「昨日からお宿よ」
仕事の手順を教えるだけで、あとは亡者が勝手に寄ってきて呵責を受けてくれるから本当に素晴らしい。と報告を受けた後、庁内の案内のためにお香に食堂へ連れてくるよう頼んでふと気になった事を問えば、この始末。
衆合地獄と花街は遠くない。が、念の為通いやすさについて尋ねるつもりがとんでもない答えが返ってきた。
どうやら働くかわりに衣食住が与えられていたらしく、当然のことながら辞めたので即刻追い出されたらしい。
商業主義の妲己が経営しているのだ、慈悲はない。
鬼灯がついてきて欲しいとお願いされて付き添ったのは、妲己と妓楼の店長へお得意の口プをかましたまでであった。
酒もしこたま飲んでいる上に夜も更けてきているから、自宅まで送るとの申し出を断られたのを強行しようとすれば、いつも店の軒先で怠惰している野干の檎を呼びつけ同行させていた。
自分たちの居住地に、外部の男性は入れられないと断られては鬼灯もついていこうとはせず、すんなり帰宅した。
何はともあれ、彼女は今家なき子である。
獄卒用の寮もあるが、彼女のような人が入れば、忽ち大騒ぎになるのは目に見えていた。
獄卒が軽率な行動を起こすことも、考えられる。
「本来は役職が高い者が暮らす場所がここにあります。お香さんも部屋がある場所です。特例ですが、よければこちらの一室で暮らしませんか」
ここのご飯美味しい、と食堂で注文したカレーを幸せそうに掬う彼女は、瞬きを繰り返して鬼灯を見た。
驚いた時や理解をしている最中に瞬きを繰り返すのは、彼女の癖なのだと鬼灯は返事を待つ間に思う。
「そんな特例、他の方からしたら迷惑でしょう。お香さんが近くにいてくれるのは、私も嬉しいけど」
「他の獄卒からしたら、貴方が入寮してくる方が大ニュースだと思いますよ」
「嫌われてるって事?暫くお宿でいいよ。落ち着いたら考える」
「はぁ。私が近くにいてもらいたいから提案してるんですけどね」
鬼灯の向かいに座るなまえが咽せて咳き込む。
こんな言葉、散々言われ慣れているだろうに、と捻くれた頭で思いながら鬼灯は定食の唐揚げを一つ丸々口に突っ込んだ。
「急に変なこと言わないでよ」
「本心です」
「なによ、鬼灯って私のこと好き?」
「嫌いだったらこんな提案しませんよ」
白米を口に突っ込んでいると、スプーンを動かすなまえの耳が赤くなっているのを見逃さない。
妲己に見初められたのは、演技型の彼女の仕事っぷりだろう。
仕事とプライベートを完全に切り離しているタイプの彼女だ、今は完全になまえとしてここにおり、言われ慣れている言葉も全て純粋に刺さっているかもしれない。と、鬼灯は冷静に分析している。
昔抱いていた感情が、胸の奥からじわじわと表へ出ようとするのを、鬼灯は隠す気が無かった。
「職権濫用って、鬼灯が周りに怒られない?」
「大丈夫ですよ。こうは言いましたが、総合的に見ての提案です」
「…案内がてら、見学させて。話はそれからにしましょ」
さてどう丸め込ませようかと、鬼灯はまるで獲物を狩る肉食獣のような目で彼女を見下ろした。
見事言葉巧みに丸め込まれたなまえは、鬼灯たちが寝泊まりする区域で暮らすこととなった。
時が立つのは早く、花街ではすっかりかつてトップを飾っていた遊女の話題は消え、獄卒の間では、まだ一目も見たことがなかった人が、通りすがりに騒つく程度になった。
獄卒の仕事、私でもできているわと胸を張る彼女に、あの時獄卒になりたくないと言ったのは自分自身だろうと突っぱねた。
彼女は嘘泣きをしたかと思えば、そうねと笑い出した。
残業をこなして食事と風呂を済ませ、部屋に戻ると部屋の中に彼女がいた。
ドアを開けてすぐ、自身がいつも眠るベッドに彼女が深く腰掛けていて、ドアノブを握ったままその様子を見つめる。
「こんな時間までお疲れ様。いつもこんな時間に戻るの?遅すぎやしない?」
「どうやって入ったんですか」
「え〜?ヒミツ」
寝巻きに着替えた彼女が、鬼灯の枕元に置いてあった本を手に取り、まるで自分の部屋かのように布団に腰掛けて、活字を目で追っている。
「これ面白いね。読み終わったら貸して欲しいんだけど」
「構いませんよ。明日中に読み切るつもりですが、早く読みたいなら図書室へどうぞ」
「日付変わったから今日ね」
揚げ足取りな事を。と鬼灯は思い、後ろ手でドアを閉めて鍵をかける。首根っこを掴んで放り出すか、本人に部屋を出る意思がない限り、動かないつもりなのは分かっていた。
洗面所へ向かい、就寝前の身だしなみを整える。
鏡に映る鬼灯の顔は眠気が襲い、いつもの数倍目が厳つい。早く寝たいのは誰がどう見ても分かるだろう。
ベッドへ向かうと、彼女はすやすやと寝息を立ててベッドの隅に丸まっていた。
どこか不自然さのある姿に、鬼灯はすぐにその寝息が嘘であることを見抜く。
「貴方、もしかして一人が寂しかったんですか」
「…鍵かけ忘れてる鬼灯が悪い」
寝返りを打って顔を隠したのを見るに、図星である。
広いベッドでもないが、彼女の図体がでかいわけでもない。
鬼灯は、眠りについて仕舞えば気にならないだろうと、容赦無くなまえの隣に潜り込む。
微かに彼女の肩が跳ねたのを見て、自分からしておいてそれはないだろうとわざとらしく彼女の方を向いた。
寝返りを打って驚くがいい、と鬼灯は睡魔に負けて目を閉じた。
一方、なまえは布団の布擦れの音が止んだと思いきや、穏やかな寝息が聞こえて、驚いて首を後ろに向けると至近距離に鬼灯の顔があり、慌てて本棚のある壁へ張り付くように寄った。
鬼灯のことだから、いい加減にしろと首根っこを掴んで追い出されると思っていたのだ。まさか布団に潜り込んでくるとは誰が思っただろう。
寝ているのならばと、覚悟を決めて鬼灯と向かい合う。
普段常に睨みつけるような切れ長の目は、閉じられると途端に可愛らしく見えた。
その顔を見ながら、道が違えた後の数千年、彼らはなまえのことをどう思っていたのだろうと考えを巡らす。
仕事をしていない日の夜は、嫌いだった。考えたくないことが頭をよぎって、楽しかったあの頃に思いを馳せるのは、もう指折り数えられない程。
よほど疲れていたのか、身じろぎしてずれた掛け布団を直しても、目の前の男は一切目を開けない。
顔つきが大人になった。それよりも目の下の隈が酷い。時計は夜中の2時過ぎを知らせている。
日々こんな時間まで仕事していては、こんな目元にもなる。
閻魔大王の補佐官の仕事は、それはそれは大変だろう。とそっと頬に手を伸ばしかけると、体がグッと引かれて鬼灯に抱き抱えられる。
起きているのかと視線を目一杯鬼灯の顔に向けるが、目が開いている様子は無い。寝息だけが一定のリズムで聞こえる。
完全に抱き枕と化したことと、突然の距離感、呼吸をすると鼻いっぱいに広がる鬼灯の香りに、なまえは逃げるように目を閉じて意識を飛ばした。
その夜は、鬼灯の温もりが心地よく、とてもよく眠れた。