
オフィスパロ
『今晩あいたい』
短いメッセージがひとつ。たったそれだけで私の心は跳ね上がる。いつもより丁寧に髪を纏め、帰らなくても平気なようにポーチの中身を入れ替えた。お気に入りの服と靴に、とっておきのコートを羽織る。そうして家を飛び出した私の脳内はすでに退勤後のことばかりを考えていた。
夏油傑くん。
私と同じ会社に勤めている、私の恋人。
付き合っていることは公表していない。それとわかるような素振りも見せていない。彼も私も、仕事とプライベートは分けたいタイプだったから。だから会社では苗字で呼び合うし、ただの同期、ただの同僚として接している。週に何度か会社の最寄りから数駅離れたカフェで会い、密かにデートをするのが私たちの「いつも」だった。会う日はどちらかが誘いをかけた日。そして彼は大抵朝から連絡をくれる。私の用意があるからと気を遣ってくれているそれがいつしか心待ちになって、目覚めが良くなったのは秘密。
『何時ごろ終わる?』
了承を伝えてから数分。駅のホームでメッセージを送って気付く。今そんなことを聞いたってどうしようもないだろう。バカだと思われてしまったかもしれない。まあ彼ならそう思っても口に出さないし、そういうところが好きではあるけれど。既読。返事はない。当然か。繁忙期だし、優秀な彼のところには仕事の方から勝手にやってくる。こんな朝ではきっといつ帰れるか読めない。スマホをポケットに仕舞い込んで電車に乗った。
揺られ揺られて数十分。夜に想いを馳せ目を瞑る。開いた扉の向こうの人並みも気にならないまま、彼以外にはウケの悪いヒールで軽やかに踏み出す。見慣れた通勤路もこんなに華やかで楽しいものに思えるのだから私も相当だ。いつもより人が少ないフロアを見てはじめて己の早足を自覚する。
デスクに向かう道すがら離れた座席を見る。モニターにのめり込む広い背中の向こう、堆く積まれたファイル、ファイル、ファイル。残業確定だ。傑くんが残るなら、私も残ろうかな。話せなかったとしても同じ空間にいられるならその時間は長い方がいい。彼の、仕事をしている時の真剣な眼差しが大好きだから、できればそれを盗み見たり、したいし。
席に着く。取り出したスマホの画面がちょうど光る。通知がひとつ、ふたつ。
トークルームには何かのリンクとまた、短いメッセージ。
『部屋を取っておいたから、先に入っておいて』
真意を問いただす暇はなかった。彼とは目も合わせられなかった。余計な残業をせず慌てて退勤し、間違いがないか何度も何度も確かめて電車に飛び乗った。仕事でもこんなに確認しないのに、いや、する必要がないのだけれど。そうしてたどり着いた受付で彼の苗字を伝える。無事にキーを受け取って部屋に向かった。
指定されたのはいつもと違う駅の近くのシンプルなビジネスホテルだった。出張で泊まるようなものよりは少し高いような気がする。内装、綺麗だし。カードキーを押し当てて入った部屋はやっぱり少し広かった。ベッドはダブル。彼と泊まるのは別に初めてではないし、触れ合うのも、抱かれるのも何度もしていること。でも彼不在の空間でひとり待つのは初めてだった。
いつも成り行きに任せていたから。食事をしたり、お酒を飲んだりしてから気分で、雪崩れ込んで、なし崩し。それが今日は先に一人でなんて。ああどうしよう。シャワーは浴びておけばいいのかな。でも期待しているみたいではしたないかしら。シャワー中に彼が来たらどうしよう。待たせてしまうかもしれない、彼がきたら開けてあげないといけないのに。
迷っている暇はないけれど、どうしていいか悩みっぱなし。だってそうでしょう、好きな人によく思われたいもの。彼にとって一番いい私でいたいもの。そう考えると汗をかいていないかが気になってきた。においがしたらどうしよう。もういい、はしたない子と思われる方がまだましだ。さっさとシャワーを浴びてしまおう。そう思って、シャワールームに走った。
結果的に、それは大正解だった。
髪を乾かしてしばらくしてから、呼び鈴が鳴った。バスローブの前を寄せて扉を開ければ、顔を見るなり彼が倒れ込んできた。成人男性の、それも平均よりもしっかりした体を支えられるほど私は強くない。ぐるり、天井を見上げる私の向こうで扉が閉じる音がする。傑くんはといえば私の肩に顔を埋めたままぴくりとも動かない。大きな手が私の後頭部に添えられている。きっと頭を打ってしまわないようにだ、こういうところも大好きなんだけど。
