01

 ―――もう駄目だ。

 身体に力が入らない。下へ、下へと落ち往く感覚。息が苦しい。段々と意識が朦朧としてきた。羽根を広げなければ。今は登れなくても、せめてこれ以上落ちないように浮かぶことくらいは。

 一枚、また一枚と背中にあったはずの羽根が身体から離れていく。

 ―――お願い、私から離れないで……。

 ―――そうでなきゃ、私、もう飛べない……。

 飛べない天使なんて、それはただの―――。






 幾らかの雲を連れた空は青い。
 滝から流れる水は濁りなく、透き通っている。時々かかる水しぶきが春の心地よい天気もあって心地よく感じられる。

 そういえば、この滝を流れる水は体にいいのだと聞いた。どうやら、体内の活動を活発にして、病気に強くなるらしい。


 そんなことを考えながら、リディアは、常盤の瞳に自身の背丈と同程度の石像を映していた。
 石像の台の部分には『守護天使 リディア』と書かれている。

「どう見ても私には見えないんだよねぇ」
 リディアの呟きは滝の音に混じって誰もいない辺り一辺に虚しく。やまびこすら返ってこない。

「だからと言って、師匠に似ているわけでもないし」
 リディアの師であるイザヤールは、リディアの年頃の女の言葉で言うなら『コワモテ』と形容するのが似合うような厳格そうな顔をしているし、どちらかと言うと天使ではなく武闘家と僧侶を足して二で割ったような方であった。そう言えば、人間界で流行りの冒険物語に僧侶と武闘家の二職を併せ持った女の子が出ていたなぁ、と懐かしいことを思い出した。
「そもそも、この天使像のモデルになって方って女性なのかしら、男性なのかしら」
 天使像は極めて中性的な顔立ちをした天使が彫られている。リディアが本格的にイザヤール師の後を継いで守護天使になりたいと決意した時、師が実際の守護天使の仕事を見せて下さると言って人間界に降りたのが最初。もう100年以上前のことだ。その時にリディアは守護天使像を見たのであるが、その時から中性的で美しい天使が像として崇められていた。初めて見た時、全然師匠と似ていないじゃないか、と思ったものだ。もはや詐欺レベルである。
 疑問は尽きることがない。ここ数か月は守護天使の引継ぎで忙しく、ゆっくりと物事を考える時間がなかった。その反動なのか、こうして守護天使像を見上げると次々に疑問が浮かんでくる。リディアは考えることが好きだった。

「よお、そこの新入り」
 守護天使像のモデルは誰なのか、なぜ、守護天使像はリディアにも師にも待ったく似ていない姿をしているのか。脳内でリディアがディスカッションをしていると、ふいに後ろから声がした。
 リディアは声を聞いただけで誰だか分かった。同時に、心底げんなりした。出来れば会いたくないと思っていたからだ。

「あら、こんにちは。今日もいい天気ね。私に何か用?」

 リディアは声の主に顔を向けた。
 人と話をする時はきちんと相手の目を見なさいと、師匠に言われたからだ。
 実際にニードと会話するのはこれが初めてであるが、リディアは守護天使としてニードのことを見てきた。おおよそ平和で大きな事件の起こらないこのウォルロ村において、ある意味一番の問題でもあるのはニードのことだった。
 何となく、リディアは彼―――ニードの今回の絡みのネタが読めていた。守護天使像の前で鉢合わせてしまったからには、ニードが次に言うことはきっと。

「お! 誰かと思えば、この前の地震のどさくさで村に転がり込んだリディアじゃねーか!」
「全く、リッカもなんでこんな得体の知れないヤツ家に置いてんだ?」
「ニードさんあれですよ、こいつの名前が天使と同じだから、それで気に入ってるんスよ」
「その名前も本当かどーだか」
 ニードとその取り巻きたちはリディアが何も言わないことをいいことに、好き放題に言いまくった。
 天使界にいた頃も嫌味はよく言われていたのでリディアはニードの発言を軽く聞き流した。こういう時、天使界で培ったスルースキルがいいように作用してくれるので嫌な思い出にも耐えられるというものだ。
 それに、リディアが大地震の時にどさくさに紛れてこの村にやって来たのも事実だし、あの頃は偽名を名乗ることが頭になかったため、馬鹿正直にこの村の守護天使と同じ名前である本名を名乗ったことも事実だ。悔しいことに、今のリディアにはニードに言い返すネタがなかった。

 (こんなことなら、適当にエスケイプとでも名乗っておけばよかったかも)

