第255話「帰るんだ」

「カナシイキオク」
「タベテアゲル。クチ、カイテ。キットラクニナル。クチカイテ。」
ザワザワ
ザワザワ

ムシクイの靄が彩乃の体に、心に纏わりついていく。
ムシクイの言葉を、彩乃は虚ろな瞳でぼんやりと聞いていた。

「……確かに痛い記憶だけど……今の私を作っている欠片でもあるの……だから、失っていいものじゃない。」
「タベテアゲル。クワセロ。キオクモココロモ……クワセロ!!」
「っ!」

彩乃に纏わりつく瘴気が濃くなる。
彩乃の顔が苦痛に歪み、意識が持っていかれそうになる。

『彩乃』
『彩乃ちゃん』

――声……?
声がする。
私を呼ぶ、優しい声……

『彩乃さん』
『夏目』
『夏目さま』
『――ええ、勿論』
『行ってこい彩乃。』

ドクン…… 

――ああ、そうだ……
私は……
私には……
もう帰りを待ってくれている大切な人たちがいる。
――帰らなきゃ……

「帰るんだ!!」
カッ!!
「ギャッ!!」

彩乃の心からの想いを乗せた言葉が「言霊」という力になって放たれる。
彼女の強い想いは光となってムシクイを消し飛ばした。

「――はっ!」

不意に彩乃の意識がはっきりとして、目を覚ます。
すると彩乃の体から、黒い靄となってムシクイが出てきた。

「ぎ……ぎぎ……」
「でかした」
どろん
バクンっ

ニャンコ先生はムシクイが彩乃の体から完全に出ていったのを確認すると、本来の姿になって大きな口を開けると、そのまま逃げようとしていたムシクイをパクリと食べてしまったのだった。
ごくりと飲み込んだ斑は、不味そうにぺっぺっと舌を出して唾を吐き出す。

「――まずっ」
「……ニャンコ先生……」

ぼんやりとした頭でその様子を眺めていた彩乃は、呟くような小さな声で先生の名を呼んだ。
すると、ずっと側にいたリクオが彩乃の顔を覗き込む。

「大丈夫?彩乃ちゃん。」
「――リクオ……くん?」

虚ろげにゆらゆらと揺れていた瞳がしっかりとリクオを捉え、彩乃は自分が戻ってこれたのだと漸く理解してきた。
ゆっくりと起き上がると、突然リクオに抱き締められた。
人間の姿のリクオと彩乃では、彩乃の方が少し背が高い。
だから抱き締められると、自然とリクオの頭が彩乃の顔にくる。
ふわりと嗅ぎなれないシャンプーの匂いが鼻をかすめ、細いながらに力強い腕がしっかりと彩乃の背に回されている。
突然のリクオの行動に、彩乃はきょとりと目を丸くしたあと、戸惑ったようにリクオを見た。

「……リクオくん?あの……」
「良かった……」
「――え?」

とても小さな声でそう呟かれて、彩乃は微かな声を聞き逃さないように耳を澄ます。

「……本当に……無事で良かった……」
「……(リクオくん……震えてる……)」

泣きそうな、とても安堵したような、そんな感情のこもった声でそう言われ、彩乃はリクオの体が微かに震えていることに気付いた。

(――私……リクオくんをこんなにも心配させちゃったんだ……)
「……リクオくん……私は大丈夫だよ。」
「……うん。」

震えるリクオを安心させようと、彩乃もおずおずとその手をリクオの背に回す。
子供をあやすようにポンポンとリクオの背中を優しく叩いてやれば、彩乃を抱き締める腕の力が強くなった。
彩乃は少し苦しいと感じながらも、リクオの震えが止まるまで、彼の好きにさせておくことにした。
視界の隅に、依り代の姿に戻ってこちらを静かに見つめるニャンコ先生が映る。

「――先生。私を呼んだ?」
「ん?」
「私の記憶を……見た?」
「――ふん。」

彩乃の問いに、先生はどうでもよさげに鼻を鳴らす。

「お前の記憶などに興味はない。所詮……友人帳を頂くまでの付き合いさ。」

言葉だけなら冷たいとも取れる一言。
だけど、その穏やかな声の中に、彩乃を思いやる優しい気持ちが感じられた。
何だかんだと憎まれ口を叩いても、この優しい気まぐれな妖は、彩乃の側にいてくれるのだろう。

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