結局何もかも分からず仕舞いだ。

大好きだった。そのために何もかも捧げていいと思えるほどに大好きだった。私を決めず、私を定めず、ただ自由に生かしてくれた人。困ったように笑いながら私を抱きしめてくれた人。心の底から大好きで、彼がいないなら何もかもがどうでもよかった。あの春の日に芽生えた気持ちは変わらず、寧ろどれだけたっても鮮やかに咲いたままだった。水だってもうずっとやっていない。十年経っても咲いたままの忘れ形見。

「戻れないのよ」
何度言い聞かせても、それは首を傾げるだけ。
「もう戻らないの」
そんなことはないでしょう。ひどいことをいうのねとそれは拗ねて膝を抱えてしまった。少女だった頃の想いはいつまでも素直で我儘で、この現実をいつまでも認めたがらない。可哀想な私、死ねない私。貴方が殺してくれなかったから、今日この日までずっと生き続けてしまった私。

彼は去った。私のもとからも、皆のもとからも。たくさんの命を奪ったと聞いたけれど、そんなのどうでもよかった。誰が死んだとか、それが何度か会った彼の肉親だったとか、そんなこと、どうでも。ずっと待ち続けていた。追いかけようにも探し出そうにも彼はどこにも見当たらなかったから、だから、待つしかなかった。一年経って、二年経って、幾年経って。自分を諦めさせるために名前を変えた。もうおしまい。幸せな夢とはお別れと、それがいた場所に鍵をかけた。投げかけられる寂しい視線を見ないふりをした。

家を出てなんとなく生きた。時間をただ過ごした。皆が大人になったから私もそうした。来てくれないことを、うまく諦められるようになった。大人になるということはきっと諦めが上手くなることなのだと思う。何もかもがどこか遠くて、ひとごとのよう。腫れ物のように扱われることも無くなって、でも誰もそこには触れない。私も触れない。治らないままの傷の存在をうまく隠せたし、隠したことすら忘れていた。

忘れていたのに。

「澄麗」

誰も呼ばなくなった名前を呼ぶ声を、確かに私は知っていた。覚えていた。だってずっとそれが聴きたかったのだもの。ずっと呼んでほしくて、迎えに来てほしくて、望んでいたものだったから。大人になった彼の見慣れない格好を、どうしたのと訊ねる余裕はなかった。ずっと何をしていたの、どこにいたの。あの時何を考えていたの、今は何を考えているの。
どうして私を置いて行ったの。
「全てが終わったら」
何にも言えない私の前に立つ彼は、
「迎えにいくよ」
そう言ってまた背を向けた。

閉じたはずの部屋はまだそこにあった。少女の私は私の前に立って恨みがましい目を向けてくる。そんな目をしないでよ、私だってもう二度と会えないんだってそう思っていたのだから。だから今日までずっと忘れたふりをし続けたのに。
迎えにいく。
待ち望んだ言葉の前で私は無力だった。形ばかり整えた力を捨てて、背負ったふりをした責務を捨てて、すすんで閉じこもることにした。本当はずっと選び取ることも諦めることもできていなかった。ずっと心残りを引き摺って、その果てに出した小さな結論は全てに向かって無責任なもの。私を叱らない人たちのなんと善良なことだろう。その幸に泥を塗るような真似をしているのだと、理解しても手足は動いてくれなかった。

誰も来ない部屋の中。時計は置いてきた。目を閉じて腕に顔を埋め、ただ待っていた。彼が迎えにきてくれるということは、この十年私の近くにいてくれた人々が皆消えてしまったことを指す。どうなりたいのか、どうなって欲しいのかずっと分からなかった。人の死よりももっとひどいものを望みながら待っていた。時か、私の心臓のどちらかが止まって仕舞えばいいのに。そうしたらこれ以上望むことも願うこともしないで済む。誰かを遠回りに呪わずに済む。汚れていないなんて言うつもりなはい。始まりが綺麗だったはずの想いが私の首を、心を締め付けるのが耐えられないだけ。
きっと、死んでしまえばよかった。殺してもらえずとも自分でこの命を断ち切ってしまえばよかった。もっと遠い昔にそうしておくべきだった、だってずっと死んだも同然だったのだから!綺麗に終われなかった私を、綺麗でいられなくなった私をどうして彼はまだ迎えにくると言ってくれるのだろう。こんな風に成り果ててしまったのに。きっともう戻れないのに。貴方が、きっと愛してくれていたであろう私では無くなってしまったのに。
それでも待った。
待ち続けた。

心の中の想いがどろどろに溶けて、形を無くしてしまった頃。

昏い部屋の戸を開けたのは、彼でなく。
その瞬間に、何もかもが抜け落ちたように思えた。

ねえ、言いたいことがたくさんあるわ。話したいことも、たくさんあるの。貴方に笑って欲しかった。抱きしめてほしかった。貴方のこころの内側を覗くこともできなかったくせに、まだ貴方を求めてしまう私を許してほしかった。いつだって私は自分のことばかりで、それでも私は貴方がせかいでいちばん大好きだった。選ばなかったのも、叫ばなかったのも私だって今ならわかるけれど、本当は誰よりも私が弱いこと、貴方は知っていたでしょう。恨み言のようだと笑ってくれるかしら。ああ、それでもね。こんな弱虫の私でもね。
ただ、私はただ。

「終わったのね」
「うん、終わったよ」

貴方が手を引いてくれたなら、どこへだって行けたのよ。


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情交と街