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エマは、母・アメリアのスケッチブックを開いた瞬間、また泣いた。
懐かしい、大好きな、大好きな母との他愛のない普段の会話が記されている。


――『今日の夜は何が食べたいですか?』
――『本当に好きですね、クリームシチュー』
――『嬉しい。今日も美味しいのを作りますからね』



書かれているのはアメリアの返答のみだが、エマは自分がアメリアになんと言っていたのかも全て思い出せた。クリームシチューが食べたいと言った。ママのクリームシチューは、世界で一番美味しいのだと、そう言った。まだ味覚があったあの頃、大好きだった母の作るクリームシチュー。今になって思い出し、もう味わえないと思うと、ひどく虚しくなった。

アメリアの残した文字を、言葉を、ひとつひとつ口の中で読み上げては飲み込む。もう決して忘れないように、ひとつひとつのシーンをじっくりと思い出しながら。
普段は丁寧に書かれる文字達が、時折荒く書かれていたりして、それはアメリアが急いでいるか、怒っているかが容易に感じ取れるものだった。すべての文字から、その時々の感情が手に取るように伝わってくる。


「……ママ……」


誰に対しても敬語を使う母だった。昔から、そんな母の真似をしていた。
エマが記憶を失っても、人に対して敬語で話す方がしっくり来ていたのは、なんとなく体が覚えていたからなのだろう。

優しくて、しっかり者の母だった。父・ベルナルドはどこか抜けているところがあり、そんな彼をしっかりとサポートできる母だった。そしてそんな彼女の支えに心から感謝し、家族への愛を伝えることを怠らない父だった。

なんて素敵な両親だったのだろう、もう全部、今更なのだけど。
エマは胸が張り裂けそうな思いを、痛みを抱えながら、次々とページをめくっていく。すると、一番記憶に新しい文字が見えた。
それは、何度か見た、あの夢でのアメリアとの会話だった。
知らない女の人だと思っていた彼女はアメリアで、あの夢は、過去の記憶の一部分だったのだ。何故、その部分だけを何度も見たのか。エマは本当になんとなく、理解出来た気がした。


――『その人に流れる血だけで、その人のことを決めつけないでほしいということなのです』
――『私達の住む世界なんてちっぽけなものです。外はもっともっと広くて、色んな人や生き物がいます。時には悪い人や怖い人も、もしかしたら沢山いるかもしれません。でもね、だからと言って、その一部の人達のことだけで、人を嫌いにならないで。そんな人達の為に、あなたが、あなたの世界を狭める必要なんて、あるはずがないのだから』



夢の中でも、忘れまいと何度も繰り返したその文字を、細い指で優しくなぞる。エマはこの言葉達を覚えていた。夢から覚めても、この言葉達だけは、しっかりと心に残っていた。そして無意識に、自分自身の生き方の道標としていた。
だからこそ彼女はルフィ達のような海賊という存在を、多少の恐怖さえ抱いたものの、最初から毛嫌いはしなかったのかもしれない。エマは、アメリアとウィルに、再び心から感謝した。
アメリアが夢の中で何度も教えてくれたから、そしてウィルが9年間、両親が海賊に殺されたという事実を、憎悪に苦しむその心を、隠し通してくれたから。自分は今でも、誰にも憎しみを抱かずにいれているのだろうと、人を憎むのはきっと苦しいことだから、自分がそうならない為に、教えてくれていたのだと、彼女はそう思った。

まるでエマの未来そのものを見通していたかのようなアメリアの教えに感服しながら、またページを進めていく。

アメリアはベルナルドが家にいないと、時々エマに対して惚気話をしてくることもあった。
自身の夫が、エマの父が、どれ程素晴らしい人間で、素敵な人間なのか。幼い頃のエマに「その話前も聞きましたよ?」と何度か言わせてしまうほどに、抑えきれない夫への愛を娘に吐露することもある母だった。
聞き飽きたと思うこともあったが、今思えば、なんて可愛らしい妻なのだろうと、エマは笑みを零す。エマはやっぱり自分は、あなたのようになりたい、と改めて思った。

時間をかけて、アメリアとの思い出を振り返った。
実際はなかなか長い時間を要したが、エマはずっと立ったままでも苦しさを感じなかったほどにあっという間に感じていた。
次でいよいよ最後のページ。心細さを感じつつページをめくると、そこには何も書かれておらず、代わりに二枚の紙がひらひらと床に落ちた。


「?……なんだろう、」


床に落ちた二枚の紙を拾い上げ、まず一枚広げてみると、現れたのはアメリアの文字。それは、アメリアからエマへの一方的な手紙だった。見たことのない手紙に首を傾げながら、先にもう一枚も広げて見てみる。
すると、もう一枚にはベルナルドの文字が紙いっぱいに書かれていた。アメリアに比べて、どこか子供っぽさを感じるその筆跡に、エマは「あぁ、パパだ」と感じた。

「パパとママからの……手紙……?」

見覚えのないそれにドキドキしながら、エマは今開いているベルナルドの手紙から読んでいくことにした。



――愛する娘、エマへ。

やあエマ。パパだぞ。エマのことが大好きな、エマの大好きなパパだ。
実はパパ、こうして誰かに手紙を書くのは初めてなんだ。読みにくかったら、ごめんな。
こんな紙一枚に書ける文字数は限られてる。だから最初に伝えておこう。