 突如村へやって来て、嵐のように村から逃げる。うん、なかなかいい偽名だ。

「大方、売れない旅芸人が 天使の名を騙ってタダメシにありつこうって魂胆なんだろ!?」
 ニードがどや顔で言った。
 確かに、リディアがリッカの好意に甘えてタダで衣食住を提供してもらっていることも事実だ。ぐうの音も出ないし、というかニードに言われて流石にそろそろリッカに申し訳ないな、と思った。
「そうね、私ももう動けるようになったから、これまでの恩をリッカに返さないとね。リッカのお仕事の手伝いくらいはしなきゃ。ところで、さっきここに来る前に道具屋のおじさんが『ニードは親の仕事も手伝わないで毎日ちゃらんぽらんしている。まさにニートだな、ガハハ』って奥さんと笑い話をしていたから、ニードも私みたいな天使の名を騙ってタダメシにありつこうとする売れない旅芸人の相手なんかしないで、お父様のお仕事を手伝った方がいいかも……」
「なっ、あのクソ道具屋、そんなこと言ってたのかよ……!!」
 リディアの話を聞いて顔を真っ赤にさせるニード。
 ニードの性格的な傾向からすると、恐らくリディアが男であれば怒りに任せて殴り掛かってきただろう。流石のニードも女に暴力は振るわないようだ。
 “さっき聞いた”という点以外は全て事実であるし、ニードが知らないだけで、村人たちはいい年して学の業を修めるわけでもなく、職を全うするわけでもないニードのことを軽く問題視している。ちなみに守護天使時代に五歳くらいの子どもたちが「将来ニードみたいになるんじゃなくて、リッカみたいになれと親に言われた」と会話していたのを偶然小耳にはさんだこともあるのだが、10以上も年の離れた少年少女に馬鹿にされていると知ればニードの雑なプライドに傷が入ってしまうだろう。流石にそこまではリディアも言うつもりはない。

「お前なあ、さっきからいいように言ってるけど、ニードさんはな、最近リッカがリディアのことばかりかまうから気に入らないんだよ!」

 このウォルロ村に携わってまだそれほど長くはないのだが、リディアにもニードがリッカに好意を抱いていることはすぐに理解できた。一つは、お師匠様から人間達のことはよくよく見ておきなさいとしつこく言われていたから、そしてもう一つは、単純にニードの好意が分かりやすいものであったからだ。

「あ、ごめんね。ニードもリッカにかまってもらいたいもんね」
 リディアはニードに嫌味とからかいをこめて言った。

「お前、なんてこと言うんだ!違うんだ、リディア!別に俺はリッカなんてどうでもいいんだよ!」
「うん、私ばかりリッカの手料理を一人じめしていることは謝るよ。ゴメンね。リッカの美味しい手料理を私なんかが食べちゃってゴメンね。でも、リッカは大地震のどさくさに紛れてタダメシにありつこうとする売れない旅芸人の私にも美味しいご飯を提供するし、ニードもそんなに食べたいんだったら、リッカに頼んだらいいよ」
「違うって言ってるだろ!ちゅーか、絶対『売れない旅芸人』のこと根に持ってるだろ!あのなあ、誰だって芸をやらない旅芸人なんて売れないと思うだろ!」
「それは確かに……。そうだ、今度あなたたちにとっておきの芸を見せてあげる!あ、もちろんリッカも誘うよ。ニードはリッカの隣で見れるように配慮するから安心して!」

 幸いにもリディアは芸を一つ知っていた。ダーマ神殿の守護天使が、神殿に住み着く幽霊から教わった芸で、今、天使界で小さな流行りとなっている。


「だから、違うって!なんでそこでリッカが出てくるんだ!」
「え、だってニード、売れない旅芸人の私がリッカの美味しい手料理を独り占めするのが許せないんでしょ?それってリッカのことがす」
「なんでお前がそれを知ってるんだよ?!お前とまともに話したの、今日が初めてじゃねーか!」
 さりげなくリッカへの好意を認めている気がする。
 言うとさらに面倒なことになりそうだったので、口に出さなかったが。
「うーん、売れない旅芸人の勘ってやつ?」
 リディアの言葉にニードは固まってしまった。純情なニード君には少し衝撃的すぎたのだろうか。


「ちょっと、ニードったらうちのリディアに何か用?!」
と、そこへ当のリッカがやってきた。
「よぉ、リッカ……」
「どうしたニード君、さっきまで私に嫌味を言ってたように威勢よくいきなよ」
「うるせぇ」

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Honey au Lait