Acidity


手元に戻されたチケットを見て、瀬名さんは固まる。申し訳ない事しちゃったなあ、でも私はあの空間にまだ行けない。

「予定あるの?」

言葉を探していたのだろう、少し間を置いてから瀬名さんは私に問い掛ける。別に、その日に予定はない。嘘を吐くために、頭を回転させる。なんて言えば良いんだろう、暑い夜に手が汗ばんで余計気持ちが悪い。

「……そうでは」
「じゃあ、なんで」

マスク姿の瀬名さんは、私に目だけで訴える。別に行きたくないわけじゃない。行けるものなら行ってる。でも、アイドルのライブを見れる勇気がまだ私にはない。確実に、真緒を思い出してしまうだろう。瀬名さんを見て、真緒を思い出してしまうこと。それが怖い。
それに、瀬名さんのユニットには凛月がいる。運が悪ければ、真緒も同じ場にいるかも知れない。最悪な展開を考えてしまう。私は、瀬名さんから目を逸らした。会話するときは目を合わせて、接客の基本すら出来ないや。

「私以外の人に、あげてください」

それじゃあ、私は急いでその場から逃れようとする。会釈をして、気づけばあと数十メートルの家へと足を動かそうと。

「待って」

その時、自分の手が瀬名さんによって掴まれた。私は、思わず瀬名さんの方を振り向く。すらりと長い指は、瀬名さんより幾分小さい私の手を強く握っていた。初めて触れるその手の感触、私の手汗は余計にひどくなる。

「曖昧にしないで、ちゃんと答えて」

瀬名さんは、マスクを下げて私に言葉をかける。少し焦りが含まれた表情を街灯が照らす。この人は、何でこんなに私に執着するのだろう。不意に、そんな事を思ってしまう。私とは、店員と客の関係。それ以上でも以下でもない。

「苗字さん」
「……アイドル、苦手なんです」

私は目が泳ぐ。いや、嘘は言っていない。ただ言葉不足なだけ、正しく言うとしたら「アイドル(を見ると元彼を思い出すから)、苦手なんです」ってところだけれども。こう言う時に、都合の良い嘘がつけない自分を恨む。絶対瀬名さん疑ってるよ。私は気まずくなりながらも、ゆっくりと瀬名さんに視線を向けた。

「瀬名さん」

視線の先にいる瀬名さんは、驚いた表情で私を見ていた。変な勘違いをさせてしまったのか、それとも傷つけたのか。罪悪感が私を襲う。その罪悪感を少しでも払拭しようと、もう一度名前を呼んだ。

「昔、アイドルと付き合ってたんです。だから、まだちょっと怖くて」

瀬名さんの瞳は、夜に溶け込みそうな程透き通って見えた。全てを見られているような、そんな瞳。アイドルってこういう目をする。ただのカフェ店員、一般人の私にはないような。ちょっとだけ、こわい。

「そいつと、俺は違うでしょお」

そう言って、瀬名さんは掴んでた手にもう一度チケットを握らせる。指を一本ずつ丁寧に折り曲げて、離さないように。

「違いますけども」
「じゃあ、大丈夫。そいつが誰かは知らないけれど、思い出させないから」

なんて自信だ。そんな確証、どこにもないのに。私だって、別れてからアイドルには一切触れてこなかった。むしろ避けてきたんだ。苦手だと決め込んだアイドルに、もう一度会いに行く勇気なんて持ち合わせていない。むしろ、もうお腹いっぱいなのに。
私は、手に握られたチケットを見る。それはまるで、地獄行きのチケットにも見えた。

「……気が向いたら」
「気向かせるから」

ゆっくりと瀬名さんの手が離される。気が向くことなんて、しばらくないだろうに。
ごめんね、瀬名さん。私は、瀬名さんを見て少しだけ笑った。



『人気アイドル、衣更真緒くんの私生活に迫ります!』
「タイミングが悪い……」

瀬名さんと別れた後、静かな部屋に音を求めてテレビをつけた。けれど、タイミングが悪すぎる。テレビ画面に映るのは、懐かしい真緒の笑顔。一度は、自分だけのものだと思っていた笑顔だ。
テレビを消してしまおうかと思ったけれど、リモコンを持ち直したところで私は止まってしまう。

『愛用してる物?ん〜こういうやつかな』

立ち尽くしたまま、テレビを眺める。家、引っ越したんだ。愛用していたシャンプーも、香水すらも違う物。もう私の知っている真緒は、過去の人物だと思い知らされる。分かってたよ、何年経ったと思ってるの。私が、ひとりで引きずってるんだから。

『あ!これ、人から貰ってずっと使ってるんです』

そう言いながら見せる物に、見覚えがあった。小さいコーヒーメーカー、それは数年前に私が真緒にあげた物だった。お洒落なアクセサリーとかじゃなくてごめんね、って言った事も、これで家でも飲めるな、なんて笑いながら喜んでくれた事も覚えている。

『もう暫く会ってない人なんだけど、元気かな』

照れたように、頬をかきながら真緒は笑う。元気だよ。私、あのままあそこのカフェで働いてるんだ。いつか、またやって来るんじゃないかって。そんな下らないこと思いながら。真緒は、知らないだろうけど。
テレビの画面を切らず、そのまま座り込む。テレビの向こうの真緒は、人当たりの良い笑顔で話している。それだけで、昔を思い出してしまうような気がした。あの手が私と繋がっていた日は、随分と前なのに。離れた日すら、昨日のように思い出してしまう。気づけば、頬に涙が伝っていた。私はそのまま、アルコールを求めてふらりと立ち上がった。

backnext



ALICE+