愛してるぞ、エマ。
お前はパパとママの宝物だ。何よりも、そして誰よりも、愛している。
良いかい? これだけは絶対に覚えておくんだ。
お前を世界で一番愛しているのは、この先お前の前に誰が現れようと、絶対にパパだ。絶対だぞ。
お前はパパとママの娘だから、誰よりも素敵な女性になることだろう。
そうするとな、お前のことを妻にしたい人間が沢山現れる。パパがママを貰ったようにね。
どれだけ熱く愛されたとしても、その愛はパパからエマへの愛には遠く及ばないんだ! 忘れるな。
断言できる。パパは誰よりもお前を愛している。お前が生きる為なら容易く命を張れるほどに。

……いつか、お前を愛しているという人間が現れて、そしてお前もその相手と寄り添いたいということが、いつかは、訪れるだろう。パパちょっと複雑だけど。
ちゃんと、見極めるんだぞ。そいつはちゃんとお前を守ってくれるか? 誰よりも、パパの愛をも凌ぐ愛を、お前に注いでくれるか?
本当ならパパがその見極める役割を果たしたかったんだが、パパにはもっと重大な役割が回って来たんだ。許してくれ。

あぁ、危ない。話が逸れる。だから、な。
しっかりと見極めて、その上でお前が選んだ相手なら……誰であろうと大丈夫だと、パパ信じることにするから。複雑だけど。だから……

だからどうか、生きてくれエマ。
愛している。お前を愛している。大人になるお前の成長を、身近で見れないことが何よりも残念だ。
早くもお前をひとり、置いて逝く僕等を許せ、エマ。

もっと伝えたいことがあるんだが、駄目だな。紙も時間も、言葉も足りない。
もっとかっこいいセリフを書く予定だったのに、悔しいな。
パパからの愛が、お前に届くことを願ってる。

死ぬまで、愛してる。そして死んでも、愛している。
エマ。無責任なことを言うパパを、許せ。

幸せになれ、エマ。
生きて、幸せになるんだ。
パパはずっと、お前を見守っているからな。――



エマは立っていることができなくなった。ぼろぼろと涙は零れ、ただの悲しみだけではない、嬉しいようで切ないような、何とも言えない感情に咽び泣く。ベルナルドからのその手紙は、エマの涙で濡れた。しかし、彼女の涙で濡れる前から、所々滲んだ文字があった。エマはそれを見て、父が泣きながらこの手紙を書いている情景を思い浮かべ、更に涙を溢れさせた。


「かっこ悪い、パパ……っ」


まだこれだけに終わらない。手紙はもう一枚、残されている。涙や鼻水でぐしゃぐしゃの顔を直すこともできず、それでも、心が、体が、アメリアからの言葉を欲している。
涙に濡れた、震える手で、もう一枚の手紙を手に取り、そっと広げた。



――エマへ。
あなたがこの手紙を読んでいるということは、きっとそこにパパとママはもう居ないのでしょう。
あなたは優しい子だから、パパとママの心配をしてくれているのではないですか?
怖くなかったか、つらくなかったか……って。
これはママがあなたに本心を伝えられる、本当に最期の手紙だから、本音だけを書きます。

パパもママも、これから永遠の眠りにつくことが、怖くはありません。
私達の命で大切なものを守れるのだから、本望です。
……でもね、やっぱり少し寂しいのです。
もっとあなたをこの手で育ててあげたかった。もっとあなたの成長をこの目で見たかった。
もっと一緒に笑ったり、泣いたり、もっと……あなたを生きて、愛していたかった。
去り際にこんなことを言うなんて、本当に、ズルいママですよね。ごめんなさい。

パパとママの人生は、きっと人よりも少し早く幕を閉じます。
でも心配しないで。パパとママは、本当に幸せでした。
エマ、あなたが生まれてきてくれたから。
ありがとう、ありがとう。あなたを、心から愛しています。

これから、あなたがどんな人生を送るのか、私には想像もつきません。
島で幸せに生きるのですか? それとも、海に出てみたりなんて、するのでしょうか。
好奇心旺盛なエマのことだもの、海に出てみたいって思ってたりするんじゃないかしら?
何を選んでもいいのですよ。あなたの人生だもの。あなたは自由。
何にも縛られないで、好きなように生きていいのです。
時には後悔することも、死にたくなることも……あるかもしれません。
それでも、あなたの人生が例えどう転んでも、希望を見失わないで。
その命ある限り、何度だってやり直せます。

大丈夫。あなたならきっと大丈夫です。
だから自信を持って。あなたが選んだ決断に、胸を張って生きて。
色んな事を経験して成長して……素敵な女性になってください。

パパとママは、先にいって二人であなたを見守っています。
あんまり早く来ちゃいけませんよ。なるべくゆっくり、ゆっくり、ね。
これで本当に最後になります。どうか忘れないで。
あなたは私達の自慢の娘。あなたこそ、私達の生きた証。

いついかなる時も、いつまでだって、あなたを愛しています。
大好き、本当に、大好きよ。愛してるわ、エマ。

あなたの人生に、幸多からんことを願っています。――



全てを読み切ったエマの泣き声は、ついに慟哭に変わる。
床にへたり込み、体を震わせ、泣き叫んだ。
沢山の感情が複雑に入り混じる。悲鳴にも似た泣き声は、家の外にまで響き渡った。




最期の手紙
(それはわたしに、前に進めと言いました)


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