Cookie


 あの学院を卒業して早数年、アイドル業も安定してきた俺は一人暮らしを始めた。住み始めたのは都心部から少し離れ、落ち着いた雰囲気の住宅地。物件を見に行った時にそこがなんとなく学院周辺の住宅街に似ていて、あの青春を思い出した俺は柄にもなく即決してしまった。その時の判断には、まだ後悔していない。

 住み始めたマンションの最寄り駅周辺で見つけたのは、ひとつのカフェだった。駅から家までの通り道にぽつんとあるその店は、カフェらしくブラウンを基調とした外装。店の前にはブラックボードが置かれており、コーヒーやスイーツまでカフェらしいメニューが小洒落たイラストともに書かれていた。そのブラックボードの右端にさり気なく書かれていた「テイクアウト可」の文字。普段なら気に留める事なんてしないのに、その文字を見た瞬間俺は、吸い寄せられるように店内に入っていた。

 扉を開けると同時に視界に入ったのは、丁寧にネルドリップでコーヒーを淹れる店員。俺に気付いておはようございます、と挨拶をしてくれたその店員は、愛想の良い笑顔を向けてきた。


「瀬名さん似合いますね、テニス」

 カウンター越しの店員が人当たりの良い笑顔を向ける。彼女の名前は確か苗字さん、カフェに通い詰めるようになってよく話すようになった店員。他の店員は俺を見ると少し緊張した顔をするのに、この人は動じることもなかったからすぐに覚えた。自分に人気が出ている自覚はあるから仕方のないことだろうけれど、それだからこそ普通に接してくる人が少し嬉しかったり。別に、そこからどうにかなるってわけではないんだけどねえ。

 俺は、コーヒーを受け取ると苗字さんに礼を言う。彼女は行ってらっしゃいませ、と軽くお辞儀をすると笑顔を見せた。ひとり暮らしの身分、営業用の言葉だとしてもその言葉は少し嬉しい。

 何だか今日は、頑張れそうな気がする。


--と、思っていたのが数時間前の俺なんだけど。


「はあ!?ばっかじゃないの!?」
『あはは!そう怒るなよ〜!俺死んじゃう』
「うるさい!だからアンタにひとり暮らしは無理だって言ったでしょお!」
『と言っても、セナはすぐそこにいるから』

 陽気な声が携帯越しから響く。このバカ、もとい月永レオは俺が引っ越した後に同じくひとり暮らしを始めた。しかも俺と同じマンション、さらに言うと隣に。隣に住むと決まった時は、流石に胃が痛くなりそうだった。けれど意外とあいつはあいつなりにきちんとしていて、仕事に関しては今まで以上の結果を出している。そこに関しては文句ない。問題は私生活、これは俺がいないと成り立たないくらい。今だって、オフだった王さまは昨日の夜から何も食べてないと言い出した。死なれたら困る、勘弁して欲しい。今さら作って食べさせる気も起きない俺は、家の近くのコンビニに急いで向かった。

「何食べたいのぉ?コンビニで買うから」
『流石セナ!なんでも良い!』
「ふざけないでよねぇ!?」
「うわっ」

 店内に入ろうとした時、どん、と勢いよくコンビニから出ようとしていた人物にぶつかる。ぶつかった相手はそのまま跳ね返され尻餅をついた。

『どうしたセナ!?もしかして宇宙人にでも会ったか!?ああ、俺も会いたい!ちゃんと挨拶しろよな!うっちゅ〜!』

 ぶつかった相手に話しかけようとした瞬間、この状況を知らない王さまの声が携帯から響く。どうにかしたけれど、宇宙人には会ってないから静かにして欲しい。

「ああもう!王さまもう切るからね!」

 返事を待たず、俺は通話を切る。とりあえず謝らなければ。
 気づけば相手は立ち上がり、転がり落ちてしまったビールの缶を拾い上げていた。1人でビールとか、寂しい女。

「あんた、大丈夫?それ弁償する、」
「いえ、大丈夫……」

 俺は、うるさい声が聞こえなくなった携帯を片手に顔を上げる。どんな女だろうか、そんな好奇心も含みつつ。相手は、俺を見ると思い出したかのように「あ」と抜けた声を出す。俺の顔を見て声を上げるならファンかもしれない、俺はスマートな対応をしようと王さまへの苛立ちで歪んだ顔を整え相手を見る。
待ってこの顔、見たことある。

「瀬名さんじゃないですか、こんばんは」

 俺の視線の先には今日も朝に会ったあのカフェ店員、苗字さんがいた。彼女は、大したリアクションを見せることなく「瀬名さん」と俺を呼ぶ。こんな人だったっけ、もっと表情の変化があったはず。本人で間違いはないのだけれど、なんというか、愛想がない。店にいた態度と全く違う彼女に、俺は呆然とする。動かない俺が気になったのか、苗字さんは首を傾げた。

「違いました?」
「……いや、そうだけどぉ」

 居た堪れなくなった俺は、顔を背ける。この人に対してはアイドルのままで接していたのに、一気にそれが崩れた。けれど、それに関して一切気にした素振りを見せないのはどうかと思う。出来ればこれ以上関わりたくない、そう思いつつ渋々視線を戻す。

「はぁ?だから弁償するって言ってたでしょお!?」
「すみません、瀬名さん動かなかったから」
「一声くらい掛けてくれないかなあ!?」

 気付けば苗字さんは、新しいビールを取りに向かっていた。俺は思わず大きな声を出してしまい、今さらながら恥ずかしくなる。老いぼれた店員以外、店内に人がいなくてよかった。ビールを片手に精算しようとしていた苗字さんに近寄り、そのビールを奪う。俺は王さまに食べさせるものを何個か手に取り、ビールと共に精算をした。

「瀬名さんよく食べるんですね」
「これは俺のじゃないからぁ」
「ああ、彼女とか」
「それも違う」

 後ろから覗き込むように見ていた苗字さんは、自分のペースを落とすことなく話し掛けてくる。いつも見たいな声の抑揚はなく、単調な喋りが少し気になる。機嫌悪かったりするわけ?

「すみません、買わせてしまって」
「俺の不注意だから、気にしなくていいのぉ」

 コンビニを出て、律儀に頭を下げる苗字さん。表情筋を店に置いてきたのかというくらい、表情に変化はない。さっさと帰ろう、俺は苗字さんに背を向け帰路に着こうとする。

「じゃあ、俺は帰るから」
「ああ、はい」

 そう言って歩き始めると、後ろからついて来る足音が聞こえた。はあ?まさかストーカーするつもりじゃないよねえ?さっきまであんな態度取っていたのは、俺を警戒させないためか。俺は、振り向いて苗字さんを睨みつける。

「ちょっとぉ、ストーカーは通報するよぉ」
「え?私の家もそっち方面なんです」
「あ、……そう」

 ややこしい事しないで欲しいんだけどぉ。俺は込み上げて来る恥ずかしさを抑えて、足早に歩き出す。けれど後ろから聞こえる足音が気になって、もう一度足を止めた。

backnext



ALICE+