冬来たりなば
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 ジャージ越しに擦りむいた膝の痛みと嗅ぎ慣れない土の匂いに、本来何にも代えがたいはずの襤褸を反射的に睨んでしまったのも、足を取られたこのときに限っては仕方のないことであった。
「泥にまみれていれば、山姥切と比べることなんて――」
 身体中の、ありとあらゆる場所が申し立てている不快感とは裏腹に頭はそんなことを口走らせる。大丈夫かと駆け寄ってきた、まだ出会って日の浅い新たな主と小夜左文字という短刀に、この矛盾を悟られまいと山姥切国広が隠したのは痛みの方だった。
「平気だ。むしろ、俺にはこんな姿がお似合いさ」
 二人にこんなことを言って何になるのやら、一体何がしたいんだ自分は。口にした言葉とは別でさらに自嘲して体を起こすと、困ったような微笑とともに線の滑らかな手が差し伸べられる。
「そんなことないよ」
 山姥切国広がここへ来てすでに幾度か彼女が口にしているそれはかなり形式張ったもので、人によっては心にもないことを言うなと腹を立ててしまいそうな度合だが、何か言葉が欲しいわけでもなく、また沈黙を生むのも望むところでない彼にとってその無機質さは却って有り難かった。
 手を借りつつほとんど自力で立ち上がり、土を払う。怪我はないかと聞かれて、膝だけは後で洗っておかなければならないな、と心のうちで確認した上で審神者には心配無用だと答えた。
「きみも小夜も、怪我をしたらすぐに教えてね。痛いのはつらいだろうから」
 まるで怪我をしたことがないかのようなその口ぶりに少し引っ掛かりを覚えるも、それ以上に罪悪感から衣服の下の傷が痛みを増してひどい。山姥切国広はきゅっと結んでいた口を徐々に緩めると、ついには作業に戻ろうとする彼女の背に向かって自白をはじめた。
「……膝を少し、擦り剥いたらしい。大したことない傷なんだが……本当に、ちょっとした、」
 きょとんとしてそれを聞いていた審神者が直後、隠すつもりだった?と少し悲しげな顔に変わるのを見て、彼は考えるより先に首を振る。
「い、いや、違う。動いたら痛みに気付いて。それで、」
 我ながら可哀想になるくらい不出来な申し開きだ、そう山姥切国広は思った。しかし、目の前の主は気付いていながらそれを見せないのか、あるいは丸ごと信じ込んでくれたのか。「そうだったんだね」とひとつ口にして彼に縁側へ座るよう言うと、自分は救急箱を取りに走っていった。

