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エマの慟哭が響き渡る頃、メリー号で目を覚ましているのはサンジのみだった。誰よりも早く起き、朝食の仕込みをしていたのだ。ちょうど準備も終了し、ラウンジから出るサンジ。
船のデッキの手摺に寄りかかり、一服しようとタバコとライターを取り出したその時だった。


「……エマちゃん?」


サンジのいる場所まで、エマの泣き声が届くことはない。今ここに響くのは波の音だけ。しかし、サンジの耳には、確かに島の方から彼女の悲鳴のような泣き声が聞こえた気がした。
いやしかし、彼女は怪我を負っている。楽に動くことすらままならない状態で、そんなはずは――と、そう言い聞かせはするものの、やはり気になってしまう。かといって未だ眠っているであろうナミやロビンもいる女部屋に、無断で入り込むなどという行為はできない。

「……気のせいだといいんだが」

サンジは船を降り、なんとなくエマの声が聞こえた気がした方へと歩みを進めて行った。
島の人々がいる方へと繋がる一本道から逸れた、草むらを歩く。彼女の声が聞こえたのはこっちだったはずだと、幻聴かもしれないそれを頼りに、とりあえず進んでいた。

すると、しばらく歩いた頃、今度は確かに遠くに彼女の声を聞いた。
今にも喉を引き裂いてしまいそうな、深く、重い慟哭。


「エマちゃん……!?」


サンジは走った。遠くに聞こえたその声の元へ、全力で走った。
そしてあっという間に辿り着いたそこには、小さな一軒の家が建っていた。その中から、エマの泣き声が聞こえる。ただならぬ悲痛な叫びに、何が起こっているんだと、サンジは慌てて扉を開けた。


「エマちゃん無事か!?! ……って、ん……?」


勢いよく扉を開け中に入ると、そこは何の変哲もない普通の家で。ちらりと部屋を見渡せば、ソファがあったりキッチンがあったり暖炉があったり、壁には絵が飾られていたり……本当にごく普通の家だった。
中で何かが行われていたわけでもなさそうで、エマが誰かに何かされているのではと駆け付けたサンジは、ふぅと息をつく。

それからすぐに、小さな嗚咽と、自分の名前を呼ぶ声がした。


「……っ……サンジさん……?」
「!」

声の方へと歩くと、クローゼットの前で何かの箱やスケッチブック、そして二枚の紙。更に大量の宝石を床に散らかした中で座り込むエマがいた。サンジはすぐに彼女の元へ行き、しゃがみ込む。
長い間ひとり泣き続けていたため、彼女の顔はぐしゃぐしゃで、目も鼻も真っ赤だった。その細い髪は何本も、濡れた彼女の顔に絡みついている。
そんなぼろぼろの状態で、エマはサンジを見上げ、泣き疲れた虚ろな目を彼に向けた。


「どうして、ここに……?」
「レディに呼ばれた気がしたんで……声を辿って来たんだ」


メリー号にまで声が聞こえるはずはない、とエマは驚いた表情と共に小さく首を傾げる。
サンジはそんな彼女にただ微笑みを返した。

「それよりエマちゃんこそ、なんだってこんな所にひとりで?」

どこなんだここは、とサンジに問われ、エマは少し俯く。グスッと鼻を鳴らしながら、静かに答えた。

「ここは……わたしの家なんです。9年前まで、両親と暮らした家……」
「え……」
「勝手に出て来て、ごめんなさい……急に思い出して、ここに、来たくなって――」
「――っすまねェ!! すぐ出てく!!」
「えっ……!?」

この場所がエマと彼女の両親の家であると知るなり、彼女の言葉を遮り、サンジは勢いよく立ち上がり家を出て行こうとした。
サンジの突然のその行動に驚き、戸惑いつつもエマは彼を呼び止め、振り返った彼に急にどうしたのかと問うと、サンジはわたわたと手を動かしながら申し訳なさそうに言った。


「ここはエマちゃんと君のご両親の思い出の場所なんだろう!? 知らなかったとはいえ、そんな神聖な場所におれは土足でズカズカと……!」


なんて罪深い行いをしてしまったのだと慌てながら頭を抱えるサンジに、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするエマ。
数秒後、エマは小さく、ぷっと吹き出した。つい先程まで彼女の顔を濡らしていた涙は少しずつ乾き、跡となってきている。


「ふふ、……ふふふっ……」
「え、エマちゃん……??」
「ごめんなさい、つい……ふふ」
「???」


堪えきれない笑みを柔らかく零し続けるエマに、サンジはただただ首を傾げた。彼が先ほど言った言葉は大真面目な本心であり、彼女が笑っている理由が理解できなかった。何か面白かったのかとサンジが恐る恐る聞けば、エマはクスクスと笑いながら答えた。


「だって……サンジさんってば、ここを神聖な場所だなんて言うんですもん。こんな普通の、ただの家なのに……」


可笑しな人、とこぼれるような笑顔を見せるエマ。
そんな彼女の笑顔を見たサンジは、最初こそぽかんとはしたものの、すぐに体中がほぐれるような安心感を覚えた。エマが、ようやく笑ったからだ。つられるように、彼も微笑む。


「……よかった」
「へ? 何がですか?」
「君の笑顔を、また見れてよかった」
「あ……」


サンジにそう言われ、エマはなんとなく自分の頬に手を当ててみる。涙はもう完全に乾ききっていた。
本当に心から安心したようなサンジの、ひどく優しい微笑みが真っ直ぐに自分に向けられ、今になって気恥ずかしさを感じるエマ。再び緩く照れ笑い、彼女はそっと口を開いた。


「まだ全然、立ち直ったなんて言えない、です。……けど、それでも、わたし……進まなきゃ。だって――」


――だってこんなにも沢山の愛で守られて、生かされて、今、ここにいるから。


そう言って、エマは床に落ちている二枚の手紙を拾い上げ、とても大事そうに胸に抱く。未だ弱々しい表情ではあるが、その瞳には確かに微かな光が灯っていた。
エマのその様子を見つめながら、サンジはいつかのあの日、自分がルフィに言われた言葉を思い出した。


――生かしてもらって死ぬなんて 弱ェ奴のやることだ!!!


