甘い毒に堕ちる



「―つまり、私にゼン殿下の妃になれと?」

「はい。早い話がその通りです」


カチコチと響く秒針の音が部屋の静けさを示していた。オビから聞いた話は、私の目から溢れそうになった涙の陰を跡形もなく消していた。それだけ衝撃すぎたのだ。

義父の言った私の役目とはこういうことだった。ゼン殿下と御近づきになること。そしてそのまま親交を深め終いには妃となること。そうなった暁には晴れてライナー家も王族の仲間入り、と。


「そんな、無理です……」


拒絶する言葉は自然に出た。明らかに無謀な話だった。一介の伯爵家の養子である私がゼン殿下と夫婦になるだなんて。

夜会にだって出る回数はほとんどなくてその御姿を一度だって拝見したことはないし、ましてや私自身が目に止まるような優れた何かを持ち合わせているわけでもない。


「とは言っても、あのお方は頑固ですからね。諦めた方が賢明かと」

「でも!!」


だだっ広い部屋に私の否定の声が木霊した。あんなに爽やかな青が広がっていた窓の外は気付けばダークグレーの分厚い雲が覆っていて、私たちの姿を暗くする。


「(どうしたらいいの……)」


私が一人重苦しい雰囲気を纏っている横で、オビはにこにこと有無を言わせないような笑みを浮かべていて何となく押し黙ってしまった。

溜息は喉に詰まってその形を成さなかった。ゼン殿下の噂は耳にしていた。家臣からの信頼が大変厚く、民の様子もよく気に掛けておられるお方だと。もし、そのようなお方と婚姻を結ぶことができるのなら確かに私個人としても幸せだろう。


「(―だけど、今のライナー家が王族になったらクラリネスは……)」


私が見初められる可能性はほぼゼロと言えるが、もしもの場合を想定してしまうと憚られるものがあった。秘密裏に悪事を働くライナー家を国政のトップになど立たせてはいけないのだ。


「まあそう気を落とさないでください。メイお嬢様が見初められる可能性だって十分にありますよ」

「…そんなものはないですよ」

「ありますって! お嬢様はまだ原石なわけですしこれからですよ」


手近にあるクッションをぎゅうと抱きしめるとその上に顔を埋める。出口のない迷路のようだった。行き着かない答えが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。

オビはライナー家の悪事については何も知らないから。ぺらぺらと彼がくれる励ましの言葉は全部的外れなものばかりで、彼自身は悪くはないと分かってはいても、その言葉たちは私の心に靄をかける。


「―そもそも、このことをマイク様に提案したのは俺なんですけどね」

「え?」


一瞬にして頭がクリアになった。オビの思わぬ発言に顔を彼の方に起こし目を丸くした。まるで新しい悪戯を思いついた子供のような、どこか楽しそうにするオビが映った。どういうことなのか。


「メイお嬢様さ、もういい加減今の生活やめたいでしょ?」

「まあ、それは……」

「そのためにはね、あんたには勝手に決めて悪かったとは思うけど、利害で動くマイク様を納得させるにはああ言うのが一番だったんだよ」

「だからって……っ!」


続けようとした言葉はオビの人差し指によって阻まれた。唇から伝わる彼の熱に少しだけ戸惑う。


「大丈夫。今日から、あんたは普通の女の子だ」

「!」

「もう嫌がらせを受けることはないよ。今時の娘として生活できる。本物のメイお嬢様としてね」


甘い、甘い、魔法のようで、毒のような言葉だった。私が夢見た普通の生活を、送れる。その言葉が脳裏でリフレインする度にどんどん心を蝕んでいった。緩んだ手からクッションがするりと零れ落ちる。


「オ、ビ……」

「何でしょうか」

「…私、やれるかな」

「もちろん。そのために俺がお嬢様の世話役として付くことになったんですから」


自分の荒れた手を見つめた。もう、こんなボロボロな手をしなくていい。義両親たちから理不尽な仕打ちも受けなくていい。お祖父様がいた頃と同じように、心が豊かだと思える生活を送れるかもしれない―…


「私が、メイお嬢様をとびきりの女性にしてさしあげますよ」


部屋のどこにも光は射していないのに、オビの琥珀の瞳だけは妖しい輝きを帯びていて。なんて、妖艶なんだろう。私はこの瞳に自ら飲まれることを決めた。


「―オビ。私、頑張ってみます」

「そうこなくっちゃ!」


オビはいつもの戯けた笑顔を見せていた。そんな彼にどこかほっとしながらも、ふと疑問が湧いてくる。


「あの、もし、ゼン殿下に見初められなかったら私は……?」


何故か、また、秒針の音が大きく聞こえた。ほんの一瞬だけ、オビから感情の死んだような笑顔が見えたような、気がした。


「―いざとなったら俺がお嬢様を守るから、安心してください」

「オビ……!」

「それにW上手くやれるWって約束したでしょ?」


彼は床に落ちたクッションを拾い、私に差し出すと同意を求めるかのように片目をぱちんと閉じた。


「―はい!」


オビがいてくれるなら、ずっと私の味方でいてくれるなら、私はこれからも頑張っていられるだろう。

だから、あれは、あの顔は、きっと私の気のせいだ。

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