「傑くん」
「……」
「傑くん?」
返事の代わりに彼の顔が上がる。眉は寄せられて、目の下には少しクマができてきて。
「傑くん、どうし、」
「澄麗、」
どくん、心臓が鳴った。いつもより掠れた声。疲れた顔。申し訳ないけれど、それを少し色っぽいだなんて思ってしまった自分がいる。
「つかれた」
言葉とともに、前髪が一房はらりと落ちた。ああ、これは相当だ。私の前ですら取り繕うことをやめるほど、骨身の全てが草臥れているんだろう。でもいつまでもこんなところにいるわけにはいかない。こんな扉の前でじっとしていないで、その先で休んだ方が彼にとってもいい。
「奥で休みましょう、ほらもう少しだから。歩ける?」
「うん」
彼は身を起こし、ついでとばかりに私の体を持ち上げた。急に高くなった視界が中身を放り出したまま倒れている鞄を捉える。彼らしくもなく、ばたばたと上がって来たんだろう。書類が折れてしまっている。いつもならきちんとクリアファイルに入れて、整理整頓するのに。ああ、それが私に会いたくてたまらなかったからだとしたら私、とても嬉しいのだけど。
私をベッドに横たえた優しい手は、己のネクタイを乱雑に抜き取って放り投げた。荒れてる。シャツやスラックスに皺ができるのも気にせず彼は私の隣に寝転んだ。そっと、キスをする。そのまま抱きしめられて、視界に白が広がる。
「もう働きたくない」
彼の匂い。
「珍しいわね、そこまで言うの」
「今期はかなり辛かった」
「貴方のことだから、ちゃんと終わったんでしょう?」
「終わったよ。でもね、そうなると今度は全部私行きさ」
ああ、貧乏籤。いつでも人の良い有能は迷い案件の駆け込み寺になる。彼もそうなのだろう。できるから任せよう、一人でも大丈夫、ついでにこれもやっておいて。捌けてしまうから文句も言えない。頼れる若手であり先輩であることは彼の首を絞めに行く。
彼は仰向けになる。私は抱き寄せられたままだから、自然腕枕をしてもらう形になった。簡単にまとめただけの私の髪を、後頭部に回した指の先で遊ばせながら彼は続ける。
「澄麗、温泉に行こう」
「温泉?」
「どこでもいいよ、近場で」
断る理由がない。
「行きましょう。それで、いつ?」
「来週」
思ったより近かった。頭の中でスケジュール帳を捲り、確認。セーフ。
「しゅ、週末は空いてるわ」
「よかった」
温泉、温泉。もしかしたら、彼と旅行らしい旅行をするのはそれが初めてになるかもしれない。そっか、温泉。せっかくだから広めのお宿がいいな。旅館、和食を食べられるところがいい。彼はどういう場所がいいのだろう。秘湯?それとも温泉街が発展しているところ?
考えながら視線を上げる。見透かすような目と目が合う。
「君とふたりがいい、ゆっくりしたい」
……ああ、駄目なのよこれ、本当。何も考えられなくなるから。ずるい人。
ベッドの上で彼は身を起こした。促されて、彼の膝の上に向かい合うように座る。もう一度、抱きしめ合う。私しか知らない彼の姿。見た目を整えることも気遣うこともやめた彼の、少しだけ子どもっぽくなったような顔。それでもどこまでも優しい手、温もり。男の人のにおい、彼の香り。
「帰ってきた家に君がいたら、どうだろうって思った」
「え?」
「凄いね、覿面だよ」
それは、どういう。
「君と、私たちの子どものためなら、いくらでも頑張れる気がするな」
「は、」
がばっと音が鳴りそうな勢いで上体を剥がした。愉快そうに細められた目を見ながら言葉を反芻する。それって。それって、そういうこと?
「冗談だよ」
「……本気にしちゃうわ」
「してくれてもいいよ」
「もう!」
「そうだな、君が本気にしてくれるなら、先に事実でも作ろうか」
ご両親は怒るかもしれないね。そう嘯きながら、彼の手は私の襟元にかかる。そんなこと言って、本当はあの人たちのことなんてひとつも怖くないくせに。そして、それは私も同じ。
次に降ってきたキスは深くて甘かった。こうなってしまったら後は流されるだけで、私はずっと幸せだ。面倒なことを全部忘れてただ触れ合うだけの秘密の時間。夜はまだまだこれから、何なら明日は休みだ。
溶けて溶けてその向こう、目が覚めたら。
まずは来週の旅行のことを、彼と話そう。
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情交と街