第256話「泣いてもいいよ」

代町。城川沿いに西へまっすぐ。
――そこに、私がお父さんと暮らしていた家がある。
地図を頼りに道を進み、時には人に道を尋ねながら歩き続けていくと、彩乃たちの前に1軒の家が見えてきた。
塀に囲まれた庭の奥に、小さな家がある。
もう何年も人の手が入っていないからか、辺りは草が伸びきっていて、一目で廃家だと解るほど荒れ果てていた。

「…………」

彩乃は静かな瞳でそれを確認すると、門扉に手を掛けて、それを軽く押した。
キィと錆びた鉄の扉が開く音がして、草むらの中を進む。
膝まで伸びた草を掻き分けながら進めば、家の前に辿り着く。
家の扉の横には表札があり、そこには「夏目」と書かれていた。
彩乃はその表札に吸い込まれるようにそっと触れる。
軽く撫でると、無意識にポツリと呟いた。

「……ただいま。」

叔父さんから預かった鍵で家の中に入れば、埃っぽい臭いが鼻を刺激した。
無言で家の中に入り、そのまま探索すべく歩き出す。
彩乃が無言でいる間、リクオも何も言わずに彩乃の後をついてきていた。

「――あ。」

いくつかの部屋を見て回った後、台所であるものを見つけて、彩乃は小さく声を漏らした。
台所の壁にクレヨンで描かれた絵を見つけたのだ。
如何にも幼い子供が描いたようなよくわからないちょっと下手な絵。
それを見て、彩乃は思わず口角を釣り上げた。

「――私が描いたのかな……結構やんちゃだったんだなぁ〜」
「これは……猫かな?」
「う〜ん、多分。こっちは花……かな?」
「ふふ、彩乃ちゃんも以外にイタズラ好きだったんだね。」
「あはは、そうみたい。」

可笑しそうに笑うリクオに、彩乃は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
そして何となく台所の収納棚の扉を開けてみる。
すると……

「――あ……」

彩乃はそれを見て、息を飲んだ。
収納棚の扉を開けてみると、扉の裏にはまた絵が描いてあったのだ。
男性と女性の絵。恐らくはお父さんとお母さんなのだろう。
その二人の真ん中には、小さな子供の絵。
彩乃はすぐにそれが自分なのだと解った。
絵の中の親子は、とても幸せそうに笑っている。
自分はもう覚えていないが、これを嘗て自分が描いたのだと思うと何だか胸がぎゅっと締め付けられるような、嫌な痛みを感じた。
思わず胸のあたりを押さえて、服を掴んで握り締める。
シャツがシワになるくらい強く握り締めると、余程酷い顔をしていたのだろうか、リクオが心配そうにこちらを見ていた。
それに気付いて慌ててぎこちなく笑うと、リクオは何故か悲しそうに目を細める。

「――大丈夫?」
「……うん。ありがとう。……こんな所に描いちゃったのに、お父さんは消さずに残しておいてくれたんだなぁ〜」

描いた時のことは覚えていないのに、不思議と懐かしい気持ちになる。
彩乃は愛おしそうに親子の絵を見つめると、少しだけ切ない気持ちになってしまった。

………………
…………

「――それで、どうだ?」
「ん?」

あれからまだ見ていない部屋を一通り見て回り、全ての部屋を見終わった三人は、縁側に腰掛けてのんびりと夕焼けを眺めていた。
不意にニャンコ先生が話し掛けてきて、彩乃は視線を庭に向けたまま耳を傾ける。

「少しは思い出せたのか?ここでの暮らしを……」
「んー……やっぱりもう殆んど覚えてないなぁ〜……いっぱい……いっぱい大事なことをすっかり忘れちゃったんだろうなぁ……」
「……そうか……」

彩乃は視線を庭に向けたまま「うん」と小さな声で答える。
どこか遠くを見つめるような、そんなガラス玉のような瞳に、リクオは何だか彩乃がどこか遠くへ行ってしまうような、今すぐ自分の前から消えてしまうんじゃないかと思うような、何とも言えない不安な気持ちになった。
泣いていないのに、その寂しそうな声を聞いて、リクオは彩乃が今にも泣き出してしまうんじゃないかと思った。
だけどそんな彼女に何と声を掛けたらいいのか言葉が見つからず、リクオは無言で彩乃を見つめることしかできない。
そんな時、不意に彩乃が視線を庭からリクオへと移した。
突然視線をこちらに向けてきたことで、彩乃とリクオの目が合う。
――彩乃は、微笑んでいた。

(――あ、これは作り笑いだ……)

彼女は今、無理に僕に笑顔を向けている。
リクオはすぐにそれが解った。

「今日は付き合ってくれてありがとうね。リクオくん。」
「……彩乃ちゃん……」
「もうこんな時間だし、そろそろ帰ろうか。」

にっこりと綺麗に笑う彼女を見て、リクオは眉間にシワを寄せて、苦しげに顔を歪めた。

「……まだいいよ。」
「でも、遅くなると氷麗ちゃんたちが心配するよ。」
「――いいから……」
「でも……「いいから!」……リクオ……くん?」

声を荒げて大声を出したリクオに、彩乃はやっと彼の様子がおかしいことに気付く。
怪訝そうに眉をひそめ、リクオの名を呼ぶ。
すると俯いていたリクオがゆっくりと顔を上げ、彼の悲しげな表情に、彩乃は息を飲んだ。

