襖が開くと、畳に座りながら菊乃がお辞儀をしていた。顔はまだ伏せたままだが、彼女の声は、甘くゆったりとした猫撫で声。媚を売るには一番の武器になりそうだ。身に纏う着物も、源氏名の通り、大輪の花を咲かせた黄色い菊。それを思わせるような金と黄色の着物が、彼女の美しさをさらに引き立たせているようだ。
「菊乃ちゃん、さあ、入って」
「ええ、夕顔姐さん」
夕顔の声を合図に菊乃は顔を上げた。真っ白な肌に赤い紅。夕顔も、柳もひなげしも、赤い紅をさしているが、菊乃のそれは唇の赤を辿るように、自然と視線が顎元の黒子(ほくろ)へと向かってしまうようで、妖艶さが増している。
「わお・・!超絶美人さんじゃんか!?」
「すげー、美人、だな」
「う、うん。なんだか、いけないものを見てるような気分だよ」
百が大きな目を見開いて、菊乃の容姿の美しさに思わず本音を溢している。どんな男性をも一瞬で虜にしてしまう魅力があるようだ。女性の扱いに慣れていそうな楽でさえも、感嘆な声が思わずもれ、反対に女性慣れしていない龍之介にとっては、直視していいのかと、瞳が忙しく泳いだ。
「……」
しかし、天だけは違った。元々、この場に来るのにも抵抗があったのは事実であり、ましてや、この菊乃から溢れ出る様子が、食事"以外"での仕事を容易に思わせてくれるようで、嫌な気分になる。誰にも気づかれないように、天は深くため息をつく。準備に取りかかるために退室しているかぐやを、ふと脳裏に宿していた。
「もう、全く。やっぱり、百さんたちも、どこぞの殿方と一緒なのね」
菊乃の登場で、百、楽、龍之介が見せた様子に、夕顔は溜め息と共にくすくすと笑い出す。
「いやいや!百ちゃんの一番は、夕顔ちゃんだって、言ってるでしょ!てか、ここに居るみーんなが、美人さんだからね!」
まるで浮気を謝罪するかのような百の口振りに、夕顔の笑いが止まらない。それに習うように、ひなげしも、柳もだ。
「姐さん、こちらの素敵な方々のご紹介が欲しいわ」
「そうね。こちらが、ご贔屓くださってる百さん。その百さんのご友人の、八乙女楽さん、十龍之介さん、九条天さんよ」
夕顔の紹介を聞きながら、菊乃は黒く輝く瞳にそれぞれの姿を写しこむ。
最年長ながらも、にかっと子供のように笑う百。流し目と色っぽさ、どこか余裕を纏う楽。恥じらいを決して隠さない、誠実そうな龍之介。そして、不思議と菊乃は、自分と目が全く合わない天をじっくりと見る。ここでの仕事柄、客を値踏みするのは当たり前、まだたったこれだけの時間で、菊乃は判断していた。だが、天だけはどうもこれまで相手をしてきた客の中にはいないタイプなようだ。誰をも簡単に虜にしてきたはずなのに、この人は靡(なび)かない。なぜだか菊乃は艶やかな唇に笑みを浮かべ、天を面白い子と判断していた。
「さすが、夕顔姐さんのお客様だけあり、本当に素敵な方々。お約束頂いているお客様がいなかったら、私もこちらのお座敷に付きたかった」
「お客さまをみんな、菊乃ちゃんに持っていかれてしまうわね」
ここでの稼ぎ頭でもある菊乃に、夕顔はクスクスと笑いながら冗談半分に応える。菊乃に姐さんと呼ばれるも、夕顔と菊乃は20代半ば、歳はそう代わりがない。しかし、店に入った順や、その他もろもろと、位のような地位というものが付きまとう。
「そんなこと、ありませんよ」
綺麗な唇に弧を描きながら、菊乃はそろりと畳を踏む。百の隣には夕顔、楽の隣にはひなげし、龍之介の隣には柳が付いているため、今は誰も傍にいない天の元へと移動した。瞬時に膳にある空っぽなお猪口に目が行く。
「まあ、お呑みになられていらっしゃらないのね。おつぎします」
両手でお猪口を持ち上げ、菊乃は天へと差し出しているが、天の手はそれを受けとることはしない。
「ボクは結構」
「そう言わずに、帝都1の銘酒ですので、お一口でも」
にこやかに酒を薦める菊乃に、天は全く受ける気は更々なく、湯呑みに少し残る花びらを見つめている。その天の様子に菊乃の眉が一瞬だけ動く。
「ごめんねー、菊乃ちゃん。うちの天ちゃん、お酒呑めない子なんだー」
「そうでしたのね。何も知らずで、ごめんなさいね」
天と菊乃のフォローをする百。さすがである。
菊乃は天の傍について、自分よりも天のほうが若いと感じていた。美少年だが、酒が呑めないことを知ると、自分が相手をするほどの男ではないとまた勝手に値踏みする。
「気分悪くしちゃってない?」
「いいえ、百様。私は全然ですよ」
「それ聞いて、百ちゃん安心安心!これからかぐやちゃんが歌と躍りを見せてくれるからさー。菊乃ちゃんも、みんなで楽しく飲もー!」
「え?かぐやちゃんが、ですか?」
座敷で聞くことのない名前に、菊乃は瞳を大きく見開き驚いている。
「カオル姐さんがね、ご贔屓くださる百さんに、かぐやちゃんを会わせたかったみたいで、お座敷に上がらせてもらっているの。初めてでも、しっかりと、かぐやちゃんは九条さんについてくれてるのよ」
