Mandheling


あの時出した熱は、寝ればすっかり下がっていた。
調子も戻り、今日も仕事に明け暮れている。常連さんにも元気そうでよかったと安心されてしまって、不本意だけれど認識されてるんだなと嬉しくなった。

お店は今日もコーヒーの香りを漂わせて、静かに時間を刻んでいく。
今日のコーヒーはマンデリン。深みのある味わいが特徴で、ミルクを入れる方も多いコーヒーだ。香りとともに流れるジャズミュージックは、聴き慣れてしまったのに未だに新しく感じてしまう。ただ単に覚えていないのだろうと、笑ってしまうけれど。

「もう大丈夫なの?」
「瀬名さん、こんにちは」

比較的空いている昼下がり、棚の整頓をしている私に声を掛けてきたのは瀬名さんだった。

「おかげさまですっかり元気です」
「それは良かった」

瀬名さん満足気な笑みを浮かべると、いつも通りコーヒーを注文した。慣れた手つきで会計を済ませ、コーヒーを受け取ると砂糖やミルクには一切手を付けず、小さな飲み口から香りを楽しんで一口飲む。それが瀬名さんのルーティンだ。
カメラなんて回っていないのに所作のひとつひとつが絵になっていて、どこかのミュージックビデオにでも使えそうな雰囲気だ。

「苗字さん」

盗み見がばれないうちにと手を動かそうとした矢先、さっきまで見ていた瀬名さんが私の目の前で足を止める。見ていたのがばれたか、と一瞬心臓が止まる気がしたけど私には言い訳の余地はない。盗撮してないから許して欲しいところ。

「なんでしょう」

何事もないかのように大してやってもいなかった作業を止め、瀬名さんに向き合う。瀬名さんの持っているペーパーカップから漂うマンデリンの香りが漂い心地よい。
瀬名さんは私をじっと見ると、おもむろにスマホを取り出した。

「苗字さんに紹介したいカフェがあるんだよねぇ」

スマホを慣れた手つきで操作し、画面を私に向ける。そこに映るのは、まるで芸術作品のようなラテアート。リーフが組み合わさって、相当な技術を必要とすることが分かる。

「ラテアート……」
「最近撮影の合間に立ち寄ったカフェなんだけど、ラテアートのクオリティが高い上に味も良かったんだよね」
「これで更に味も良いとなると、豆もミルクも拘ってそうですね。どこのですか?私も行きたいです」

ふと、言葉を止める。
顔を上げると思ってたより近い距離に瀬名さんの顔。その綺麗な瞳とコンマ数秒見つめ合ったのち、勢い良く身を引く。

「すみません、取り乱しました」
「や、べつに、良いんだけど」

恥ずかしくて顔が熱くなるのが分かる。それにしても瀬名さんの瞳は本当に綺麗だ。びっくりした。
さっきよりも心拍数が上がった心臓を抑えつつ、気持ち下に視線を向ける。最近瀬名さんと少しでも近い距離で話すと、どうも調子が悪い。カウンター越しならまだ良いんだけど。
少しの間があった後、声を発したのは瀬名さんからだった。

「今度、一緒に行かない?」
「……えっ」
「苗字さんが嫌じゃなければね」
「い……」

嫌じゃないです。
言い掛けたところで、また言葉が詰まる。意図が読めない。正直なところ、易々と答えられるのではなかった。これはお客さんと店員の関係なのか、それともご近所さんという関係なのか。枠が曖昧だ。
名前を決め兼ねる関係は、どうしてこうも後ろめたいものなのだろう。どこまでを線引きすべきか、グレーゾーンが多すぎる。

「……瀬名さんが、嫌じゃなければ」

優先したのは、もっと話したいなんて自分の小さな欲だった。
先日のこともある、ライブの件もある。このお誘いはご近所さんで当てはめて、感想を伝えたりお礼をすると考えれば良い。
私の返答に瀬名さんは、少しだけ目を細めた。

「電話番号」
「……カフェのですか?」
「違う、苗字さんの」
「私の、ですか」
「教えて」

朝から流れるBGMがまた耳に入る。
曲名は、やっぱり思い出せなくてもどかしい。

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