Flavor


「名前、これそろそろ発注する?」
「あーー、」

声が出ない。平日のお昼過ぎ。店のカウンターにもたれ掛かりながら、ふらつく足元をなんとか支える。頭は痛いし、朦朧とする。寒気なんてものも自分の体を襲って来た。どうやら、風邪を引いたらしい。

「もう、何で無理して来たの!」
「だって、仕事……」

目の前にいたバイトの友人が、使い物にならない私を支えてくれる。気怠さがあったのは、昨日の晩から。家に体温計などないものだから、大丈夫だろうという安易な考えで仕事に来た。見事、悪化したけれど。

「体調管理も仕事のうち!店長に言っておくから、今日は帰りなよ」

人もいるし、大丈夫。そう言うと、彼女は私をバックヤードへ押し込もうとする。

「あ、待っ、今やってた仕事だけ」
「だめ!それバイトでも出来るから私がやる!」

意地でも終わらせようとした私を止めて、彼女はちょうど居合わせた店長に声を掛けた。私の顔を見た店長は、勿論「帰れ」と言い放つ。上の命令は絶対だ、私は頷くしかなかった。

「上がり?」

着替えて店を出ようとしたところで、よく会う人物に出くわした。サングラスを外し、驚いたような顔をする瀬名さん。声が上手く出ない私は、とりあえず頭を縦に振る。その反動で、頭も痛む。さっき熱を測ったら、平熱なんて遥かに超えて完璧な熱だった。

「あ、瀬名さんこんにちは!」
「どうもぉ、どうしたの苗字さん」
「熱出したんですよ、ふらっふら。早く帰って寝なさい」

友人が横で色々と状況を説明してくれる。あれだけミーハーだった彼女も、今じゃもう常連客のひとりとなった瀬名さんと普通に話している。瀬名さんも気に入ってくれてるみたいだし、店員として嬉しい限り。そんなどうでも良いことを考えていると、瀬名さんが私を横目で見ていた。

「送ってく」
「……何を?」
「苗字さんをね」
「え?」

私の言葉なんか聞きもしなかった瀬名さんは、さっさとコーヒーを受け取ると突っ立っている私に向き直す。相変わらずの仏頂面、なんて言いたいところだけれどそこまでの元気はなかった。

「ほら、帰るんでしょ」

その言葉に引かれるように、私は瀬名さんの後を追う。

「瀬名さん、仕事は?」
「今日の朝で終わったのぉ」
「他に用事とかは」

歩くスピードは、心なしか遅く感じた。足が長いものだから、気を遣ってくれているのだろう。気遣いに甘えながらも、私はとぼとぼと歩みを進める。

「ない。何、俺が送ることそんなに嫌なの?そんなフラフラした体のくせに?」
「そうじゃなくて」

店から離れて暫くしたところで、瀬名さんが足を止め振り向く。何で、瀬名さんの機嫌を取らねばならないんだ。そう思いつつも言い返そうとした瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。

「っ、」

倒れそうになる体に力を込めて、辛うじてしゃがみこむ。ショルダーバッグや制服の入った紙袋が地面に落ちたけれど、そこは気にするのをやめた。

「言ってる矢先から」

頭上から瀬名さんの声が聞こえる。応えてやりたかったけれど、弱った体は言うことを聞かなかった。もういっそ、ここが家でいい。近いはずの家までの距離がしんどい。

「苗字さん、運ぶから頑張って起きて」
「……え?」

腕を引っ張られ、流れで顔を上げるとそこには大きな背中。しゃがみこんで、ほら、と顔だけ向けて私を促す。いやいや、それは良くない。仮にも瀬名さんはアイドルだ。商売道具である彼自身に、この身を預けるわけにはいかない。立ち上がった私は、そんな瀬名さんを見て大きく首を振る。頭痛いんだった、今のでちょっとだけ怯みそうになる。

「それは、だめです」
「歩く事すらままならないくせに、意地はらないでくれる?」
「迷惑がかかる」

これがもし、通りすがりのファンに見られたら。万が一、スキャンダルにでも取り上げられてしまったら。想像するだけで血の気が引いた。これ以上、瀬名さんに迷惑かけられない。それでも、瀬名さんは諦める事なかった。

「さっさとしてくれないと、そっちの方が迷惑なんだけどぉ」
「……重いですよ」
「別に、気にしない」

今は、ここで意地を張っている場合じゃない。私はゆっくりと、瀬名さんへ体を預けた。密着した体を持ち上げられ、浮遊感に少し酔いそうになる。瀬名さんの香りがする。コーヒーの香りとはまた違う、男性の香水でよくある香りだ。鼻が詰まっているのか細かく分からなかったけれど、心地よい香りなのは分かる。
それに、思った以上にがっしりした体。細身だと思っていたのに、私を支える腕もその背中も不安を与えない程しっかりしていた。鍛えているのだろうか、流石アイドルだなあ。その体に少しだけ、身を預けた。