ルフィのその言葉を思い出すと同時に、前方に座りこんでいる少女を見つめ、君は強い子だな、と彼が心の中で呟いた。
……その時。サンジは、明らかに自分ではない人間の腹の鳴る音を聞いた。思わず「え」と声を上げ、エマを見ると、彼女はその手に持っている手紙で顔を隠し、ふるふると肩を震わせていた。


「は……恥ずかしい……っ」
「……くくっ……いや! 仕方ねェよ。どんな時でも腹は減る。一旦船に戻ろうエマちゃん。朝飯が用意してある」
「い、今笑いましたよね!!」
「んー? 気のせいじゃねェかな。……そんじゃ、ちょっと失礼するぜ」


サンジは話しながらエマの元へと歩み寄り、悪戯な笑みを浮かべながら優しくエマを横抱きに抱き上げる。エマは「わあっ」と声を漏らしつつ、その胸にはやはり大切そうに手紙を置き、落とさないように手で押さえていた。エマは慌てながら、自分で歩けるとサンジに伝えてはみるものの、彼に降ろす気は全くないようで、むしろ抱く腕の力をほんの少しだけ強められたような気がしただけだった。


「ここまで来るのもかなり辛かったろ? そんな怪我を負った体で無理しちゃいけねェよ」
「ご……ご迷惑、お掛けします……」


事実、エマの傷は今も尚ズキズキと痛み、彼女の体の自由を蝕んでいた。
羞恥もあったが、今はサンジの優しさに甘えさせてもらおうと決意したのだった。





―――――






「あーっ! サンジ! エマ!!」
「もう! 二人ともどこ行ってたのよ! あんた達のせいでこっちは大変だったのよ!?」

サンジさんに船に連れて戻ってもらうなり、船の甲板からわたし達を見つけたチョッパーさんとナミさんの大声が飛んでくる。勝手に船を出て行ってしまったことは非常に申し訳なく思っているけれど、一体そんなに、何が大変だったというのだろう。
そう思っていたら、船の中からものすごい勢いで飛び出してきたのは、おじいちゃんだった。


「エマっ!! ……ホレ見ろ!! お前達の仲間が連れ去ってたじゃないかッ!!!」
「え? 連れ去るって……??」
「おいどうなってんだよサンジ! ……っま、まさかお前本当に誘拐を……!?」
「なんだとォ!? やめろよサンジ〜! おれそういう変なことしねェってエマと約束してんだぞ!!」
「なっ! 誘拐なんかしてねェよアホ!!」
「いーから早くこっち来て! ちゃんと説明してっ!!」


もうこのおじさんうるさくて手に負えないの!とおじいちゃんを指差しながら煩わしそうに言うナミさん。
船にいる皆さんももう全員目を覚ましていて、そのまま流れで会議室のようなところに集合した。わたしはその部屋の椅子の上に座らされるように、そっとサンジさんに降ろしてもらえた。わたしの隣に腰掛けるサンジさんにお礼を言うと、ニコッと微笑みをくれる。
そんな素敵な笑顔に見惚れる間もなく、バンッとテーブルを叩く音にびくっとする。


「なぜエマを連れ去った!!」


音を立てたのはおじいちゃんだった。そしてとんでもなく的外れなことを言っている。
サンジさんは呆れたような顔を浮かべるばかりで、わたしは慌てておじいちゃんに悪いのは全て自分なのだと説明をした。


「ち、違うんですおじいちゃん! サンジさんはわたしを心配して来てくれただけ……! わたしが勝手に、ひとりで出て行っただけなんです!」
「そんな体でひとりでどこに行ったと言うんだ!」
「パパとママのいる家に!!」
「!」

わたしが堂々とそう答えると、おじいちゃんは目を見開いて、真っ直ぐにわたしを見つめた。
……おじいちゃんだけじゃない。皆さんに心配されていることが目に見えて分かる。
わたしは笑った。大丈夫、と。そんな思いを込めて。

そしておじいちゃんに、伝えたかった気持ちを言葉で渡した。


「おじいちゃん」
「……なんだ……?」
「9年間、あの場所を守り続けてくれて……それから、わたしにその心の憎しみを見せないでいてくれて……ありがとう」
「エマ……」
「おじいちゃんのおかげでわたし、これからもちゃんと、生きていけそうです」
「!!」


わたしがそう言うと、おじいちゃんは目に涙をいっぱいためて、震える唇をゆっくりと開いた。


「……もう、……もう……“死にたい”なんて思ってないか……?」
「はい……っ!」
「そう、か……そうか……!!」


良かった、良かった、とおじいちゃんは何度も同じ言葉を繰り返して、泣き続けた。




愛が生きろと叫ぶのです
(だから痛みを抱えてでも、生きてみようかと思ったの)


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