第267話「美しき琴弾」

「……目……」
「……夏目……」

――私を呼ぶ声がする。
この声は、蛇の目さんだろうか……
私を探しに来てくれたんだ。早く起きて、磯月に向かわないと……
ああ、でも……身体中が痛くて、どうしても起き上がれそうにない。

「……っ」
「夏目!」

ゆっくりとまぶたを開けると、目の前には私の顔を心配そうに覗き込む蛇の目さんの顔があった。

「――大丈夫か?」
「……うん……琴は?」
「無事だ。お前が守ってくれた。」
「……そう。良かった……」
「――夏目、立てそうか?急げばまだ道に間に合う。無理なら俺が抱えていく。行こう夏目。行こう!」
「…………」

力強いアカガネの言葉に、彩乃はゆっくりと瞬きをする。
アカガネをぼんやりと見つめた後、彩乃はゆっくりと目を閉じた。
――そして、再びその目を開いた瞬間、彩乃はとても優しい笑顔を浮かべて、アカガネを見た。

「――叶うなら、もう一度だけでも弾きたいと思った。」
「ずっと、ずっと……あの方の為にだけ弾いてきた。だから、もし、もう一度弾くことが叶うなら、優しくて、大切な友人の為……」

アサギはそう言いながら、ゆっくりと起き上がる。
そして、アカガネが持っている琴へと手を伸ばした。
優しい手つきでアカガネから琴を受け取ると、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべて言った。

「貴方の為に弾きたいと思っていた。アカガネ……聴いてくれますか?」

彩乃の体を借りたアサギが、ゆっくりと琴を構える。
その指先が弦を弾いた瞬間、空気の流れがガラリと変わった。
アサギとアカガネを取り巻く空間だけが、まるで世界から切り離されたかの様に静寂に包まれた。
ただ、ただ、アサギの奏でる美しい琴の音色だけが辺りに響く。

………………
………

――遠くで、音楽が聴こえた。
聴いたことも無いような、美しい音。
まるで私の指が奏でているとは思えない程の……
それでもその音は、私の指先から生まれ、空気を揺らして、まるで空へと落ちるように……アサギは私から剥がれていった。

*******

――翌日、無事に彩乃から離れることができたアサギとアカガネは、旅に出ることになった。
朝早くから彼等を見送る為に、彩乃やリクオたちは集まった。

「――世話になったな。」
「……これからどうするの?」
「二人で里に帰る。」
「そっか……」

そう呟くと、彩乃はふと、アカガネの腰にある瓢箪にそっと触れた。
中にはアサギが憑依している。

「……深く深く、眠っただけだよ。」
「……うん。またねアサギ。元気でね。」

瓢箪から手を離すと、今度は彩乃は顔を上げて、アカガネを見つめた。

「蛇の目さん、またね。」

当たり前ように「またね」と再会を約束する言葉を使う彩乃に、アカガネはふっと口角を釣り上げた。

「――ああ、またな。夏目。」

アカガネはそう言って、アサギと共にこの地を去って行った。
――いつか.......いつかアサギの病は治るだろうか。
もしも治すことができずに、二人がいつか別れる時がきても、悲しいだけの別れにだけはならないで欲しいと、そう.......願わずにはいられなかった。

.....................
..............

「――気は済んだか?お人好しめ。」
「いいじゃない別に。あんな綺麗な音色を聴けたんだもの。」
「.......ふん。いい加減に懲りろ、阿呆め。」

ニャンコ先生は付き合いきれないとばかりに鼻を鳴らす。
そっぽを向いて、わかりやすく拗ねてしまった先生に苦笑しながら、彩乃はそっと先生を抱き上げた。

「――ニャンコ先生は、ずっといたいと思える場所ってあった?」
「ふん。そんなもの私には一生必要ないさ。」
「.......ふーん。私もね、先生。私もずっとそう思っていたんだけど.......」

彩乃がちらりとリクオを一瞥すれば、不思議そうに首を傾げる。

「?、何?彩乃ちゃん。」
「ううん、なんでもない。」

よくわかっていないリクオに、彩乃は静かに首を横に振る。
そうしてまた、いつもの日々。
軽くなった体の感覚と静けさが戻って、ほんの少し寂しいと思った。
残されていった楽器を弾いてみたけれど、もうあんな美しい音は出なかった。
あの音は、私の指ではなく。
アサギの心が奏でたのだろう。

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