愛というものの正体を、私は知らない。恋愛なんて可愛らしいもの、したことがなかった。同級生の女子たちが異性を好きだと騒ぎ立てるのを横目に見てただぼんやりと日々を過ごして来たのだ。

「っ、はぁ…」

無闇矢鱈に走るものじゃなかったと思う。息を整えるために立ち止まり、壁に背を預けた。広い広い構内だ、年齢はおろか専攻だって違う彼をどうやって探せよう。混乱とは恐ろしいものである。そんなことですらわからなくなってしまうのだから。
携帯を開いた。何も届いてはいない。今どこ?なんてそっけない文を送ってから何分経ったろう。どこで何をしているのか、運動好きの彼のことだから、空きコマならどこかでトレーニングでもしているかもしれない。そうしたら返信なんていつまでもこないだろう。私から彼を探すのはいつぶりだろう。

居て当たり前だと思っていた。きっとこの先も彼は私をずっと迎えに来てくれるような気がしていた。普通に考えればあり得ない話だ。彼は私の、私だけの幼馴染ではない。彼の人生の中で私はただ一つ居場所を与えられたものに過ぎないのだ。通知の浮かばない画面を消して、鞄に仕舞い込む。
心臓をゆっくりと締め付けられるようだ。甘やかな夢の中で、ずっと優しい世界だけを見てきたんだ。私が余計なことを考えないでいいようにしてくれていたのは、彼の努力でしかない。そんな思いを動揺で踏みにじって、一週間とちょっと放っておいて、今になって呼び出そうなんて恐ろしく自分勝手。この数日で家康が私に愛想を尽かしていたって、仕方ない。

「みっともないなあ」

目の周りがぎゅうと熱くなった。ほんとに、みっともない。何にも考えてなかった。ちゃんとしなきゃいけなかったんだ。もし、彼が私じゃない誰かのところに行ってしまったら、私は私自身の鈍感さを呪い続けるだろう。人の心の移り変わりは一瞬だ。この想いだってそうだったもの。
彼は今、どこにいるんだろう。
歩きはじめる。外はゆっくりと暗くなってきていた。窓の向こう、遠くで誰かの声がしている。人がまばらになる講義棟の、その灯はぽつぽつと消えていく。

その時携帯が鳴った。
鞄に手を突っ込んで取り出す。着信の主は、家康。震える手でディスプレイを押して、耳にあてる。

「薫?」

いつもの優しい声だ。それがこんなにも心を締め付ける。言葉に詰まる私を心配してか、彼がもう一度私の名前を呼ぶ。

「薫、」
「…あ」

笑えるくらい声が震えていた。これを言って、彼はなんというだろう。彼は私のところに来てくれるだろうか。臆病になってしまった私のことを、電話の向こうで彼は何も言わずに待ってくれている。
半ば押し出すように、声をあげた。

「あいたい」


「薫」

電話口と自分の背後から、同じ声がした。振り向けばそこには今一番会いたかった人がいた。眉尻を下げ、優しく笑うひと。視界がじんわりと滲む。家康は私のところに迷いなく歩み寄る。私のところに、来てくれる。そう、いつも通りと言えばそうだけど、それにひどく安心する自分がいた。

「そんな顔をしないでくれ」

堪えきれなくて、一粒涙が落ちる。

「泣かないでくれ、薫」

彼の、その腕が私の体を包み込む。汗のにおいがした。嗚呼この人は本当に、おとなになったんだ。縋りつく私の頭を撫でてる手がこの上なく愛おしかった。薄暗いこの場所で、このままずっと一緒にいられたなら。

「薫」

ゆっくりと顔をあげる。

「そんな顔をしたお前を、このまま帰してやれない」

何とも言えない表情だった。大人びたそれにまた心臓が熱を持つ。

「ワシの家に来るか」

その申し出を断れるはずもなく。何とか頷いた私をまた、彼の手が撫でた。

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情交と街