 ***

「不快にさせてしまっていたら、ごめんなさい」
 消毒液を塗られた傷口の痛みは先程の比ではなく、山姥切国広は、えっ、と間抜けに聞き返すことしかできなかった。
「まさか本当に怪我をしているだなんて思わなくて。暴く気はなかったの」
「なぜあんたが謝る。黙っていたことを怒るならまだしも……」
 小さな絆創膏へ傷口を綺麗におさめて、手当を終えた審神者は彼の隣に腰かけた。
「主としては、注意するのが道理なのかもしれない。それに、大切にしたいと思っているから、できれば隠さないでほしいよ。でも、――こんなことを言っていいのかわからないけれど――きみが厭うもののことは少しだけ、わかる気がするんだ」
 ここだけの話ね、そう言って優しく笑うと彼女は続けた。
「政府の人からきみの紹介を受けたとき、『写しであることを余程気にしているのか、良い刀なのに難しい性格をしている』って聞いていたの。でも、一目見てすぐに当然だと思った。きみが、あまりにも綺麗な刀だったから」
 いつもなら綺麗と言われれば不満を漏らさずにはいられない山姥切国広も、なんとなく黙って聞いてしまう。ただ励まそうとしてくれているのとは少し違う、そんな様子を察したからである。
「優れているからって、悩まずに過ごせるわけじゃないよね。比べられて、たとえ自分が褒められても――そこには必ず自分の存在のせいで虐げられる羽目になって、つらい思いをしている誰かが居るんだもの。喜べないよ」
 そこで彼はふと、自分自身のことを考えた。ある言葉を、思い出していた。
 “あれと違ってこちらは”――続くものが中傷であれ称賛であれ、その言葉を浴びせられる度にちらついていたのは、姿こそ朧気ではあるが、この数百年一度たりとて忘れたことはないあの刀のことである。
 そもそも山姥切国広という刀に対する褒め言葉にはいつも、それがついてまわった。本歌より美しい、本歌より名高い、――自分には嘗て、あの刀への後ろめたさを感じないで誉れを得たことがあっただろうか――今あらためて記憶の中を探ってみても、ついぞ彼はそれを見つけることができなかった。
「それなら、いっそ誰とも比べようがないほど抜きんでた存在になってしまうか、――誰とも比べようがないほどに、何の価値もないもののように振る舞うか。人でないものに前者は難しいよね」
「……あんたは、人間なんだよな?」
 人間が、こんなにも容易く物に宿る心を解って、否、解ってしまえて良いのか。思いがけず、主の人として健全でない部分を見てしまったような気がして、山姥切国広はそれ以上を尋ねることはできなかったが、その様子に気付いた審神者はすぐさま茶化すように笑ってみせた。
「当たり前じゃない。だって、こんな小さな怪我を気にしたがったり――それに、最初の五振りの中から選びだしたことすら、きみの心を曇らせることだったかもしれないって、これでも考えてはみたんだよ? それでもしようがなかったのは、刃も拵えも一番好きだって、絶対今日連れて帰りたいって、思ったから。人の欲はとても深いの」
 それだけ言うと、審神者は畑に戻って小夜左文字と土作りの続きに取りかかる。山姥切国広のほうはというと、戸惑っていた。
 人とはこんなに丁度良いものだっただろうか、と考える。きっと、自分が長らく求めてきたものはこれなのだろう。自分のことを理解した上で、――最悪理解はしてもらえなくとも――ある程度の距離を保とうとしてくれる、そんな扱いを理想としていたはずだ。だが、いざ対峙してみると、何だか肩透かしをくらったような、この感覚はなんだ。品定めされることを警戒して近付くのを拒んでいたのは自分だというのに、本当は彼女自身が拒絶してのことかもしれないのに。一歩距離を詰めてみては、いけないだろうか――そんなことを思ってしまう己が、彼の中に確かに存在していた。

 ***

「……あんた、畑仕事をしたことはあるのか」
 後ろから声を掛けられて振り返った審神者が手にしていたのは鎌だった。
「それで土を耕すのは、間違っている……と、思う」
 それを聞いて彼女はしばらく手元を見つめたあと、やがて恥ずかしそうに笑いながら「ごめんね、こういうことはあまり詳しくなくて」と答えた。むしろ、それがなければ話しかける口実を別に考えなければならないところだった山姥切国広にとっては、救いの手以外の何物でもなかったのだが。とにかく会話が途切れてしまわないよう、食い気味に彼は続けた。
「……あと。手当てしてくれたことだが、俺は感謝している。それに、あんたが好んでくれるのは……その、不思議と嫌じゃない」
「……本当に?」
「ああ」
 それから少しの間沈黙が流れたが、けして互いに居心地の悪いものではなかった。そして、それを破ったのは審神者の方である。
「私、きみのことは国広くんって呼びたいな。『山姥切』は出生にまつわる号でしょう? 何かものすごいことに巻き込まれたら、簡単に変わってしまうかもしれないもの」
「そんなことは、」
 ありえない。気付けば現実に見切りを付けた彼の一部がそう口を開いていたが、それすらも微笑みひとつで制してしまうほどに、彼女はもうその刀の主人であった。
「きみは堀川国広の最高傑作。とっても綺麗で、覇気も十分、――これといった偉業はまだないけれど、きっとこれから私と成し遂げます」
 自分が写しでなければ、こんな過去があったのだろうか。と一瞬未練をおぼえるほどにそれは夢のような言葉であり、そしてこれからの彼にとっては、これまでにおける『いつ』の自分もうらやむような、まぎれもない現実だった。
 ひたっている暇もよこさず、構わないかと彼女が問いかける。そして彼もまた、考えるまでもなかった答えを、久年の寂寥とともに白昼の空へ解き放った。


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