++ぼくはきみの一番じゃない/花園百々人、桜庭薫



※横恋慕っぽいももひと


 ぴぃちゃん、居る?、声がしんと静まり返った部屋の中に溶ける。
 強烈な西日が窓から差す。夏の体を痛めつけるような日の強さではなく、揺蕩うにはちょうどいい暖かさだ。事務所の中がオレンジ色に染め上げられている。いつも見ている事務所じゃないみたい。小さな埃の粒子がふわふわと漂っているのが見えた。
 コーヒーのにおいがあたりに充満している。ぴぃちゃんが毎朝出社したら淹れる。誰でも飲んで良くて、よく他のアイドルが事務所に来たときに注いでいるのを見かける。友達から貰ったお菓子をぴぃちゃんのデスクに広げると、ぴぃちゃんはその場で少し伸びをして休憩にしましょうかと言う。ブラックコーヒーも飲めるのに、ぴぃちゃんは決まって温かい牛乳とひと回しはちみつをコーヒーの中に入れて僕に差し出す。

「ぴぃちゃん……?」

 事務所に居ると思ったのに、おかしいなと思いながら事務所の扉を静かに閉める。
 僕たちの歓迎会ということで、これから事務所近くの洋食屋さんを貸し切りにしてご飯を食べに行く。各々お仕事やレッスンがあるから現地集合で、ぴぃちゃんは雑務をしてから行くと事務所から直接向かうと全体チャットでメッセージを送信していた。その歓迎会まであと30分。事務所に顔を出せば一緒に行けるかと思って顔を出した。
 いつも騒がしいぐらいのこの場所が、あまりにも静かすぎて本当にここが315プロダクションの事務所じゃないように錯覚する。ゆっくりと足音を押し殺して歩く。事務所の鍵が開いていたということは誰か居るはずだ。不思議に思いながらぐるりと中を回るように歩こうとすると、んん、と身じろぎをする声が聞こえてびっくりする。慌ててそちらを見ると、ぴぃちゃんがソファに横たわって眠っていた。
 ぴぃちゃんのこんな姿は初めて見たかもしれない。近くで観察しようとソファに近づいてしゃがんで彼女の表情を観察する。
 西日の眩しさからか眉間に皺が寄った。それでもぴぃちゃんは、んにゃんにゃと寝言のようなものを口にするとまた眠りに落ちる。いつも一つに縛っている髪の毛は押しつぶされてぐしゃぐしゃになっている。いつもはキリッとしている姿からは想像できないほど無防備であどけない寝顔だった。ぴぃちゃんのやわっこい手が腰のあたりにかけられた紺色のジャケットを手繰り寄せる。んんん、と再度猫のように唸った。ブラウンのまつげの先端がだまになっている。日の光に当たったぴぃちゃんの髪の毛はいつもより随分と明るく見えた。ぷっくりとした唇はグロスが取れて、薄い桃色がよく分かった。
 触りたいなと思った。いつも隙のないぴぃちゃんが、こんなに無防備なことはこれ以上ないかもしれないと思うとなおさら余計に。

「──名前さ、」
「花園くんか?」

 伸ばそうとした手がびたりと止まる。声のする方をバクバクと拍動する心臓を抑えながら見ると、給湯室の方にワイシャツ姿で腕まくりをした桜庭さんが居た。
 整頓をしていたら気がつかなかった、と彼が添える。

「もう少し寝かせてやってくれないか。最近だいぶ忙しかったからか疲れているらしい」

 ぴぃちゃんから離れる。人の気配には敏感なはずなのに、桜庭さんが居ることには全く気がつかなかった。それだけ彼が物音を立てないように気遣っていたのかもしれない。

「んん……、まぶし……さくらばさん、今なんじ」
「17時32分だ」
「あと少ししたら起こしてください……」
「分かった」

 微かな寝息の音が聞こえる。職業柄かすぐ眠れるんだ彼女は、と桜庭さんは笑みながら言った。

「花園くんはどうしてここに?」
「忘れ物、しちゃって」
「もしかして場所が分からないのか? それだったら僕たちと一緒に……」
「いえ、場所は大丈夫、です。下に眉見くんと天峰くんがいるので、一緒にいきます」
 
 そうか、と彼が頷く。君たちが主役だから早めに行った方がいい、と続けた。会場で会いましょう、と来たときと同じようにドアをゆっくりと開閉させた。
 カタンカタンと音のする階段を一段一段降りていく。下には眉見くんも天峰くんも居ない。嘘をついた。二人の間に入れると思わなかったから。
 なんか、少しだけショックだ。心臓を人の手でそこだけ圧されたような感覚だった。ぴぃちゃんは僕にはあんな風に頼みごとをしないけど桜庭さんにはするんだ。
 いつも見るぴぃちゃんの背中は頼れる大人の背中だ。ぴんと背を張って、毅然とした態度で、正しくて。弱いところなんて見たことがない。たぶんぴぃちゃんは僕らに見せないようにしている。だってそんな姿を見せたら、僕たちが不安になるから。
 でも桜庭さんにはそういう姿を見せている。神様みたいな彼女の姿じゃなくて、ただの人間みたいな姿を見せている。僕が大人だったら、僕がもう少し早くアイドルをしていたら。年齢も信頼も足りてない。この差は一生埋まらない。
 ぴぃちゃんにかけられたジャケットも桜庭さんの。ぴぃちゃんがどこでも眠れるのを知っているのは何度も見てきているから。それを気がつけないほど鈍感じゃない自分が恨めしい。
 
「くやしいなあ……」







20211106



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