこに書いてあったものに思わず「は?」と間抜けな声を漏らした。
2/14
・水族館でツーショットを撮る
・敬語を使わないよう気をつける
・お互い下の名前で呼ぶように決める
・連絡の頻度はどれくらいがいいか聞く
・今後のデート先を自分から約束する(尾形くんにばかり決めさせないように!)
罫線に沿って彼女の丸い字で書かれたそれは、どうやら昨日のデートでの彼女の目標というか、やるべきことリストのようだった。思い返すとどれも彼女からの申し出によって達成されている。俺と同じように、彼女もまた俺たちの親密さを着実に深めようとしていたのか。
しかもこのメモ、俺に連絡先を渡してきた時と同じものだ。仕事中に書いてたのか? 職場で何やってんだよ。頬が緩んで今の状況を忘れそうになる俺は、彼女と二人で会い始めた頃の事を思い出す。
その頃、夫婦で経営している彼女の弁当屋のかみさんが入院して、その仕事のほとんどを彼女が任されていた。だが、やることが増えて抜けや遅れが多くなり、協力的な他の店員にも上手く割り振れず悩んでいると俺にぼやいた。客の俺に愚痴を聞かせてしまったことを謝る彼女に、ようやく店の外で会えるようになった俺は気まずくさせたくなくて考えを巡らせた。
「独自のチェックリストでも作ってみたら、やりやすくなるんじゃないか?」
これは自分の仕事柄の観点だった。一つのミスが人命に関わる事故に繋がる航空整備士の仕事には、事細かなチェック事項がリスト化され複数人が確認する。自営業の店だとマニュアルがないことが多いだろう。フォーマットにして可視化されれば、次にやることが逐一把握できて他の店員もそれに沿って彼女をサポートしやすいのではと。
説明してから、よく知りもしない彼女の仕事に出過ぎたことを言ったと思ったが、彼女は解決の糸口だと目を輝かせていた。実践してからだいぶ仕事がやりやすくなったと後日に報告してきた時、そういう俺にはない真っ直ぐさにも惹かれたんだ。
きっと、彼女はあの経験から俺との間に達成すべきことをリスト化したのだろう。付き合いたての恋人に合った進度で。だとしたらなぜ突然あんな飛び越え方をしたんだと、余計にわけが分からなくなる。
ちゃんと彼女に想われていた証拠を残されたら、いても立ってもいられなかった。これで終わらせたくない。メモを作業着のポケットに入れて彼女の住むアパートへ向かった。こういう時、本当の俺ならもっと周到に、作戦を練って挑んでいるはずだ。彼女と出会う前は、恋だの愛だのに振り回されて理性的に振る舞えない奴らを冷ややかに見ていた。その俺が、惚れた女を諦められず家を飛び出して、クソ寒い夜の外を走っている。
アパートに着くと、ドア横の小窓の向こうはまだ八時なのに真っ暗だった。寝ているのかと思いながらも呼び鈴を鳴らす。すぐに奥から床を踏む音がした。居留守を使われるんじゃないかと思うほど再びしんとしたが、少しして玄関の電気がついて静かにドアが開いた。
フリース素材の部屋着を着た彼女は、目の下を腫らしていた。俺が怒りに任せて来たと思ったのか、怯えたように肩を縮こまらせて目線を落としている。
「話がしたくて来た」
「……はい」
「部屋には入らなくていい。通りのファミレス行くか」
「いえ、あがってください」
初めて玄関をあがった。白っぽい家具で揃っている部屋は彼女と同じ匂いがする。ダウンを脱いでローテーブルの前に座ると、彼女がキッチンで湯を沸かしていた。
アパートの前に彼女を送るたび、茶を飲んでいかないか気を遣う彼女によこしまな気持ちはないと示したくて頑なに断ってきた。その末に初めて入るのが、フラれてからだとは思わなかったが。
目の前にコーヒーが置かれる。一口飲むと、冷えた身体にほっとするような温かさが染み通った。
俺の隣に座った彼女は気が重そうに黙っていたが、少ししてから眉を下げた顔で俺を見た。
「ごめんなさい、怒ってますよね」
「まあな。これ見たらそうでもなくなったが」
作業着のポケットからメモを取り出して彼女に向ける。そこに書かれた自分の字を見た彼女が、みるみる顔を青ざめて「なんで……」と声を震わせた。
「紙袋の底に入ってた」
「もうほんと、最悪」
