湯船/桜庭薫
急に立て込むように入ってきた案件をなんとか処理して、急いで終電に乗り込んだのがついさっき。ああ寒いと借りている部屋までの道を足早に歩きながらスマホを見ると、彼からの、何時に帰ってくるんだ、そのメッセージが二時間ほど前に届いていたのに気が付いてさあっと顔が青ざめる。全然気が付かなかった、急いで返信するとすぐに既読がついて更に顔面蒼白である。今どこにいるんだ、その問いがすぐに来て、もうマンションが見えていたのでその旨を伝えると、分かった、との返答だ。この絵文字も何もへったくれもない返答がこんなにも恐ろしいと思ったことはない。忙しかったとは言え、何も反応しなかったの流石にやばいし、今まで待っててくれたってことだよなあ、と思うと彼に対して面目ないと思ってしまう。
がちゃりと鍵を開けて部屋の中に入る。外の凍てつくような冷たい外気とは打って変わって、中は暖かかった。
「──おかえり」
「ただいま戻りました……」
室内でのラフな格好に着替えた彼が出迎えてくれた。がちゃんと鍵をかける。
「メッセージ本当にすみません……気が付かなくて……」
「連絡だけは入れろだとか、せめて電車に乗る前にメッセージを見ろだとか、色々と言いたいことはあるが、ひとまずお疲れさま」
「はい……」
「ひとまず風呂に入れ。君のことだ。一度座ったら最後そこで寝こけるだろう。もう入れてある」
「うわありがとうございます薫さんすき……」
薫さんが私の手の荷物をひょいと取り上げる。それにお礼を言いながらパンプスを脱ぐ。
せっかく明日は、二人ともお休みなのに。今日は早く終えれるものと思っていたから、夜に録りためたバラエティや映画を見てゆっくりしようとしていたのだ。予想外に遅い時間となってしまったことにちょっとへこむ。
ジャケットをハンガーに掛けて、すぐに行けと急かす彼にはーい、と返事をしながら、着替えとタオルを持って脱衣所に向かう。洗濯機の上には入浴剤が一つ。柑橘のにおいがするやつ。薫さんの優しさが心に染みる。無心で髪の毛を洗って、しっかりとトリートメントをする。洗い流して一旦拭いたあとそのまま軽く髪を結って、スマートフォンを持って湯船に浸かった。入浴剤がしゅわしゅわとした音を立てる。いいにおいがする。
縁に頭を預けながら画面を見る。メールのチェックしなきゃ、今日コンビニでご飯を買ったから帳簿つけて、あと明後日出勤のときに今日の領収書の整理もしなきゃいけない。やることがたくさんある。頭の中でごちゃごちゃと考え事をしていると、疲労も相まって眠気が勝ってくる。温かいし心地よいしで身体が弛緩する。ああこれ寝たら二十分くらいは時間消える。だけれどお風呂でのうたた寝も心地よいもので、瞼が下がっていくのだ。
「……──! 名前!」
ああ薫さんの焦った声なんて聞くの久しぶりだ。だんだんと意識が覚醒してきて、眠る前に自分がどこで何をしていたのかを思い出してくる。
「──え?!」
そうだ私は湯船で気持ちよくうとうとしていたはずで、それなのにどうして薫さんの声が聞こえるのか。ぱちりと目を開くと、彼が切羽詰まった表情で、湯船から私を引き上げようとしていた。びっくりである。
「うわあスマホ!」
手に持っていたスマートフォンもついでに湯船の中に落としていた。それを急いで引き上げると同時に、薫さんの久しぶりの君は馬鹿か!、という怒号が聞こえた。服を着たまま私を引き上げようとしたせいで、ぐっしょりと濡れていた。
「風呂場での死亡事故の数を知っているか。年一万件を優に超える。その大半は湯船で気絶して湯に顔が浸かって息が出来なくなることからなる」
「あはは、まさか。だって私寝てただけですよ?」
「笑い事か? 肩まで湯船に浸かると水圧で心臓が押されて血圧が低下する。更に長い時間入っていると、皮膚の血管が広がって血圧が落ちて、脳に血液が行き渡らなくなった結果、神経が働かなくなり、失神寸前になる。入浴中に気持ちがよくてうとうとしてしまうのは眠気では無く、失神寸前の状態だ」
背筋がぞわっとした。冷や汗が垂れる。
そんな私の顔を見て、はあ、と彼が嘆息した。水を持ってくる、と浴室を出ようとする。それに大丈夫ですよ、と言えば、入浴する前に十分に水分を摂っていないだろう、とぴしゃりと言われた。
20171229
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