カルヴァドスと現し身
「私と出会って、オビさんが新しい自分を見つけられたなら、それは私とオビさんの出会いに意味があったことになるから……」
見上げた先の紺青には、数多の星がその分だけの大小の光を放ち夜空を煌めかせていた。程良く冷めた風がアルコールで火照った身体を優しく撫でる。
「(風、気持ちいいな……)」
主やお嬢さん達と出会うことで変わったと思うことなんていくらでもあった。彼らといることで新たに知る感情は多いもので、今までなら長く関わろうと思わなかった人とも繋がりを持った。これは、自分にとって受け入れ難い大きな変化に違いなくて。―だからこそ。
「―…そうだなぁ。今日、変わったかもしれないな」
「! ……それならよかった」
そこに嘘はなかった。新しい自分を受け入れていいのだと、俺に後押しをしてくれたのが花屋のおねーさんで。それを受けてようやく、主やお嬢さんの側に居たいと思う自分に対して誰かの許しを得たかったのだと気付く。
「(ここまで楽になるのか……)」
こうして素直に納得できたことは自らの中では大きくて、それだけで彼女と出会った意味は十分にあった。繋がりを大事にしたお嬢さんに感謝すべきか、ヒマリという人物がヒマリらしい人であったことに感謝すべきか。
「(二人ともに、だな……)」
俺の右肩に顔を埋めた彼女からは表情を見えないことを良いことに、口元を思い切り綻ばせる。こんな顔をトロウが見たら、また「本当にオビか」と問われそうだけど、今の俺ならそれにはっきりとした答えを出せるはずだ。
「……オビ、さん…」
「なんだい?」
くぐもった声は確かに俺の名前を呼んでいた。自分でも驚く程の優しい声が出る。彼女は言葉を続ける訳でもなく、顔を埋めたまま。不慣れな温かさがむず痒くて、理由もなく誰かに名前を呼ばれることが嬉しいものだと初めて知った。
「…………」
「…………」
石畳は街路灯の光を受けて柔らかく反射する。静謐なひとときは耳元を擽る微かな呼吸音をより大きく響かせた。それは林檎酒と相まって、心拍数を上昇させる。誰かをおぶるのはお嬢さん以来だった。
「(なーんか俺、こんなんばっかだなぁ……)」
今、どくどくと高鳴る心臓は俺のものだろうか。それとも背中越しから伝わる彼女のものか。それを明確に知る術はないけれど、なんとなくお互い様である気がした。
―それでは、あの時は、お嬢さんの時はどうだったのだろうか。
「(……なんて、知るだけ無駄な話か)」
自嘲の笑みを浮かべて、思考を遮るように瞼を閉じる。そこに浮かぶのは視界の端で揺れた赤。それは何処か目の覚めるような爽やかな香りがした。けれど、再び目を開けた時、視界の隅で歩き進める度に揺れるアッシュグレーから運ばれるのは。
「甘い、花の香りだな―……」
意外と甘ったるいのも悪くないと感じるのも、花屋に向かう足取りが夕方と違って軽いのも、きっと背中で呑気に寝息を立て始めた彼女のせいだ、なんて。
*
「おねーさん、着いたよ」
「…………」
「もしもし」
「…………」
「……まあ、そうだよねぇ」
薄々こうなるとは勘付いてた。俺の背中で寝出したおねーさんが起きるのは簡単ではないと。ゆっくりと腰を落とし、彼女を地面へと降ろす。打つけないよう手を頭に添え、そっと壁に凭れさせた。
「おねーさん、起きて」
「…………」
「おねーさん」
「…………」
彼女にされたようにぺちぺちと軽く腕を叩くも、起きる気配は一向にない。街路灯の温かい電球色で照らされているのに、心なしか顔色も悪く見える。そよ風に遊ばれ小さく靡く髪に指を通す。それは滑らかな動きを見せて絹糸のようだった。
「―ヒマリ」
音のない夜を舞台に響いたのは、俺に勇気を与えてくれた彼女の名前。
「………ん、オビ…さん?…ここ」
「家に着いたよ。おねーさん、鍵ある?」
ほろ酔い気分は完全に抜けていた。僅かに開いた瞼から覗く黒い澄んだ瞳に安堵する。黒色なのに「透き通った」なんて思うのは可笑しな話だけれど、それ程に透明感を帯びた黒だった。
「鍵……これ……」
ポケットから緩々と力なく差し出された鍵を受け取り鍵穴に通せば、カチリと気持ちの良い音がした。扉の先に広がったいつもの光景に彼女の帰宅を実感して深く息を吐く。
「おねーさん、なんとか自分で歩けるかい?……って、あらら」
振り返り、しゃがみ込んで目線を合わせれば、彼女は再び小さく寝息を立てていた。無防備な寝顔に呆れつつも何処か微笑ましいような。
「失礼」
起こさないよう静かに横抱きにして家の中へと歩き出した。前々から華奢だとは思っていたけれど、すっぽりと俺の腕に収まる様子から改めてその肩の細さを知らされる。いつもは立ち入らない空間を目指して脚を動かす度に、床がギイと軋む音が何故だかいやに気になって仕方ない。
「(ここっぽいな……)」
ドアに掛けられたルームプレートにはヒマリと記されている。肘を使い上手く開ければそこには目当ての寝台があった。勝手にプライベートな部屋に入ることを心の中で詫び、彼女を寝台に優しく寝かせる。
「…………」
窓から差し込む月光を浴びた彼女は白い肌の上で艶かしくそれを滑らせた。閉じられた瞼からは睫毛が緩やかに伸びていて妙に色めき立って見える。
腕を伸ばし、頬を親指で僅かに撫でた。強く叩いたそこに腫れは残っていないようだった。
「……どうもね」
響かないように静かに扉を閉める。見上げた先の紺青には、やはり数多の星が煌々と輝いてせせらぐ川のようだった。
城に着いたら、真っ先にお嬢さんの所へ行こう。礼を言わなくてはいけない。俺に、すべてのきっかけを与えてくれた赤髪の少女に。
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