++海にとけて消えたい


 最近何となく調子が悪いのは季節の変わり目だからだ、と思い込んでいた。自身の不調を信じたくなかったのかもしれない。少し熱っぽいのも忘れっぽくなっているのも、きっと季節の変わり目で疲れやすくなっていることと、仕事の疲労が溜まっているからだろうと自身に言い聞かせた。しかし自身が担当するユニットのアイドルの名前が思い出せなくなったとき、これはただの不調ではないと悟った。ステージ袖で彼を呼び止めようとしたとき、名前を呼ぶことが出来なかった。喉のすぐそこまででかかっているのに、名前が出てこないのだ。顔だって声だって分かる、何年一緒に仕事をしてきたと思っているのか。ようやく口から出てきたのは空気を鋭く吸う音だけで、独りでに青ざめた。その日は笑って誤魔化したが、仕事が終わった後にすぐに総合病院の診察を受けた。

「……まさか自分がかかるなんて」

 すでに辞表は出した。
 社長は呼び止めてくれた。だがそれを振り切って仕事を辞めると言った。自身の担当するアイドルの名前を忘れるなど、それはプロデューサーとして失格だと思ったのだ。
 医者からは、治る見込みは無いと言われた。徐々に徐々にこれから悪化するばかりである、そう言われ目の前が真っ暗になった。この仕事を続けることができるのか。仕事だけではない、すぐに普通の生活すら送ることがままならなくなる。近い将来、私は彼らの顔すらも完全に忘れてしまうだろう。仕事にも大きく支障が出る。そんな醜態を彼らの前に見せるぐらいなら、消えてしまった方がましだと思った。
 辞表を出した時、社長に一つお願いをした。「病のことは伏せて、アイドルたちのことが、この仕事が嫌いになったから事務所えて欲しい」と伝えた。社長は分かった、と応えた。今まで見たことが無い苦々しい表情をしていた。最後にわがままを言ってしまったことは重々承知している。だけれどこれぐらいのことをしなければ、彼らは追いかけてくるし、私は自分自身の弱さに負けて戻ってきてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
 彼らを呼び止める際に困らないように、と手の甲に小さく彼らの名前を油性ペンで書いている。毎日褪せないように油性ペンで書いていたそれとも、今日でお別れだ。寂しくて、手の甲をそっと撫でる。
 デスクの上にも私物は何も無い。あとはもう、事務所の扉をくぐって出て行くだけだ。
 あと一歩、踏み出すだけでいいのに、涙で視界が溶けて、足が震えて踏み出せない。私は自身の手をぐっと握った。ここで奮い立たせなければ、この事務所を出ていく決意が消えていきそうだった。
 本当はもっと一緒に居たかった、彼らをトップアイドルにするまで、ずっと一緒に。その光り輝く軌跡を、近くで見ていたかった。彼らのプロデューサー、と私を慕う声はもう一生聞くことが出来ない、そう思うと大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちる。



 身体機能の低下や怠さから始まる。徐々に身体機能の更なる低下とともに、身の回りの物や人の名前を忘れていく。そうして最期には身体は酷く衰弱し、呼吸の仕方も自身の名前すらも忘れ、死に至る病。自然治癒することは無く、特効薬も無い。ただ忘れていく過程を自身の意識があるまま辿っていく奇病。それにあなたは煩っていると、治る見込みはまずないと。医師からの宣告は、無慈悲なものだった。
 これからどこへ行こうかなど決めていない。部屋の解約を終えて、家具や電化製品の一切を処分した。一度実家に戻ろうと思ったけれど、何だかどうでも良くなってしまった。そうだ。海だ。海に行きたい。いっそのこと海の底に沈んで、死んでしまうのもいいかもしれない。自暴自棄とはこのことだな、と私は一人でにあざ笑う。失う物は、何もなかった。








20170910 


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