友引
(2/3)
「ああ、龍之介くん。何か御用ですかな」
半ば衝動的に夏目の部屋を訪れていた芥川は、いざ対面すると冷ややかに自分の軽率さを蔑んだ。しかし、押しかけてしまった以上はこの場を何らかの形に収めなくてはならない。
「用というほどの用でもないのですが、構いませんか」
「もちろんです。今日のお昼は帝大生の彼とステーキを食べてきたおかげで、すこぶる調子が良いのでね」
歓迎されていることに安心する反面、彼の話を聞くとまた衝動が戻ってくる思いがして、きゅっ、と口の端が引きつった。人の内面という、明確な形を持たない代物を固形の言葉で描くための素養として、小説家や詩人といった職業の者はそこを分析する能力に長けていることが多い。芥川においても例外ではなく、またその対象となる《人》には己も含める意味合いが強かったので、自分の精神に何らかの低劣さを見出しかねない事柄はなるべく避けて通りたいものであった。
「猛烈な慕われ様ですよね。先生の知識の深さは文学の域にとどまるものではありませんから、きっと彼の志す分野においてもお話が為になっているのでしょう」
尊敬する師を相手に、平凡でつまらない返しをすることは不本意だったが、下手に古宮についての話を深めてしまうのも望むところではないので、芥川はそのまま促されたティーテーブルの席につくと、ただただ大人しくしていた。夏目はその様子を特に気に留めることもなく、電気ポットの便利さを語りながら、棚に仕舞ってあった懐中汁粉を簡単に二人分こしらえると自分も隣の席に腰かける。
「立場上、君の手前だと私は少しくらい偉ぶったほうが良いのかもしれませんがね。私は彼と、いつもそう大した話はしていないのです。今日だって……、」
記憶を引き出そうと首ごと斜めに傾けていた夏目は、そこまで言うと不意に口を結び、ちらりと一瞬だけ芥川のほうを見た。むしろそのあとは器用にも視線を一切合わせることなく、汁粉の入った椀に口を付け、何事もなかったかのようにゆったりと背もたれに体を預けて深く息をついた。
「あの、先生。今日は、どうされたんですか」
「いえ、何でも。そんなことより君の用事を聞きましょう」
芥川は、ここいらじゃ犬のぬいぐるみを置いている店はなかなか見当たらないだとか、──それでも自分が人生の大半において犬を苦手としていたことなどは打ち明けられないままだったが──そんな取るに足らない話を用事だということにして、夏目の部屋を後にした。
やはり先生ともなると、受け流し方も彼のそれとはまったくの別物だ、と妙な感心をおぼえてしまったが故に、先ほど古宮と別れた直後のような胸のもやつきが帰ってくる頃には、芥川もまた医務室へ戻ってきていた。
「龍之介くん、たばこ」
古宮は幾らか調子を取り戻していたようで、寝台の、丁度自分の足許に座っている芥川に声をかけるために半身を起こすことも容易かった。機嫌のほうは、部屋に充満する煙のせいもあってあまり改善されていないが、それは芥川においても同様である。彼と夏目はそれぞれ自分に対して秘密をもっていて、その秘密を共有しているのだから、同時に彼らは二人で内緒ごとをしていることになる──それがどうにも気に入らない、という自分の心持ちこそが芥川は何より不快だった。
「やめてって、」
伸びてくる制止の手を、芥川は払わずにそのまま自分の側へ引き寄せて、触れたかどうかも曖昧な緩い口付けで煙を吸わせると、古宮はひゅっと喉を鳴らして激しく咳き込んだ。
「な、なに……」
「ごめん、理由も特に思いつかないんだ」
言葉の通り悪意のない、自分自身に呆気に取られたような表情を見て、古宮はとても怒鳴る気分にはなれなかった。理由がわからないと言うのだから芥川も、否、芥川のほうが、自分よりずっと困惑しているに違いない、──他人がわからないのはたとえ仕方がないにしても、自分で自分がわからないというのはひどく恐ろしいことのように思える──そんなことを考えると彼は、携帯灰皿に煙草を仕舞う目の前の男が気の毒になったのである。
「自室でなら好きなだけ吸っていいって、いつも言っているのに」
「それじゃ、僕みたいなのはもう、部屋から出てこなくなるかもしれないよ」
不機嫌からきている発言であることは明らかだったが、古宮はどこかで納得もしてしまった。図書館内と司書室は基本的に全面禁煙なので、自分が助手を頼んでさえいなければ、確かに芥川は本来その場所に居る筈もない人である。
「……最低限の仕事をこなしてくれるなら、別にそれも構わないよ」
互いを針でちくちくと突いて傷付けるだけの不毛なやり取りは、ここで途切れた。ただ、「そう」と静かに呟いて立ち上がったその背が自分の予想するところからは大きくかけ離れていたようで、古宮は慌てて後を追い、肩掛け越しに芥川の腕を掴む。
「待って、僕も行く。というか、何も一人きりにするとは言っていないだろう」
芥川は一瞬目を見開いて瞳を揺らしたが、振り返る際に後ろで束ねた髪の毛が顔に直撃して、古宮がそれに気付くことは叶わなかった。
「……別に僕だって、一人ぼっちにされてしまうだなんて思っていないよ。そもそもそうなったところで、何か心乱されることがあるというわけでもないけれど」
芥川の、冷たく研ぎ澄まされたようでいて穏やかな、落ち着いている傍らで、どこか不安も孕んでいるようなこの話し方に、古宮は、不思議と何を聞いてもそれが嘘偽りないものであるかのように信じ込まされてしまう、そんな力を感じていた。従った結果先ほどは失敗したので、今は裏をかくという選択肢も生じている。ただ、それが余計に彼を混乱させた。混乱する程度には、間違えたくないという思いが強かった。
「──駄目だ、わからない。結局僕は、きみについて行かないほうがいいのかい。それとも、」
「そんなこと……僕に聞かれたって、困るよ」
芥川も本当に困っている様子で、彼らはそのまましばらくの間、その場から動けず立ち尽くしてしまった。
前|次
[戻る]