せせらぎに淀むアンテリナム
「オビさん、すみません。重いですよね……」
「あんた一人くらい軽いよ。俺の方こそ付き合わせちゃってごめんね」
あの後、再び戯け出したオビさんをきっかけに他愛のない雑談に戻り、空となった林檎酒のボトルは三本に増えた。アルコールがもたらす実体のない多幸感に覆われ、帰ろうと立ち上がった時には両足はふらふらと覚束なくて。そうして自分で思った以上に酒が回ってることにようやく気付いた私は、年甲斐もなくオビさんに背負ってもらうことになり、僅かに残った羞恥心が一気に失いかけた理性を取り戻した。
「(こんなことなら痩せとくんだった……)」
後悔しても既に遅く。
昼間、城下に吹いていた風はすっかりと撫でるような優しいものに変わっていた。それは夜の涼しい空気を纏い酔い切った肌にそっと触れる。抜けないアルコールと舟を漕ぐような穏やかな揺れに朦朧としつつも、頬を擽る黒の柔らかい髪になんとか意識を繋ぎ止めた。
「それにしても、おねーさんは酔うと怒ったり泣いたりと忙しくなるんだね」
「はは、普段はこうはならないんですけどね……」
心の中で小さく舌を出し「オビさんのせいですよ」と付け足した。結局、オビさんが何を抱えているのかはよく分からないまま。胸を締め付ける程の切ない表情を見た後に、こと細く事情を訊くなんてとてもじゃないけど出来なかった。
「(いい匂い……)」
顔を埋めるようにしたオビさんの洋服からは、アルコールの匂い混じって月光を浴び色を帯びた大樹のような香りがした。見た目以上に広い背中の温かさと優しい揺れに少しずつ瞼が重たくなる。
「……オビさん」
「なんだい?」
「オビさんは、白雪さんたちと会って何か変わりました?」
これはきっと、今でないと訊けないこと。その答えはイエスだと漠然と思っていた。彼にとって、自分自身の変化は受け入れ難そうなものだったから。
「あー…そうだね。変わったかも」
「そうですか……それじゃあ、私とは?」
「!」
少しだけ強い声を洩らす。オビさんはその問いかけに驚いたのか、一瞬息を飲んだのが分かった。
「私と出会って、オビさんが新しい自分を見つけられたなら、それは私とオビさんの出会いに意味があったことになるから……」
歩みを止め、空を見上げた。それにつられるようにして私も顔を上げる。紺青の夜空には無数の星が煌々と瞬いて、せせらぐ小川のように輝きを連なっていた。
「―…そうだなぁ。今日、変わったかもしれないな」
「! ……それならよかった」
彼の声に口元が綻ぶ。心の何処かで、出会った頃のオビさんは私と関わろうとしなかったような気がしていたから。胸を擽られる思いに再び顔を埋めた。
「……オビ、さん…」
「なんだい?」
呟くように彼の名を呼ぶ。そこに繋がるものは何もなく、ただ口にしただけ。オビさんはそれを分かっているのか、先の言葉がない私に続けて問うことはなかった。
「…………」
「…………」
夜道に映えた灯りは私たちを柔らかく照らした。どくどくと鳴り止まない心臓は私のもので合ってるだろうか。どちらからともなく伝わる鼓動が心地いい。酒が回ってるからなのか、この状況に異性を意識しているからなのか。城下を吹き抜けた静かな風は私にそれを確認するほどの判断力を攫っていった。
「甘い、花の香りだな―……」
オビさんの言葉を傍らに、私はゆっくりと瞼を閉じその意識を深い夜に落とした。
*
「あれ、ここ……家?」
目を覚ました私を待っていたのは久しぶりの宿酔だった。窓から入り込む眩しい光に思わず顔を顰める。鉛のように重たい身体を起こそうとすれば、それに抗うようにじりじりと頭を締め付ける感覚。
「げっ、酷い顔……」
枕元にある手鏡を手に取る。そこを覗けば、赤くなってばかりだった昨日と打って変わって土色の私が姿を現した。予想以上のアンコールの引きの悪さに溜息をつき、再び枕に頭を預ける。痛む頭を支えるように手を添えて記憶の糸を手繰り寄せた。
「…………」
それはとても優しい帰り道だった。曖昧な記憶と一緒に思い出すのはオビさんの背中、匂い、声、温もり。その確かな感覚は胸を染めるように広がってやさしく滲む。
「お礼、言わないと……」
瞼を閉じ、巡らせた想いは泣きそうに笑んだオビさんを浮かばせた。私は彼の力になれたのだろうか。彼の心の枷を取れたのだろうか。
「(……分からないや)」
酒で昂ぶっていた強気な私は、日を跨げば嘘のように冷え込んで。彼が変わったと言ったのも、もしかしたら意気込んでいた私に気を遣ってくれたのかもしれない。そうやって考えると、オビさんの力になれたという事実にはどうにも導けなくて。
答えの見えない考えから目を逸らすようにゆっくりと目を開け、壁にかかった時計を見遣る。時刻は花屋を開く一時間前。二日酔いに不慣れな私では、今日この状態で店を開くのは無理だと悟った。
「シャワー…浴びよう……」
身体を寝台から引き摺り降ろし浴室へと向かう。力のない動きでなんとか前まで辿り着き、扉を開けて一息つく。そうして、衣服が擦れる音が耳元で雑音のように響いて、纏まりなく床に散らばった。灯りをつけないまま、浴室に入れば足裏にひんやりと冷たく触れる。シャワーの口を捻ると、むかむかする気持ち悪さは紛れて心が落ち着きを取り戻していった。
「…………」
機械的に白の泡で包んだ身体を洗い流す。シャワーに打たれるまま只管に無心でいた。だから、鼓膜を揺する水の音の中で遠くから家の扉を叩く音に気付けなかった。
一頻り水を浴び、流し残しがないことを確認して浴室を出る。大雑把に拭いたところで、替えの服を持ってきていないことに気付いた私は、バスタオル一枚を纏い扉を開けた。
「おわっ!!」
「へっ?」
思わず固まってしまった。髪の毛から先を伝って雫がぽたりぽたりと廊下に落ちる。どうして目の前にオビさんがいるのだろうか。
「―ヒマリさん!?」
その後ろには白雪さんが赤髪を揺らしているのが見える。久しぶりの再会が嬉しいのに、それ以上に言葉が出てこないのは―……
「キャーーーーーッ!!!」
未だ外の空気はそこまで多くの人に触れられずにいて、街に活気が出始めていない時間帯。それを裂くように私の悲鳴は響き渡った。
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