15



しばらくの間、エマはサンジの胸を借りて静かに泣いた。
声も上げずに、ただその胸に頭を押し付けるようにして、ぽろぽろと涙を流し続けた。彼女自身、自分が何故泣いているのか、今となってはもう分からない。彼女の中に渦巻く感情が多すぎて、自分ですら追いつけていないのだ。それでも体は泣きたいと叫び続けて、今もそのベッドに小さな宝石を散りばめ続けているが、心はまだ、何一つ整理ができていない状態だった。

ただただ負の感情がひたすらに交錯し続け、彼女の心の中には、死を願うような言葉さえ浮かんできてしまっていた。
その事実すら悲しくて、苦しみは輪廻の如く続き、エマを襲い続けた。

サンジはその間、ただ黙って、彼女の頭を優しく撫でていた。
彼女の涙の理由は何もわからないが、彼女が泣いている。サンジがそこに留まる理由はそれだけで十分だった。
目の前で“何か”に苦しむ彼女は、ひどく儚げに見えた。少しでも目を放せば、すぐにでも消えてしまいそうだと感じるほどに。

瞳から溢れ続ける涙が、キラキラとベッドを飾っていく。
涙が宝石になる瞬間を間近で見ながら、サンジは不謹慎だと思いつつも、なんて神秘的で、なんて美しいのだろう……そう思わずにはいられなかった。そんなことを考えている場合ではない、と、何度か思考を振り切っては見るものの、結局彼女に見惚れてしまう。
そんな思考回路を何度か繰り返すように巡らせている間に、少しずつ涙が止まり、エマはやっと泣き止んだ。


「……落ち着いたかい?」

サンジの問いに、俯きながらもコクッと頷くエマ。小さく謝る彼女に、サンジは気にしなくていいと笑って答える。

それからサンジは、彼女が壁に背を預けられるように、傷に障らない程度に、ゆっくりと優しくその体勢を整えてやった。彼の突然の行動に少し驚いたものの、何も言わずにその身を委ねる。
体勢を安定させた後、辛くはないかと気遣う彼の言葉に、エマはまた静かに頷いた。
その様子を見届けたサンジは一度立ち上がり、デスクの上に置いてあるカップを手に取った。彼がここにきた元々の理由であるその飲み物を、エマの近くまで持って行く。


「あ……」
「ホットココア……だったんだけど、もうぬるくなっちまったな。淹れなおしてくるよ。少しだけ待って――」
「――や、」


サンジがココアを淹れなおしに行こうと背を向け、歩き出そうとすると、背後から小さく漏れた声が聞こえたのと同時に、自身のシャツの裾が引っ張られる感覚があった。
どうしたのか、と首を後ろに向けると、自分のシャツの裾を掴んで離さない少女がそこにいた。なんだかまた泣きそうに、潤んだ瞳を揺らして、キュッと唇を噛んでいる。
その姿に不覚にもドキッとしてしまう自分を落ち着かせながら、冷静を保ち、今度は体ごと振り返る。必然的に裾を掴んでいたエマの手はパッと離される。

「エマちゃん?」
「それ……」
「ん? これ?」

サンジがココアの入ったカップを少し持ち上げて示すと、エマは頷く。これがどうしたのだろう、とサンジは彼女の次の言葉を待った。


「それ……いただきます」
「えっ、いいのか? これもう温かくないけど……」
「っいいんです……だから、お願いです……今は――」


――どこにも行かないで、


震える声で、まるで縋るように言うエマのその言葉は、サンジの胸を強く強く揺さぶった。
サンジは内心、こんな美少女に、こんなにも情熱的に求められる日が来るなんて。おれは今日、死ぬのだろか。……などと思ったりもしていたが、そこはなんとか顔には出さず、まるでロボットのようなぎこちない動きで再びエマの隣に腰掛けた。

彼が隣に来てくれたことに、エマはホッと安堵する。
我儘な願いだと、彼女は自覚していた。良くしてもらって、図々しいことばかり言ってしまっている。本当に申し訳ない。そんな気持ちでいっぱいになるほどに、強く自覚はしていた。しかしそれでも、今だけは、どうしても一人になりたくなかったのだ。


「我儘を言ってごめんなさい、サンジさん」
「へ!? あ、あァ、問題ない、大丈夫だよ」
「サンジさん……?」

未だ胸を高鳴らせていたサンジは、そんな最中にエマに声をかけられて呆けた声を出してしまった。すぐに何事もなかったかのように装ったが、それはあまりにも不自然で、エマに首を傾げられてしまう。なんとかはぐらかそうとするサンジは、ふと自分の右手が持つカップの存在を見つけた。「あ!」と声を上げ、カップをエマに差し出す。


「冷めちまったけど……飲むか?」
「あ、いただきます。ありがとうございます」


サンジの手からカップを受け取り、確かに冷さめてしまっているそのココアを、エマはゆっくりと口の中に流し込む。
なめらかでとろけるような舌触り。優しいココアの甘みの中にはほんのりと程よい苦みもあり、主張しすぎず、それでもその存在を確かに感じるミルク。美味、以外の言葉が見当たらなかった。