「無理に笑わなくていいから……そんな風に、無理に笑顔を作らないで。
悲しいなら、泣きたいのなら、ちゃんと泣いていいんだ。」
「――っ」

リクオの言葉に、彩乃は目を見開く。
リクオは真剣な表情で言葉を続ける。

「彩乃ちゃんはいつも、何かを必死に隠そうとする時、無理に笑うよね。嘘をつく時とか……みんなに心配をかけないように気を使うのは彩乃ちゃんの良いところだけど、自分の気持ちにまで嘘はつかないで。本当はまだここに居たいんでしょ?僕のことは気にしなくていいんだ。この家に来れるのは今日しかないって言ってたじゃないか。そんな……今にも泣きそうな顔で笑わないで。」
「……っ、でも……だって……そんな迷惑……「かけていいんだよ。」
「かけてもいいんだよ。迷惑かけたっていいんだ。彩乃ちゃんはもっと我が儘言っていいんだよ。君の周りの人たちは彩乃ちゃんが大好きだから、それくらい許してくれる。迷惑だなんて思わない。少なくとも僕は、迷惑だなんて思わない。僕には嘘をつかなくていいんだ。僕の前でくらい、泣きたい時くらい、泣いてほしい。」
「……」

とても真剣な瞳で、まっすぐに彩乃に訴え掛けてくるリクオの言葉に、彩乃の瞳が不安定に揺れる。
彩乃はそっとリクオから目を逸らすと、再び庭に視線を向けた。

「……昔ね……この庭のどこかにお母さんが花の種を植えたんだって……」
「――え……」

突然関係のない話をし始めた彩乃に、リクオは戸惑った様子で彩乃を見るが、何の感情も無いような無表情の彩乃の声がとても穏やかなものだったことで、リクオは静かに耳を傾ける。

「お母さんは私が生まれてすぐに亡くなってしまったから、どんな人だったのか知らないの。でもね、お父さんはお母さんの庭をとても大切にしていて、毎年庭に花が咲くのを楽しみにしていたみたい。もう殆んど覚えていないけれど、そんな話しをしたことがあって、私はよくお父さんとこの縁側で庭を眺めるのが好きだった。」

彩乃はポツリポツリと思い出しながら話しを続ける。
目を閉じると、うっすらとだけど思い出す。
夏の暑い日差しの中、この縁側で風鈴の音を聞きながら、お父さんと二人で庭を眺めていた。
花が咲くのを毎日のように楽しみにしていて、飽きもせずに何時間も庭を眺めていた気がする。

『――彩乃』
『――彩乃』
『今年も咲くといいな。』

穏やかな声で、優しい笑顔で、私の頭を撫でてくれた。

「どこかなぁ……もうわからないや……」

――ああ、どうしよう。
今すごく泣きそうだ。
声は震えていないかな。
泣きそうなの、気付かれてないかな……
リクオくんは迷惑じゃないと言ってくれた。
泣きたい時は泣いていいと言ってくれたけど……
やっぱり、誰かの前で泣くのは……抵抗がある。
彩乃はぐっと下唇を噛んで、泣きそうになるのを堪えようとした。
すると……

「!」

不意に彩乃は右手にぬくもりを感じて、俯いていた顔を上げる。
見ると、リクオが彩乃の右手に自分の手を重ねていた。

「……リクオくん?」
「……」

戸惑う彩乃にリクオは何も言わなかった。
こちらを見ようともせず、けれど、リクオは重ねた彩乃の手をぎゅっと握り締めた。

「……っ」

彩乃が思わず手を引っ込めようと動かせば、すかさずリクオは自分の手を滑り込ませて握ってきた。
そうすることで、先程の手の甲ではなく、手の内側が触れ合い、一層リクオのぬくもりを感じやすくなった。
彩乃はどうしたらいいのか分からずに戸惑うが、リクオの手から伝わるぬくもりに、我慢していた気持ちが溶かされて溢れそうになる。
――ダメだ。
泣いてはダメだ。
そう自分に言い聞かせて我慢しようとしていたのに……

「――泣いていいんだよ。」
「――っ」
「見てないから……見ないから……泣いていいよ。」
「……っ」

自分を心から気遣う優しい声に、じんわりと目に涙が浮かぶ。
思わず彩乃が無意識に手を強く握れば、リクオもそれに応えるように強く握り返してくれた。
――いいのだろうか……
甘えても、泣いても……
――でも、どうか今だけは……

「……ぅ……ふぅ……」

ポタリポタリと、彩乃の目から涙が零れ落ちる。
一度泣き出してしまえばもう、止められなかった。
溢れる気持ちのまま、流れて止まらない涙を彩乃は空いている左手で拭いながら、声を殺して泣いた。
くぐもった小さな嗚咽は、ザワザワと風に揺れる草の音に掻き消えてはくれなかった。
きっとリクオの耳にも先生の耳にも聞こえてしまっているだろう。
それでも、それでも……
今は気が済むまで泣いてしまおう。
泣き止んだ時、もう悲しくならないように……
今度はちゃんと笑えるように……
握ったリクオくんの手のぬくもりがとても温かくて、優しくて。
どうしても暫くは涙が止まりそうになかった。

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