足早に去っていくブンちゃんの後ろ姿を見つめながら、私も続いてフェンス内へと足を踏み入れる。転校するギリギリまでマネージャーとしてコートへ立っていたはずなのに、この足の感触にどこか懐かしさを感じた。
フェンス出入口から一番近くにあったベンチには雑に脱ぎ捨てられたジャージが掛けられていた。それを退かそうと手に取ると、ジャージの下には部活動には明らかに必要の無い物がそこにはあった。眉をひそめながら恐る恐るそれを手に取る。
「……ブーブークッション…?」
「なーんじゃ。おまんなら掛かると思っとったのに…」
突然耳元で声がしたので、勢いよく振り返ると白髪の男が「これには驚くんか」と言いながらニヤニヤとした表情で立っていた。
「これ…あなたの?」
「そうじゃ。こういう古典的なものに引っかかると思ったんじゃがのぉ」
「もしかして、いつもこういうこと皆に?」
「よく引っかかる奴にしかせん。例えば…そこにいる赤也なんて面白いくらい騙される」
楽しそうにそう言う白髪の男が指差したのは、ちょうど真田くんからお叱りを受けている、くるくるっとした癖毛に特徴のある男の子だった。雰囲気からして年下のように見えるけど、どうなんだろう。「ふぅん」と適当に相槌を打つと、男はそのまま話を続けた。
「そういえばおまん何組じゃ」
「C組。そういえば、あなた名前は?」
「B組、仁王雅治」
「へぇ、じゃあブンちゃんと一緒なんだ」
「ブンちゃん?丸井とそんなに仲良かったんか」
「ううん?ブン太なんて珍しい名前だし、可愛いあだ名で呼びたくて」
「ファンクラブの女達と同じような呼び方じゃな」
「フ、ファンクラブ…!?」
衝撃のあまり思わずオウム返しで聞いてしまう。だって、ファンクラブって。ファンクラブって…!聞いてない、そんなものがあるなんて。
「知らんかったんか」
「知らないよそんなの!人気なのは分かってたけど、ファンクラブまであるなんて…」
「友達も不親切じゃのぉ〜」
「あー…」
仁王のその言葉にふと思い出す。クラスの友人にテニス部のマネージャーになったことを伝えた時「ご愁傷様」という言葉と共に肩をポンと叩かれたことを。
「そういうことだったのか、あれ……」
「時すでに遅しじゃな」
「はあぁ…ファンクラブってさ、それブンちゃんだけ?」
「どうじゃったかの。確か幸村もあった気がしたが、詳しくは覚えとらん。丸井は確実にあるが」
「そ、そうなんだ……」
「もしかすると他の奴らにもファンクラブあるかもしれんの」
意地悪そうにそう言う仁王の頭を拳でグリグリとする。この男は基本的に意地悪なんだとこの数分で嫌でも分かってしまった。そして人を騙すことが好きだということも。
「ねぇ、本当だよね?ファンクラブの話」
ほんの少しの期待も込めつつそう尋ねると、「さあ?」とだけ言ってそのままコートへと戻って行ってしまった。最後まで意地の悪い男だ。気付けばトレーニングは終わっており、ラリーが行われていた。流石は強豪校。ただのラリーだというのに物凄い迫力がある。青学にいた時もよく耳にしていた学校名なだけあるな、と改めて近くで見て実感した。
青学テニス部のことを思い出したせいか、少しだけ寂しくなった。みんな、どうしてるかなぁ。幼馴染である蓮二には忘れられてしまうし、少しホームシックになってしまいそう。貞治には蓮二から忘れられてた、なんてとてもじゃないけど言えないな…。
思わず溜息をつく。地面に視線を落とすと、ちょうどボールがコートの方から転がってきた。それを拾い上げ立ち上がると眼鏡をかけた男の子が慌てて此方へやって来た。
「申し訳ありませんでした、拾って頂きありがとうございます」
「ううん。はいどうぞ」
「すみません…。あ、紹介遅れました。わたくし3年A組の柳生比呂士と申します。これから宜しくお願い致しますねみょうじさん」
「う、うん。よろしくお願いします…」
同い年かと疑いたくなるほどの礼儀の正しさに、私までつられて敬語になってしまった。紳士という言葉がピッタリすぎる彼は「それでは失礼致します」と言って、再びコートへと戻ってしまった。もう少し話してみたかったけど仕方ない。流石に練習中に呼び止める訳にはいかないし。
「どうだ?部員とは仲良くなれそうか?」
そう言って私の隣に座ってきたのは蓮二だった。蓮二を見ると思わずドギマギとしてしまう。好きだからとかそういう訳ではなくて、どう接すればいいのか分からない。「私達幼馴染だったんだよ」と言ってしまえば済む話なのかもしれないけど、これ以上改めて"忘れられた"という事実を本人から突きつけられたくなかった。
「みょうじ?どうした?」
「え、あー…うん。皆いい人そうで安心した」
「そうか。なら俺も安心だ」
「あ、でも仁王はすごい意地悪だった」
「よく皆を驚かせては面白がっているようだな。…俺は騙されたことなど無いが」
「…うん、柳くんが騙されている所は想像出来ないかも」
「だろうな」と言いながら蓮二はノートにサラサラと何かを書き連ねていた。何を書いているのか隣から覗き込んでみると、縦書きで筆記体のような字体で何を書いているのかよく分からなかった。
「なに書いてるの?」
「秘密だ」
「字が綺麗すぎて読めないなんて初めて」
「それは最早綺麗だと言えるのか?」
「…た、達筆ってこと!」
「ふっ、そうか。ありがとう」
「うん…」
何だかどこかぎこちない。きっとそれは蓮二も気付いているんだろう。私のことを気遣ってくれているのは嫌でも伝わってくる。そんな私たちの間に流れる沈黙が物凄く気まずい。私の気持ちを察したのか蓮二は「まずはレギュラー陣の名前と顔を一致させることから始めた方がいい。あとで紹介してやる」と言ってベンチから立ち去ってしまった。
蓮二は私が部活へ溶け込めるよう、よくしてくれているのに。きっと蓮二から見た私は、自分にだけ素っ気ない態度をとっているように見えているんだと思う。どうにかしなくちゃいけないのに、いざ彼を目の前にすると上手く言葉が出てこない。そんな自分が情けなくて悲しくて、私は重く息を吐いた。