「……美味しい」


このまま心を癒してくれそうな優しい味わいに、エマの表情は綻んだ。その様子を見たサンジも、つられるように微笑む。

「そりゃよかった」
「……そっか、ココアって、」
「?」

ひとり何かを納得するエマ。彼女が一体何に納得しているのかがサッパリわからないサンジは、疑問に思いながら彼女の言葉を待った。すると、彼女はこう言った。


「こんなに美味しい飲み物だったんだぁ……」
「……!」


すっかり忘れてた、と。そう言いながら、もう一口、もう二口とココアを口に含む。
つい先程まであんなにも、今にも泣きだしそうになっていた彼女が、今この瞬間は、サンジの淹れたココア一つであの苦しみに、悲しみに、綺麗に蓋をできている。
ただのココアなのに。それも、冷めきってしまったココアだというのに。それなのに彼女は、まるでそれを“この世で一番美味しい飲み物だ”とでも言ってしまいそうな勢いで感動する様子を見せた。

彼女に同情をするつもりではなかったが、サンジはそんな彼女を見て、ひどくもどかしく思った。もし本当に、彼女の味覚が自分の作るものにだけ機能するのなら、自分は彼女の為になんでも作ってやりたいと、そう思った。彼女が望んだ時に、望んだものを、極上の味で。傍に居られさえすれば、そんなこと朝飯前なのに、と。
しかし自分は海賊で、彼女もこの船には乗らないと言っていた。サンジはもどかしさ故に、唇を噛んだ。

そんなサンジの気も知らず、エマはゴクッと喉を鳴らして、ココアをすべて飲み干した。ぷはっと息を吐いて、サンジに笑顔を向ける。


「とっても美味しかったです。ごちそうさまでした」
「っ……あァ、どういたしまして」


そんな、ただの冷えたココアひとつで。君はそんなに幸せそうに笑ってくれるのか。
サンジはそんなことを思いながら、エマからカップを預かると、傷が痛まないように恐る恐る伸びをするエマの横顔をじっと見つめた。
彼女はサンジの視線に気付くこともなく、伸びをし終えると口元を手で覆って、小さく欠伸をした。


「エマちゃん、眠い?」
「えっ? あっ、」


何故バレたのかと思ってすぐ、欠伸を見られたのだと気付き恥ずかしがるエマ。サンジは優しく笑いながら、デスクへとカップを置きに行き、戻って来るなりエマの背中に手を回す。「わ、」と漏れた声もそのままに、サンジはその手に体重をかけさせるようにして、エマをゆっくりと横たわらせる。


「す、すみません何から何まで……」
「いいんだ。レディの為ならなんだってしたいんだおれは」


彼の言葉に、また気恥ずかしそうにしながらも、エマは横にならせてくれたことに対して礼を言った。
横になった途端、まるでこの瞬間を待っていたかのように彼女に睡魔が襲い掛かり、少しずつとろん、としていく彼女の瞳。それでもなんとか目を開いていようとするエマに、サンジは寝ていいのにと笑う。

エマは今眠って、起きた時に誰もいないという状況を少しばかり不安に思っていたのだ。そんな気持ちとは裏腹に、どんどん重たくなる瞼。
だめ、だめ、といくら思っても、体は言うことを聞かなかった。

そんな彼女の必死な思いを知ってか知らずか、サンジは彼女にこう言った。


「……大丈夫。安心しておやすみ、レディ。」


彼のその優しい声を最後に、エマは再び眠りについた。





―――――







その頃、エマとサンジの二人を除いた全員は、男部屋に集まっていた。ソファにはまだ起きないウィルが寝かされている。そんな中、一同はチョッパーから、エマが記憶を取り戻したらしいことを聞かされていた。


「えっ、エマの記憶喪失が治ったって……それ本当? チョッパー」
「うん。エマ、全部思い出したって言ってた」
「お〜なんだか知らねェけど良かったじゃねーか! 記憶が戻ってよ!」
「うーん……」


おめでたいことのように話すウソップとは反対に、チョッパーの表情は曇り続けた。そんなチョッパーに、ルフィとウソップは二人で首を傾げる。記憶喪失が治ったのだから、悪い話などではなく、むしろ喜ぶべき話なのではないのか、と、二人はそう思っていた。自分達とはあまりに違うリアクションを見せるチョッパーに、どうしたんだと聞くと、チョッパーは眉を下げて答える。


「おれ、エマのことが心配なんだ」
「あーまァ、そりゃそうだよな……まーでも、名医であるお前が治療したんだから大丈夫だろきっと!」
「め……! 名医なんて言われてもっ、嬉しくねーぞ! コノヤロがっ!」
「嬉しそうだな」
「って違ェよ!! もちろん体は心配だけど……それよりもおれが心配してるのは、心の方なんだ」


チョッパーのその発言に、ロビン以外の全員が「心?」と聞き返した。どうやらロビンはチョッパーの言いたいことを既に理解しているらしく、ただ何も言わずに話を聞いていた。

「記憶喪失って、ただ過去のことを忘れるってわけじゃないんだ。……人によっては、記憶を失うことで自分を守ってることもある」
「忘れることで、自分を守る?」

言い聞かせるようにそう繰り返したウソップに、チョッパーは頷く。心配そうに顔を歪めるチョッパーを見て、代わりに、とでも言うようにロビンが静かに口を開いた。


「忘れることが、必ずしも良くないこととは限らないし、思い出すことが、必ずしも良いこととも限らない」
「ロビン……」
「何が言いたい」


ナミとゾロが、ロビンに向かってそう問うと、ロビンは特に表情を変えずに答えた。


「誰にでも……忘れたいことや思い出したくないことって、あると思うわ」




守れないなんて言わないで
(逃げる強ささえも失ってしまったのね)


- 15 -

* 前次#

BACK