「桜庭さん、鍵どこにあります?」
「……んん、」
こんなに酔った彼は初めて見る。桜庭さんは自分の許容量は弁えているし、そもそもアルコールに強い節があるので、いつもは平然とした顔でグラスを傾けているというのに。今日ようやく彼が出演するドラマがクランクアップしたこことから行われたお疲れ様会。ドラマの撮影は早朝から深夜まで行われたこともあり、休まる所が無かったに違いなかった。普段は自制する彼も、今日ばかりは些か飲み過ぎてしまったようだった。
言葉にならない言葉が返ってくる。ふにゃにゃしている彼が珍しくて、可愛らしいと思う反面そんなことを言われても分からない。彼の体重がかかった肩は今にでも外れそうで、確かいつもは鞄の内ポケットに入れていたはずだと思いながら鞄のチャックを開けて鍵を取り出した。
がちゃがちゃと鍵を回してドアを開ける。彼の家に入るのはこれが初めてでは無いけれど、なんだか妙な気分だ。
「桜庭さん、家着きましたよ。一人でベッドまで行けますか?」
「……無理だ」
「えー……」
タクシーに乗ったとはいえ、ここまで成人男性を運ぶのも中々骨が折れるものだった。ここから靴を脱がせてベッドに運ぶとなるといったいどうすればいいんだろう、と立ち往生していると、名前、と彼から名前が呼ばれる。それにいったいどうしたものかと顔を上げれば唇が重なった。
いつもよりも赤みを差した頬や首筋。愛おしげに私を見つめる目。私の肩に乗せられていた腕が無くなって、いつの間にか私の顔が両手で添えられていた。唇と唇が軽く触れあうだけのキスが続く。最近は忙しかったからこういう行為ともご無沙汰だったなあ、と享受していると、その反応を良しとでも思ったのか、彼は目をゆるりと細めながら、舌先を私の唇に押し当てた。開けて欲しいという合図だ。玄関先、ましてやドア一枚隔てて誰かが通るかもしれないこの場所で、そして舌まで入れたら絶対キスだけじゃ終わらないから終電を逃す、と思って頑固に唇を閉ざす。しかし彼はそんな私への対応を心得ているようだった。顔に添えられていた彼の両手がするりと背中から下りていく。そのゆっくりと熱を持った手がじわりじわりと下へ向かっていく感覚に背筋がぞくぞくとした。ぴん、真っ直ぐになる背中。彼は私のそれに口角を上げたように見えた。腰へと手が伸びていき、やがて彼が腰を抱き寄せたせいで彼のお腹と私のお腹がぴったりとくっつく。ワイシャツの裾から彼の指が侵入してきたことに驚いて唇が緩んだのを彼は目敏く反応した。ぬるりと厚い舌が私の口に侵入する。アルコールのにおいががより濃く感じられて頭がくらくらしてきた。
「さ、くっ……!」
「ん、」
舌を絡みとられる。奪うように唾液を嚥下する音。喉仏が動く。決して逃げられないように後頭部を押さえた手と腰に回された腕。見上げた桜庭さんの顔は私の反応を逐一楽しんでいるように見える。舌が歯列をなぞり、歯の裏や私の舌を確かめるように舐める度に彼の目が妖艶に細められる。彼のアウターを握りしめる。脳みそがふやけていく。涙でぼんやりとしてきた視界、膝が覚束無い。崩れ落ちそうになるのを彼ががっしりと支える。
ようやっと唇が解放され、私が息を乱しながら、桜庭さん、と彼を非難する。今なお密着しているせいで彼の顔がすぐ見上げた先にある。息を切らした私とは対照的に彼は飄々としていた。
「名前」
「?」
「下の名前で呼んでほしい」
絶対薫さんとは呼んでやらない。私が意固地に口を噤んでいると、またしても触れるだけの口づけが落ちてくる。君も頑固だな、そう彼が喉の奥で笑う。先ほどのふわふわとした彼とは打って変わって、きちんと呂律が回っている。まさか、と思いながら彼を見れば、意地悪くにやりと口角を上げる。
「もう終電には間に合わないな。泊まっていくと良い。幸い君のものは置いてある」
「一杯食わされた……」
「明日は僕も君も休みだろう。最近はてんで時間が無かったから、先ほどの続きがしたい」
良いか、と言われて拒否出来ない。それでもはい、とは簡単に言うことが出来なくて唇を引き結んでいると、彼がひょい、と私を持ち上げた。腰を抱き上げられ、抗議の声を上げる聞く耳も持たずに私のパンプスを脱がしていく。足をばたばたとするけれど、彼はそれを躱すのも得意だ。自身の靴も脱ぎ捨てるとリビングを抜けて寝室へと。私をベッドに下ろし、私が起き上がるよりも先にしゅるりとネクタイを緩めた。僅かに開いたリビングへ続く扉から光が漏れる。
嫌か、彼が尋ねる。嫌って言ってもするくせに、私が未練がましく言うと、彼は君がそう言うならしないさ、と返答する。絶対明るくしないでくださいね、私はすっかり捕食される前の草食動物のような心地で言った。ああ分かっている、ぎしりとベッドが軋んだ。
20170626