「苗字さん、家まで運んで良い?」

終始無言だったから、飛びかけていた意識は瀬名さんの声で戻ってきた。辺りを見れば既に家の近く。

「……お願いします」

玄関前で背中から降りカバンの中にあった鍵を渡すと、慣れない手つきで瀬名さんが鍵を開ける。瀬名さんは扉を開けると、どうぞと私を誘導した。火照った身体を動かして、玄関で靴を脱ぐとふらりと部屋のベッドまで歩く。そしてそのまま私は倒れ込んだ。

「ちょっとぉ、ちゃんと寝なよ」
「瀬名さんすみません、鞄投げ込んでいいんで」
「そういう事じゃなくてさぁ」

玄関先で、大きくため息をつく声が聞こえた。体が弱りすぎて、今はそれに答えてる場合じゃない。もう眠くなってきた、無理だ。

「はいるよ」

おじゃまします、と小さく声に出した瀬名さんが部屋に入る音が聞こえた。部屋片付けてたかな、その前に大して物がないんだった。静かな部屋に、瀬名さんの足音が響く。

「瀬名、」

言いかけた矢先、瀬名さんはうつ伏せになっていた私の身体を持ち上げた。まるで猫のように。

「えっ」
「ベッドに入りな、そんな状態で寝てたら治るものも治らないでしょ」

一度立たされた私は呆然と、瀬名さんが布団を整える姿を見つめる。もしかして、私を子供か猫か、何か違うものとして見ているのだろうか。さっきまで身を預けていた背中が、何だか少し恋しい。けれども瀬名さんは、気にすることなく私と目を合わせて「ほら」とベッドへ誘導した。

「かたじけない」
「いつから武士になったの」

普段なら出ない冗談すら漏れる。布団をかけてもらった事で、私は眠気が増した。
瀬名さんは、何を思って私にここまでしてくれるのだろう。世話になってるからだろうか。いや、私は全然世話もしていない。ただ瀬名さんを、お客さんとしてよく思っているだけだ。ただ、家が近くて偶然にもライブに誘ってもらっただけだ。それ以上のものは、求めても生まれる事がないと知っている。

「じゃあ俺は、」
「瀬名さん」

無意識に伸びた手が、瀬名さんの服を掴む。
立ちかけていた瀬名さんは、中腰のまま動きを止めた。

「……なに」

目が合う。
瀬名さんの瞳からは、驚きと動揺が伺えた。何なら私の口も吃る。熱に侵された支離滅裂な思考回路は急に冷静さを取り戻し、一気に現状を把握させる。
何が言いたいんだっけ。瀬名さんにライブの感想と、お礼を。いつもご来店ありがとうございますという事を。お願いだから、部屋の隅に投げ捨ててある下着には気づかないでって事を。ここまでしてくれる意味を。

「……ありがとうございます」

全てを飲み込んで出た言葉は、仕事でも数えきれないくらい発する言葉だった。
結局のところ、私は瀬名さんとの距離感が分かっていない。繰り広げられた思考だって、取捨選択してしまえば話すに値しないものになった。今度、感想だけ言えれば良いや。私は、掴んでいた手を離した。

「はい、どういたしましてぇ」

自由の身となった瀬名さんは、立ち上がるわけでもなくまた膝をつく。私の顔を覗くと、少し微笑んだ気がした。
それも束の間、瀬名さんの手は私の頭をゆっくりと撫でた。
心臓が掴まれたかのように飛び跳ねる。理由もわからず、私はただ瀬名さんを見ることしか出来なかった。だから瀬名さんとの距離感が分からないんだ。瀬名さんはもしかしたら、何て変な気を起こしそうになる。心臓が、勘違いをするなと次は捻るように痛んだ。
会話もなく、瀬名さんは立ち上がる。私に背を向け荷物を持ち直すと、もう一度私に顔を向けた。

「休むんだよ、アルコールもだめ」
「分かってます」

玄関に向かった瀬名さんは、靴を履くと静かに扉を閉めた。一気にシンとした部屋に、寂しさを覚える。
しばらくして、おもむろに撫でられた頭を触ってみる。わかるのは、ただ熱を帯びた体だということ。熱のせいだろう。瀬名さんに触られた所は、まだ感覚が残っているようだった。

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