彼女が机に突っ伏すと、すぐに啜り泣く声が聞こえた。
「泣くことないだろ」
「はしゃいでバカみたいって思ったでしょ」
「そうじゃない。俺が訊きたいのは、こうやって色々考えてたなら何で急にあんなことしたんだ」
それで何で急に別れることになるんだと、喉まで出かかったが責めるようで呑み込んだ。彼女が顔を上げて涙を拭う。その姿にすら情を寄せてしまう俺はどれだけちょろい男なんだろう。
「今さら何とでも言えると思うだろうが、俺はまだ先でよかったんだぞ。そういうことを期待してるように見えてたのか?」
「違うんです……私が、尾形さんに好きになってもらいたくて」
彼女が嗚咽しながらそう言って、俺は言葉を失った。好きになってもらいたくてって、こいつには何が見えてるんだ? フラれてるのにクソ寒い夜に家まで押しかけてる俺に。
「私ばかり尾形さんのこと好きなの、分かってるんです。私がいつまでもしつこいから、デートしたり、付き合おうって言ってくれたんですよね」
「……お前、ずっとそう思ってたのか?」
目眩がしてきて頭を抑える。石橋を叩いて渡ってきたのはひとえに彼女に警戒されないためだった。ストーカーまがいの客になりたくなくて時間をかけたのが、まさか裏目に出るとは思わないだろ。
「それでも、恋人になれて本当に嬉しかったんです。だから色々決めました。少しずつ恋人らしいことをしていけば、尾形さんの気持ちもついてくると思って」
ついてくるも何も、先走らないよう必死だったんだが。
「でも、昨日やっぱり自信なくなっちゃって。尾形さん、デート中も私と目合わせてくれないし」
「それはお前が、」
続きを言おうとしたが、潤んだ目に見つめられると照れくささで口を噤んでしまう。俺のこういうところも、彼女を不安にさせていたのだろう。一人で満足して何も見えてないのは俺の方だった。
「だから、関係を持てば尾形さんも私に執着してくれると思って、あんなふうに誘っちゃったんです」
「で、終わって後悔したのか」
彼女が鼻を啜りながら頷く。ここまで説明されたら、あの時の彼女の感情が見えていた。目の前の女は、そういうやり方で男の心を奪って喜べる女ではない。
「寝る前の尾形さんがすごく優しくて……尾形さんの真面目なところにつけ込んだって自覚したら、私なんかが一緒にいちゃダメだと思ったんです」
再び涙を落とす彼女の肩を引き寄せたら、彼女から驚いた声が漏れたが離さない。昨日終わった後、彼女と眠りにつく時間すら夢のようでずっと抱きしめていた。これからもっとこいつにのめり込んでしまうのだろうと悟るあの幸せの中では、彼女から誘われたとか、付き合いたてだとかは些細なことだった。
「お前は嬉しくなかったのか? 俺に抱かれて」
「それは……」
「俺は、お前とああなれてよかった。今の話を聞いても、お前が俺に惚れてしたことなら何も変わらない」
「許して、くれるんですか?」
彼女の目が大きく見開く。やはり可愛いと言うのは照れくさいが、あんな絶望を味わった後だとこれ以上誤解されたくない気持ちが追い越していた。触れるだけの口付けをすると、驚いていた表情がうっとりとした甘さを帯びていく。キスなら昨日ベッドの上でしたのに、こっちの方が初めてのような気がする。
「言っとくが、俺は前からだいぶ好きだぞ」
潤んだ瞳が悲しみではないもので煌めいている。こんなに喜ぶなら早く言ってやればよかった。ダメ押しで昨日一度しか呼べなかった彼女の下の名前を呼んでキスすると、頬が赤く染まっていった。
「ただ、昨日みたいなことは、しばらくしない」
「え、」
「……あと一ヶ月は。お前がちゃんと安心してから、次は俺から誘う」
俺がどれだけお前のことになると余裕がないか、分からせてからでないとダメだと思った。そのための一ヶ月としても、やるべきことはたくさんあるだろう。再び意志を固めていると、生気を取り戻した彼女が俺をまじまじと見ていた。
「何だよ」
「私服もセンスいいけど、やっぱり作業着の百之助さんかっこいいなって」
「……お前、分かって言ってるだろ」
ようやく彼女が笑う。俺がめっぽう弱い笑顔。工具との摩擦で皮が硬くなった俺の手を、彼女の小さな手が隙間を埋めるように握る。一ヶ月の期間を守るのは至難だと覚悟した。