夕顔の説明に菊乃は更に驚くことになった。今まで決して座敷にあがらなかったかぐや。カオルの指示だ。かぐやは、ここらで働いている女性の中では珍しいくらい賢く、器量よく、作法などもきちんと身に付いており、ましてや、美しい。遊郭なんかで働いているのには、なんらかの事情があるものが多いため、なぜそんな教養豊かなかぐやがこんなところにいるのかと、誰もが思うだろうが、それを聞いてはならないというものだ。
どこの誰でも構わず、仕事ができる場所がここなのだ。
そんな遊郭の中で、かぐやは華を生けたり、着付けをしたり、歌や躍り、読み書きを、ここにいる娘たちにそれらを教えていた。表舞台ではなく裏方だ。菊乃はそんなかぐやに一目を置いていた。裏方の仕事は自分に出来ないことなので、凄いと感じていた。
自分が出来ることは、お酌をしたり、楽しい話をしたりと客を悦ばせることだけだ。かぐやは裏で、自分は表で、そう思っていた。
しかし、かぐやが同じく表舞台にと思うと、菊乃は自分がかぐやに勝るものがないのではと、感じてしまってしょうがない。そんなことを考えていると、襖の向こうからかぐやの声がした。
「かぐやでございます。失礼いたします」
かぐやは、三味線を手にした少し年上のベテラン芸妓を連れてきた。
「かぐやちゃん、待ってたよ〜!」
きゃんきゃんとまるで仔犬のようににかっと百が笑う。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません。こちら、芸妓の桐島(きりしま)でございます。」
「桐島と申します。かぐやの躍りの際には歌を。かぐやが歌う際には躍りを、ご一緒させていただきます」
芸妓の桐島は黒地の着物と落ち着いた装いだ。中に着る長襦袢(ながじゅばん)の上に付けた赤い衿が、とても引き立っている。世にいう、クールビューティー。
「やばい!もうなんなの!カオルちゃんとこはさー!美人さん隠し持ちすぎじゃんか!」
夕顔一筋と豪語するも、今日、芸妓というものを知り、興奮が冷めないようだ。他の遊郭を知らない楽と龍之介にはなのことかとは思うところはあるが、百の言う、美人揃いには納得だった。
* * * * * * *
シャンシャンと鳴る三味線と、丁度良いキーの桐島の歌に合わせ、かぐやが美しく舞いを踊っていた。扇子を綺麗な手つきで操り、柔らかく、しなやかな、とても上品でいて、どこか儚くも綺麗な舞いだった。
酔いも回りはじめ、きゃきゃとしていた百でさえも釘付けになるくらい美しいものだ。
「すごいな…」
「ですよね。私も早く上達したいです」
楽の呟き声に、ひなげしがキラキラした瞳で応えた。
「アンタも躍りをか?」
「はい。私もかぐやちゃんにお稽古つけてもらっていますが、こんな風になかなか踊れません。上達したら、八乙女様に是非見ていただきたいと思います」
「ああ。それじゃあ、それまで、楽しみにしてるよ」
「はい!」
龍之介と柳もまた、かぐやの躍を見ながらお喋りに花を咲かせていた。
「天女っているんだね」
「十様?」
「舞いを踊るなんて、天女か乙姫くらいしか思い浮かばなくてね。おとぎ話だけの話だと思っていたから。こう実際に目の前で見れると、すごく不思議な気分だよ。すごく綺麗なんだね」
「乙姫と天女で、十様はかぐやちゃんを天女とおっしゃられたのは、ここが一時の竜宮城で、外に出たらおじい様になってしまうか、心配になったからですか?」
クスクスと柳が笑う。
「いや、そうじゃないけど。柳ちゃんだってすごく綺麗な子だから、そうだな、確かにここが竜宮城で、外に出たら夢だったという気持ちにはなってしまうかもしれないね」
「その夢が覚めても、また夢を見にいつでもいらしてくださいね」
にこにこと微笑む柳の商売の上手さに、龍之介は、一本とられたなと、はははと笑いながらがしがしと後ろ頭を掻いた。
* * * * * * *
「…………」
いつ見ても、やはり、かぐやの踊りは美しい。菊乃は、桐島の三味線と歌にとてもよく合っているかぐやの躍りを見て、感嘆なため息をつく。自分にはない、魅力だ。店の皆からも絶賛されるその躍りに、この座敷にいる全員が息を飲むほど。
菊乃は自分が傍につきながらも、まだまだ大人な女性の魅力すら分からない、見るからに無愛想だった天をちらりと盗み見た。どうせ、躍りや歌にも興味ないだろうと、勘ぐってだ。
だがしかし、その予想が簡単に外れた。
「!」
天の瞳は真っ直ぐかぐやを写している。小さくたが口元があがり、微笑んでいる様子が窺えた。
舞を踊るかぐやが美しいから?
初めて目にしたものだから?
かぐやが、どのようにして、この天の心を解したのか、菊乃は気になって仕方がなかった。
いつだって、一番は自分がいい。
そう思うことは悪いことだろうか。
ぎゅっと、見えない袖の下で、菊乃は拳を握りしめたのだった。