時の流れを表す名をつけた。
名前は生まれた子への最初の贈り物だという。たった数音、たった数文字にどこまでの祈りを込められただろう。何も知らなくて、何もかもを知ることができる可愛らしい我が子。丸い目がきらきらと輝いて、少し前の季節の柔らかい陽射しのようだった。どうか明るい未来を歩んでほしい。幸せになってほしい。大人のこころなど知らないままに笑って手を伸ばす子をそっと撫でた。この子より先に生まれた私にはいくら願っても足りないほどの思いがある。

後悔ばかりの人生だ。私は本当に平凡な人間だった。
平凡という言葉は少し違うかもしれない。術師である以上、道行く人々と私たちとは異なる。見えないものが見えそれに干渉することができる。呪いを呪いでうち祓い非術師たちを守る。音だけ聞けば高尚だ。それで終われるのなら私たちはきっと英雄なのだろう。
術師でいる限り見なくてもいいものは見えてしまう。恨みつらみ、妬み嫉み。人の心の汚れたところ。それこそが元凶なのだから当然だ。人の思いは良くも悪くも強い力となる。その恐ろしさを私はわかっていた。わかっていたつもりだった。
何度も同じことの繰り返し。祓って守って、失って。嵐の前に散って行った花は数え切れないほどだった。その嵐こそが守るべき人たちから投げかけられたものだったから、私の心はある時ぽきんとおれてしまった。死にたくない。誰にも死んでほしくない。誰かが死ぬところを見たくない。私が手を伸ばさなかったが為に誰かが死んでしまうより、伸ばした手が届かずに終わるのを見る方が恐ろしかった。もしかしたらそれは、人を呪わばの言葉の通りに当然の因果だったのかもしれない。
だから、平凡だ。徹することもできなかった、ただの人間だ。人の腕の中で泣いて、立ち直れなくて蹲った。みっともない只人を抱きとめてくれた人の側で、与えられたものから目を逸らし普通に生きていこうと決めた。
優しい彼のいる場所は、あの御三家の一つだった。代々従者として仕える家系の長男が彼だ。彼と共にいる以上この世界から足を洗うことはできないけれど、それでもよかった。少なくともこの家の中で誰かが死ぬことはない。私より先に誰かが誰かを助けてくれるから力持つもののふりをしなくてよかった。悪意もあれど以前の比ではない。コントロールされた感情は私を襲わない。はみ出しものの非力さを名家の人々は歯牙にも掛けない。直系ならともかく、従者の妻などいるもいないも同じなのだ。誰にでもできることを淡々とやり続ける。ひっそりと影で息をする。彼がいるからそれでいい。彼と彼の主人たちが生きるための場所を整える。愛する人を愛して、日々を過ごして。

そして、命を授かった。
女の子だった。とても元気に生まれてきてくれた。冬の雪が枝に積もってきらきらと輝く日の朝だ。長い時の流れを、幸いとともに生きてほしいと三文字の名前をつけた。真っ赤な頬も小さな指も、丸い瞳も何もかもが愛おしくてたまらない。
滲む喜びと共に、いつかこの子も呪いと相対する日が来るのかと思うと空恐ろしかった。定められずとも、この子自身が正義感で誰かのために立つ道を選ぶかもしれない。その先でこの子が呪いに蝕まれたら。悪意に食まれ、心を砕いた果てに命を落としたら。こんなにも無垢で、こんなにもきれいな命なのに。
その時が来る日がただおそろしい。それでも私はまた目を伏せた。この子が術式を自覚するまでまだ時間がある。あの人は優しいからきっとこの子の意思を汲んでくれるだろう。柔らかい頬に触れればきゃあと笑うような声が上がる。誰よりも幸せになってほしかった。私のような痛みを知らないまま、本当の意味で普通の幸せを生きてほしかった。それだけが叶えばなんでもいい。
そんな私の、呪いじみた祈りが全てを変えたのかもしれない。


私の目の前に膝をついて、赤子に指をそっと握られている。冬景色の色彩を持つ彼はこの家はおろかこの世界の全てにおいて一番に立つであろう人だった。特別な目と特別な術式、数百年ぶりの才能。この歳でもう命を狙われていて、そして誰も彼を倒せない。まだ子どもなのに誰もそうは扱わない。そんな彼が、顔見せにと連れてきた子のそばに寄って頬や指に触れているのが年相応で微笑ましい。
全てを見透かす瞳がじっと赤ん坊を見つめている。見つめられている子は指を握りしめたままきゃあと笑い声を上げた。よく笑う子だ。よく泣きもするけれど。話をしている夫の迷惑にならないよう、よかったねえと小声で声をかける。返事をするように彼女はうふうふと笑った。ふくふくした頬が気になったのか、彼はまた頬をついついと突く。餅とか、求肥とか、そういう柔らかなものを集めたような頬。ぱち。開いた子の目が彼の方をみる。黄色と水色の、一瞬の交差。

「こいつ、何もない」

彼が放った言葉は、確かにその場の時を止めた。
「呪い、見えてない。術式もない」
「は、……」
冷たい氷を。
心臓に、撃ち込まれたような心地だった。
何もない。呪いが見えない。御三家に仕えることを生業とする一族の、長男の第一子が、呪いが見えない非術師。
ここで生きていく人間に、それはあまりにも残酷な宣告だった。
「悟様」
向き直った夫が彼を呼ぶ。
「お言葉ですが、娘は術式を自覚する齢にはまだ、」
「ウソだって思いたいならそうすれば?」
「……」
黙ってしまった彼の唇は固く結ばれていた。ただの子どもの冗談ではないことを、彼は知っている。
漠然と、思った。私のせいだ。因果は追ってくる。一度でも誰かを呪った私のことを、それは許さなかった。
だからって、この子のことを呪う必要はなかったでしょう。
水を打ったような部屋の中。きゃ、と声が上がる。何も知らない我が子はひどく嬉しそうにずっと握りしめたままの指を揺らしている。こんなにも無垢で、こんなにもうつくしいのに。視界が揺れて歪む。ただ泣いてしまいそうだった。
「俺が教える」
小さな手を彼の親指がそっと包んだ。水色は円く、「何もない」子を映している。
「俺がみる、こいつのこと」
「さとる、さま」
「だから余計なことすんなよ。呪いのことも、ほかのことも、なんにも教えなくていいから」
こいつのことは俺が決めるから。
子どもの、特有の傲慢なセリフだと笑うところだろうに、私はその言葉の全てが救いだった。母の涙も、父の安堵も、目の前の彼の、その言葉の意味すら知らない子の道行きが一つ、定規で引かれたように定められた。それでもその先に暗澹と破滅がないだろうと、何故か思えた。
柔らかな光が差し込んでいる。冬の陽は淡く透き通っている。何もかもが眩しくて優しくて、ただそんな光景を、幸いと思えるような人生であれば。この子の瞳が映す世界の、その傍にこの人がいてくださるのなら。それでいいと思えた。



In dim and distant past
遠い昔に


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