知の行く末




「メイお嬢様?」

「何ですか、オビ?」


オビの呼びかけに振り向くこと無く、網目のようにびっしりと詰まった文字列を指で確かめるようになぞってゆく。


「確かに言いましたよ。お嬢様をとびきりの女性にと」

「そうですね」

「…だからって、ここから?」


自分を囲むように何段にも積み重ねられた本からは陽を浴びて黄ばんだ紙の匂いがした。幾度となく聞いた台詞に、すらすらと流れるように動かしていた筆を止める。


「それは何度も聞きました。まず大事なのはクラリネスをよく知ることです」

「はあ……」


振り向いた先のオビは引きつった表情を浮かべていて、完全に同意しかねるといった様子だった。彼にとってどうやらこの状況は想像の斜め上を走っていたようだ。


「オビも一緒にやりましょうよ!」

「や、俺はいいですって」


積み重ねていた本を一冊差し出せば、オビはそれを受け取ることなくソファーにごろりと横になる。初めこそは驚いたけれど、彼のこの光景には慣れたものだった。


「それにしても、よくやりますねぇ」

「当たり前ですよ!ゼン殿下は国を気にされるお方です。私もそれ相応の知識を持ち合わせていないと」

「まあ確かにそうですけど」

「オビも絶対やっておいたほうがいいですって」


ソファーから聞こえてくるのはもごもごと言葉にならない声。そんな彼の様子に肩を竦めると再び背を向けた。

かれこれ国政について学び始めてから一週間は経つと思う。その間オビは今あるもので十分だと言わんばかりに何度も違うことや休憩を勧めてきた。おかげで私は、オビが学問を得意としていないことに気付いたのだけど。


「(へぇ…ユリス島って胡桃石がよく採れるんだ)」


窮屈そうにするオビに気を遣ったのは最初だけで。自分がいかに狭い世界で生きているのかを知ってからは、国政を学ぶことに吸い込まれるように没頭していった。ライナー家に縛られ外に焦がれた私にとって、それを知るということはゼン殿下との見合い話を抜きしても大きな意味があると感じられた。


「(スイとリドは揉めてたことがあったのね……)」


ページを捲る指はそのスピードを落とすことはなかった。けれど、順調に進んだのは束の間で。ある項目が目に入った途端、金縛りにあったかのように動けなくなる。


「(没落、貴族……)」


それはドクンと鈍い音を立てて私の中で重く響いた。先へ続く文章には、とある貴族が没落するまでの一生が纏められていた。


「(賊と共同して密輸…それに、人身売買も……)」


嫌な冷たい汗が頬を滑る。よく知るその言葉の並び。その先を知ってしまうのが怖いのに、文字を追う目は止まることをしない。


「(無関係の使用人は没落後離散…当主とその身辺は、国の牢へと…投獄……)」


わかってはいた。そうなることを。きっとライナー家も国相手に悪事が明るみになればこの本に載っているものと同じ道を辿る。そして義両親たちは役人に捕らえられるだろう。


「(―じゃあ、私やオビは?)」


どうなるのだろうか。私は黒い部分に直接は関わっていないけれど、それを告発する勇気もなく事実近くで黙認していたことになる。

それに、オビは?義父の信頼を得ているのだから、何もかも知っているかもしれない。それに、もしかしたら彼自身も―…

悪い予感が分厚い雨雲のように重なり合って私の小さい心を覆い尽くす。そんなはずはないと思いたいのに、そこには光など見えなかった。


「―嬢様…、メイお嬢様!」

「!」


耳元で響くテノールに、自分の中で蠢いていた闇から引き戻される。


「どうしたんですか?呼び掛けても無反応ですし。顔、真っ青ですよ」

「い、いやちょっと…疲れちゃったかな……」


とめどなく流れる冷や汗が体温を下げていたことに気付かずにいた。厭な動悸は収まらなくて。心配そうに覗き込むオビの瞳は確かに温かいのに、何故だかいつもより遠くに感じられた。


「…おっ、お祖父様の部屋にも本ありましたよね! 私とってきます!」

「あっ、ちょっと!」


ひゅう、と乾ききった喉を鳴らしたのは私。開いたままのページに鋭い琥珀を落としたのは彼。


「―没落貴族、ねぇ」


不穏な感覚に囚われまいと逃げるように部屋を出た私には、彼の呟いた言葉なんて届いてはいなかった。









お祖父様の部屋に入るのは久しぶりだった。よく遊びに行ってた頃の温かさはなく、古ぼけた匂いが鼻を掠める。頻繁に手入れをしていないのか、部屋を飾るものたちは薄っすらと埃を被っていた。


「(どうせ掃除するなら、ここを綺麗にしたかった……)」


オビが付くまで出入りを制限されていたから、まさかこんな状態だなんて。前とは何も変わらない物の並びが時間の流れを際立てた。


「これ……」


重厚な造りの本棚には国政の本がずらりと並んでいた。そこに紛れるようにあったのは小さい頃によくお祖父様に読んでもらっていた絵本。それを手に取り、ぱらぱらと捲れば当時の光景が次第に蘇る。じわりと広がるのはオレンジの温かいあの頃で。それは優しく私の心を包んだ。


「懐かしいな……」

「何がですかい?」

「ひっ!!!」

「…お嬢様、あんたもっと色気のある悲鳴を上げる練習した方が良いですよ」

「余計なお世話です!」


気配なく、オビはまたひらりと現れた。彼は私の手元にある絵本を見ると驚いたような声を上げる。


「へえ。お嬢様こういう王子様が出てくる話が好きだったんですか?」

「まあ、昔ですけどね……」


今の私に絵本のような王子様が現れる気はしなかった。ゼン殿下に見初められる自信は欠片もなかった。


「―よし、お嬢様!外行きましょう!」

「えっ?」

「メイお嬢様、ご存知ですか? 国政の一番の勉強は直接国を見ることですよ!」


オビは私の制止を無視して絵本を閉じると元の場所へと仕舞った。そしていつかのように私を横に抱き上げて、そのまま窓からパールブルーの明るい空へと飛び込んでいった。

- 10 -

<<>>
ALICE+