友引
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 同じ日の晩、夕飯の献立は鰤の照り焼きだった。初めてのことではないので、すでに好物であることは皆に知られている芥川はもちろん、海の物なら何でも好きだという古宮も大いに喜んだ。
 おかげで昼間の刺々しい空気は嘘のように、二人は機嫌良く、今日新たに支給された有魂書の補充を進めていたのだが、根本的解決に至りはしなかったことが祟ったのか、平穏は何気ない一言によっていとも簡単に崩れ去る。
「ねえ、次は龍之介くんも一緒に出かけようよ」
 視線は本棚に向けたままそう言った古宮が、一瞬、芥川の顔からすべての表情が消し飛ぶのを見ずに済んだのは、まさに不幸中の幸いであった。
「……そんなことで僕が拗ねていると思われているなら、正直死んでしまいたいかな」
「ち、ちがう、死なないで。あと潜ろうともしないで」
 それか二人目の太宰くんを探す旅に出る、と手にしていた有魂書を開く芥川に、古宮はインクと栞を仕舞った棚を背に庇いながら、手のひらを突き出して必死に首を横に振る。芥川は白紙の頁を見つめながら、頭の中でもまだ言葉を選んでいる最中なのか、少しずつ絞り出すようにぽつぽつと呟いた。
「『秘密』や『内緒』を、定義から崩してしまうようなことを言うよ。そして、何百年も人々に根差している定義を否定することに、意味はないのかもしれないけれど……誰かに言えないようなことを考えたり話したりしておいて、そんな罪悪を白状せずにいるのは、やっぱり、不誠実だと思わないかい」
 秘密というのは、必ずしも美しく、儚いものだろうか。本当は、物凄く図太くて、醜いものではないだろうか。
 自分の心を表す以上に、古宮への攻撃に重きを置いた言葉であることは明白だった。人のあらゆる側面から目を逸らさない芥川の気質は、小説家としての自分を生かしたが、ひとたび人と人の間で生きる一つの個体に立ち返ってみれば、それは、ただ人生を困難に見せるだけの毒である。健全な人間であれば本来、自分を守るべく本能が働いて見えなくしてしまうそれを今敢えて突き付けて、芥川はすぐに、自分がとても大人げないことをしているような気持ちになった。
「……確かに、いつも一緒に居てくれるきみに打ち明けないのは不義理というか……ごめん、少なからず自尊心を傷付けるようなことだったと思う」
 案の定反省を始めてしまった古宮は、そう言いながら棚から離れて、少しずつ芥川のほうへと歩み寄る。
「僕の心持ちに関することだから、きみには何の得も与えないだろうし、不快にさせてしまうかもしれないとさえ、思っていたんだ。でも……それでもよければ、聞いて」
 喉が不規則に上下して、「え、」と間抜けな声が漏れ出ると同時に、芥川は、彼が隠している内容への未練は、すでに自分の中には全く残っていないということに気が付いた。仮に古宮が打ち明けるために必要とする勇気と、今の自分がそれを聞いて得られる満足とをそれぞれ数値化できたなら、結果的に彼の言い損になって終わるであろうことが確信できた。
「いや、言わなくていいよ」
「どうして。話すよ」
「いいから、」
「言うってば。僕は、──」
 言葉の続きを断ったのは鋭いペン先だった。
「いいって、言ってるだろ」
 喉元に突きつけられたそれと、初めて芥川の声でこれほど凄みのある調子を聞いたのとで、古宮は、全身を硬直させたまま口角だけをそろりと上げた。
「……万年筆、ちゃんと持ってるなんて珍しいね」
「君がこの間貸してくれたやつだよ」
 芥川はそう言って、《貸出用》とシールの貼られた万年筆にキャップをして古宮の手に持たせると、その上から包むように自分の手を乗せた。
「お願いだから、言わないで。そんなことをされたら、僕は、僕が……ひどく、醜くて……惨めで、もう、どうしたらいい」
 時々ぎゅっと強く力を込める芥川の手は、追い詰められるような口調に導かれてどんどん冷たくなる気がして、──あとで考えてみると、単に自分の緊張が解けて温まっただけという可能性も否めなかったのだが──古宮はもう片方の手を線の滑らかな指先の上に重ねた。すると芥川は不安を追い出すように、ゆっくりと一度だけ大きなため息をついた。
「僕にだけはきっと一生かかっても話してくれないことだって、大げさに捉えて不貞腐れていたことが、恥ずかしい。それに、これだけ一緒に居る君に、何でもいちばんに話してもらえないことを……僕はまだどこかで、不本意に思っていて。自惚れの強さと、諦めの悪さが嫌で……苦しいんだ、」
 話し方などは問題でなかったのだ、と聞きながら古宮は思い直していた。芥川には、判断しかねるものに対してはそのまま「わからない」という旨を伝えるだけの正直さがあった。見る目も考える頭もそれを表す口も、ここまで正直で正確な人間の言う《苦しい》はどれほどのものだろうか──想像してみても、具体的に得られるもののなさに、彼はただ寂しさを感じるのみであった。
「在り方にそれだけの理想を求めることができる時点で、僕はきみを十分高等な存在だと思っているのに。実現なんてされてしまったら、そんな聖人にどうやって助手を務めてもらうよう頼めばいいんだい」
 困ったように眉を下げて笑った古宮に、芥川は我を取り戻した様子で仕事を断ることはないと答えたが、そうじゃないのだと古宮は首を振る。
「自分でも笑ってしまうけれどね、僕、きみに見放されたくないみたいなんだよ」
 芥川は内心狼狽えた。先に握ったのは自分であるとはいえ、手を取って、その上まっすぐ目を見据えてこのようなことを言われては、何らかの錯覚をおぼえても仕様のないことである気がする。長らくの間、感情の動きには鋭く目を向けるべきだとしてきたが、錯覚に取り憑かれる趣味はないので、深く考えることは一旦後回しにして、芥川はこの上なく適当な返事で場を取り繕った。
「……鰤の照り焼きを推してくれる君を、見放したりはしないよ」
 古宮については、芥川に時たま抜けたところがあるのは承知済みであったので、特に怪しんだり、他意はないか考えたりするようなこともなかったが、ただきょとんと目を丸くして芥川のことを見ていた。
「じゃあ僕は、魚を好きでいるだけでいいの」
「うん、十分」
「そうなんだ。それは、その……助かるよ」
 そこからは誰も、何も言い出さなかった。閉館後で、灯りの点いた場所は少なかったので、どちらも顔の熱いことは自覚のみに止めることができた。しかしその後、二人で持っていた万年筆がインク漏れを起こして、彼らは手に石鹸を泡立てながら「原因は絶対に故障である」ということで合意したのだが、万年筆は未だ修理には出されていない。


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