02
「リ、リッカ。違うんだこれは」
緊張か、はたまたリッカお気に入りのリディアに対する散々な仕打ちへのバツの悪さからか。明らかにリッカの前であがってしまうニード。そんなニードをリディアは彼の取り巻きたちと面白半分に見守っていた。
「リディアも、まだ病み上がりなんだから無理しちゃダメよ?」
「ゴメンね?でも、もう治ってるから大丈夫だよ」
リディアは両腕を回して、嘘ではないことを証明した。
ほら、と笑いながら腕を回すが、リディアの笑顔の中に、複雑な心境を含んでいることも事実であった。
守護天使である自分が、守護するはずの人間に心配されるというのは、言葉では言い表わせないけど、何か違和感を感じるのだ。
師匠には、時には人間にも感謝しなさい、と言われていたし、心の底から感謝はしているのだけれど。
もう三百年以上天使として生きてはいるが、リディアはまだ、人間でいうところの齢十七にすぎない。
胸に抱いた違和感の正体に気付くには、リディアはまだ若すぎた。
「ほら、まだ安静してなきゃいけないんだし、早く家に帰ろう?」
「分かった」
リッカが歩き出したのでリディアもリッカの後につづいた。リッカが彼女のトレードマークとも言えるオレンジ色のバンダナを巻いている時は、リッカが仕事をしている時だ。つまり、リッカは仕事の合間を縫ってリディアを探しに来てくれたのだ。
リッカの優しさは嬉しいが、ここまで優しくされると申し訳なくなる。
「ニード、本当にゴメンね!あなたもお父様の夕食をいただくといいよ」
もちろん、取り残されたニードには謝罪を忘れずに、リディアはリッカの後を追った。
一体、このわずか数十分のやりとりで、どれだけニードに謝っただろう?
「あれー……ちょっと……」
リッカとリディアの姿が完全に見えなくなってから、ニードの呟きが虚しく青空に響いた。
全世界をとどろかす大地震が起きて一週間。ウォルロ村は比較的被害が少なかったようだが、あの地震の後にやってきたリディアに対し、『地震が起きたのはリディアが原因だ』などと根も葉もない噂を流す村人も数人いるようだ。心優しいリッカは、そんな話を聞くたびに「そんなことはない」と否定してくれるのだが、正直なところ、地震とリディアが無関係だとは言い切れず、リディアは歯がゆい思いをしていた。
(あの日、私は女神の果実を実らせた)
現実に存在するとは思えないほど、美しく輝く世界樹。そして、世界樹に実った女神の果実。
(女神の果実は本当に私たちに救いをもたらす果実だったのかな)
ブクブク。ブクブク。
鼻にかからない深さまで、顔を水槽に沈め、息を吐く。水中で発生した二酸化炭素とその他諸々の気体はワクワクするような独特の音をたてる。
湯船は気持ちよくて、リラックスしながら物事を考えられるのでリディアは入浴の時間が好きだ。水中は重力に縛られることもなく、前みたいに地上をプカプカ浮けるのではないか、とすら思える。
(いや、本当は女神の果実は救いの果実じゃなくて)
(禁断の果実なのかもしれない)
ブクブク。ブクブク。
息を吐きすぎたのか、少し苦しくなったのでリディアは口を閉じた。
(ウォルロ村に落ちて一週間。怪我は治ったけど)
(結局羽根も輪も戻らないや)
リディアは眼を瞑った。瞳を閉じれば、脳裏に浮かぶのは故郷である天使界のこと。同僚たちのこと。
天使界に帰りたい。けれど、そこへ帰る手段をリディアは持っていない。お金があればキメラの翼が購入できるが、いくらキメラアントがその翼に古代に存在したルーラの魔力を蓄えていて、一度足を踏み入れたことのある地へ移動できるからといって、人間界に存在する道具で天使界へ入れるなど、あり得ない。というかそんな簡単な方法で天使界に足を踏み入れられたら危険だ。
(そもそも、今の私ってちゃんと天使なのかな)
羽根だってなければ天使の輪もない。その上、本来人間には見えないはずなのに、今では誰にでもリディアを見ることができる。触れることができる。
唯一自分が天使であることを証明できるとすれば、人間界に存在しない服、天使の服をまとっていることくらいだ。
(飛べない天使なんて、天使じゃない)
他の天使はどうしているだろうか。あの日、天使界から振り落とされた天使は何もリディアだけではないはずだ。少なくない数の天使が地上に落ちただろうし、そうなれば天使界に残った天使としても、地上に落ちた天使を探しに出るはず。
ウォルロ村に落ちてから一週間。リディアは他の天使の姿をみたことがない。
ウォルロ村は小さな村だ。もしここに天使がいたなら、とっくにリディアは気が付いていただろう。
セントシュタインへ行けば他の天使に会えるだろか。
(早く帰りたい……)
「リディアー、ここに着替え置いておくから。あんまり長湯すると、のぼせちゃうよ?」
リッカの声が聞こえる。
どうやら湯船で考え事をしすぎたようだ。リディアの後にリッカの祖父が入浴することになっていたはずだから、早く出なければ。
「ごめん、すぐ出る!」
考えても仕方ない。今日はもう早く寝て、明日また考えよう。
リディアは湯船から出て寝間着に着替えた。